5.もう、虐げられはしませんわ
それからは何事もなく、わたくしはどんどん歩き続けていました。
そうしているうちに、ある屋敷の前にたどり着きます。そのまま気軽に、玄関をくぐりました。自分で扉を開けて。
玄関を出入りするのは、屋敷の主とその家族、それに訪問客。
いずれも、馬車で移動し従者を連れているのが普通です。こんな風に一人でやってきて、勝手に扉を開けて入ってくる者などいません。
屋敷の人間たちも、すぐに異常に気づいたようでした。ばたばたと大きな音を立てて、中年の女性が駆け寄ってきます。
「まあ! 本当に図々しい女ですこと! どの面下げてここにやってきたのかしら!!」
それは姑、いえ元姑でした。わたくしはまず、かつての嫁ぎ先であるここに足を運んだのです。
玄関を入ったところで突っ立っているわたくしに、元姑は眉をつり上げて歩み寄ってきました。
「やっと見つけたわ! あなた、何か悪い噂を流したんでしょう!?」
わたくしの襟首を引っつかみ、まるで鬼のような形相で、元姑はぎゃんぎゃんと吠え立てています。
「噂……? 何のことでしょうか」
まったくもって、身に覚えがありません。わたくしはここを追い出されてすぐに師匠と出会い、それからずっと修行に明け暮れていたのですから。
そもそも師匠以外の人間とろくに顔を合わせていませんし、噂など流せるはずもありません。
「まあ、この期に及んでとぼけるというの!? いいこと、よくお聞き。あなたを追い出した直後、私たち一家について悪い噂が流れ始めたのよ!!」
わたくしが落ち着き払っているのが腹立たしいのか、元姑の顔はもう真っ赤です。
「そのせいで、あの子に新しい嫁が来ないのよ! 全部、あなたのせいでしょう! この責任、どう取ってもらおうかしらね!!」
「責任……ですか」
「ええそうよ!! 責任!!」
元姑の叫び声にため息をついてから、軽く拳を握ります。そうして、すぐ近くにある元姑の腕にこつんと当てました。
「……奥義・壱転」
「ひいっ……!」
なんとも言えない悲鳴を上げて、元姑が床に転がりました。そんな彼女を見下ろして、淡々と言い放ちます。
「わたくしは噂など流しておりません。ですが、きっとあなたの普段の行いのせいでしょうね。あんな姑のいる家に嫁いだら恐ろしい目にあうと、そう考えた方がいたのでしょう」
すると、元姑の表情が変わりました。技が効いているせいで、ほんのわずかだけ。
その表情は、その目は、わたくしが何のことを言っているのか全く分からないと、そう言いたげでした。
ああ、この人は自覚がないのですね。日々自分がどれほどひどいことをしているのか。そう思ったら、急に腹が立ってきました。
「何だか騒がしいが、どうしたんだ?」
ちょうどその時、ひょっこりと元の舅までが顔を出しました。
ぽん。ぱたり。
考えるより先に、『奥義・壱転』を放っていました。あわわとか何とか、そんな感じの声を出して元舅が床に倒れます。たいそう間の抜けた声でした。
仲良く並んで寝転んで、揃って青ざめている二人。なんてお似合いの、最低な夫婦。
二人のすぐ近くに堂々と立ち、ゆっくりと口を開きました。
「あなたたちは、最低の義親でした」
自分でも驚いてしまうくらいに、毅然とした声が出ていました。
「この家に嫁いできてから、毎日が地獄でした」
そうして、語り続けます。一日中姑に見張られ、一挙手一投足に文句を言われ、粗末な扱いを受け続け。舅は舅で、いつも不義を働きかけようとしていて。
「わたくしの後、この家に嫁いでくる者がいないとか。それはとても良いことだと思います」
さっき元姑の話を聞いた時、心の底からそう思いました。
だって、わたくしのような思いをするかわいそうな女性が、これ以上増えずに済んだのですから。
「人を人とも思わない、そんなあなた方の血筋など、こんな愚かしい家など、絶えてしまえばいい」
ここに嫁いでからずっと、従順で口答えもせず、ただじっと耐え続けていたわたくし。
そんなわたくししか知らないこの二人には、すっかり変わってしまった今のわたくしの姿が信じられないのでしょう。
体は動かず声は出せないものの、かろうじて動く目だけで驚きを表現しています。
その時、ようやく気づきました。そういえば二人に、わたくしの力について説明していないのだと。
別に話してやる義理もないのですが、どうせならもう少し怖がらせてやりたい。わたくしが受けた苦しみを、少しでも二人に返してやるために。
ことさらに落ち着き払った、上品でしとやかな仕草で、にっこりと笑いかけました。
「……ああ、そうでした。お二人は、自分たちがどうして床に寝転がっているのか、理解できていませんよね」
床の二人が、目を見開いてじっとこちらを見つめています。驚き、戸惑い、いらだちを顔に貼りつけて。
そしてその中には、恐怖のかけらもちゃんと存在していました。
「わたくしは、力を得ました。その力を持ってすれば、このようにあなた方の自由を奪ってしまうくらいたやすいもの」
さっきから二人は、必死に動こうとあがいていました。まだ技はしっかりとかかっていますから、無駄な抵抗なのですが。
「……あなた方を生かすも殺すも、わたくしが好きに決められてしまうのですよ」
ふと、いたずら半分にそんなことを口にしてみました。
二人は一斉に真っ青になって、ろくに動かない口をもごもごさせています。その目に浮かぶ感情は、もはや恐怖一色。
命乞いでもしようというのでしょうか。よそから嫁いできたわたくしを死にたいほど追い詰めたこの人たちも、立場が逆になったとたんこの通り。どうにも、あっけないものです。
はあとため息をついて、背筋を伸ばしました。胸の内に込み上げる空しさを追い払うように。
「もう、ただあなた方に振り回されていた頃のわたくしとは違うのです。わたくしはわたくしの人生を、自分の足で歩いていく」
高らかに宣言し、そして遙か下にある二人の顔をちらりとにらみつけました。少なくとも、これ以上何かをしてこないよう、しっかりと釘を刺しておかなくては。
「これ以上わたくしの邪魔をするというのなら、容赦はしません。今よりずっと恐ろしい目にあう覚悟があるのなら、どうぞかかってきてください」
床の二人は、ただかすかに震えるだけでした。
威厳も何もない、哀れで愚かなごく普通の夫婦。わたくしが本気を出せば、今すぐにでもその生を終わりにできる。
ああ、わたくしをずっと苦しめていたのは、こんなちっぽけな相手だったのか。
「……わたくしが本当に恨み言をぶちまけたかったのは、復讐したかったのは……あなた方ではなかったのかもしれません」
二人には聞こえないように口の中だけでそうつぶやいて、すっときびすを返しました。