2.ひとつの出会い
「どうした、馬車から落っこちたか?」
やけに陽気な声で話しかけてきたのは、男性の三人組。まだ壮年といったところでしょうに、年の割にはやけに不健康な顔色です。
「もしかして、この先の町に用があるのか?」
「俺たちでよければ送ってやるぜ」
「もちろん、ただじゃねえけどな」
そう言って三人はがらがらと笑っています。この人たちについていってはいけない。そう悟ったわたくしは、軽く会釈して口を開きました。
「お気持ちだけいただいておきます。それでは、失礼……」
「おい、待ちやがれ!」
わたくしが逃げようとしたとたん、彼らの雰囲気が変わりました。笑みが消え失せ、目つきが鋭くなって。
中の一人が、わたくしの腕をがっちりとつかみました。
「は、離してください!」
しかしどれたけもがこうとも、男の腕は外れません。いえ、ますます力が強くなっています。
このままでは、大変なことになってしまう。萎えそうな心を奮い立たせて、とっさに男の手に噛みつきました。今のわたくしにできそうなことは、それくらいしかなかったのです。
でも、駄目でした。
「ちっ! 一人前に反撃しやがって! おい、それ以上騒ぐと今すぐ殺すぞ」
そうして、首にひやりとした感触。恐ろしくて確かめることすらできませんが、たぶん何か刃物が当てられているのでしょう。
「どうする、この女? 売り飛ばそうにも、こう反抗的だと……力ずくでおとなしくさせるか?」
「荷物だけいただいてずらかろうぜ。叫び声でも上げられたら面倒だ」
「そうだな。そっちのトランクの中身だけでも、いい金になりそうだ」
「じゃ、さっさと口を封じるか」
どうやらこの男たちは、ここでわたくしを亡き者にしようとしているのでしょう。
恐ろしかった。けれどそれ以上に、哀しかった。
わたくしは、幸せを知らない。いつか幸せになれる日も来るのではないかと、ただそんな希望だけを抱いて生きてきたのに。
もう、そんな日は来ない。
「命乞いもできないほど怖いのか? いいぜ、一瞬で終わらせてやるよ!」
男が叫びました。覚悟を決めて目をぎゅっとつむり、震えをこらえます。
次の瞬間、疾風が辺りを駆け抜けました。
わたくしの命を奪うはずの刃は、いつまでもやってきませんでした。気がつけば、男たちの声も止んでいます。
「君、大丈夫か?」
次に聞こえてきたのは、そんな声。しっとりと落ち着いた、頼もしさを感じさせる男性の声です。
その声にうながされるようにして、そろそろと目を開けてみました。
すると、心配そうにわたくしの顔をのぞき込む知らない男性と目が合いました。わたくしより一回りほど年上でしょうか。とても凛々しい、優しそうな殿方でした。
「怖い思いをしただろう。駆けつけるのが遅れて、すまなかった」
「あ、いえ、ありがとうございます……」
彼の肩越しに、倒れ伏している男たちの姿が見えました。一瞬のことで何が起こったのかは全く分かりませんが、おそらく彼がこの男たちを倒してくれたのでしょう。
そろそろと礼を言うと、彼は深々とため息をつきました。独り言のように、何かつぶやいています。
「最近治安が落ち着いているから、つい油断してしまった。街道の警備を厳重にするよう、また頼んでおかなければ……」
そうして彼は、わたくしの目をまっすぐに見つめました。とても心配そうな、温かく優しい目でした。こんな目を向けられたのは、生まれて初めてかもしれません。
「俺はアーネスト。この近くに住む者だ。どうやら君は貴族の令嬢のようだが……君、名前は?」
「……ビアンカ、と申します」
あまりにも色々なことがあったせいか、頭がぼんやりしています。
尋ねられるまま名乗ると、アーネストはにっこりと笑いました。わたくしを安心させようとしているような、そんな笑みでした。
そしてその時ようやく、自分は助かったのだと理解できました。
さっきの男たちとは違い、このアーネストという方は信頼できる。根拠はありませんが、そう感じました。
「連れの者とはぐれたのか? 少し待っていてくれ、探してくるから」
「……いえ……わたくしは、一人きりなのです」
きびきびと男たちを縛り上げているアーネストにそう答えると、彼の動きがぴたりと止まりました。
「嫁ぎ先を、身一つで追い出されました……実家は、遠くて……」
初対面の相手にこんなことを話すなんてはしたない、そう思います。けれど、話さずにはいられませんでした。アーネストならきっと聞いてくれる、そう思ってしまいました。
けれど、言葉にできたのはそこまででした。自然と涙がこぼれて、頬を伝っていきます。
いきなり泣き出したら、アーネストを戸惑わせてしまいます。そう考えて、一生懸命に涙をこらえようとしました。
ところがその時、そんなわたくしを見てアーネストが静かに言いました。
「……そうか、君は大変な目にあってきたんだな」
彼の声はとても温かく、思いやりにあふれていました。今まで一度もかけてもらえなかった、わたくしを気遣う言葉と優しい思い。
それが嬉しくて嬉しくて、気がつけばわたくしは声を上げて泣きじゃくっていました。一度も言葉にできなかった苦しみが、次から次からあふれていくのを感じながら。
「落ち着いたか? 何もない小屋で悪いな」
それから少し後、わたくしはアーネストの家にいました。彼はなおもぐすぐすと泣き続けているわたくしの手を引いて、ここまで連れてきてくれたのです。
「あそこからなら、町よりもここの方が近いからな。もう日も暮れてしまったし」
そう言って、彼はわたくしの前にコップを置きました。温かな湯気を上げているそれを手に取ると、優しい香りがふわんと鼻をくすぐります。
「この辺りの薬草で作った薬草茶だ。体も心も温めてくれる。君の口に合うといいんだが」
「……ありがとうございます。とても、おいしいです」
その薬草茶はちょっと苦くて不思議な香りがしましたが、今までで一番美味なように思えました。
素直にそう答えたら、アーネストはほっとしたように笑ってくれました。その顔を見ていたら、またじんと胸が熱くなりました。
「それなら良かった……その、色々と大変な目にあったようだが、今夜はここに泊まっていくといい。夜の森は危ないからな」
一気にそう言って、それから彼はちょっぴり気まずそうに視線をそらします。
「……君さえよければ、だが。その、俺は隣の物置で休むから、小屋の内側から鍵をかけてくれればいい。そうすれば、君は安全に休める」
「いえ、助けていただいた上に、そのようなことまで……」
「だが、君のようなか弱い女性を物置に、というのは……かといって、これから夜の森を抜けるのも……」
気づけば、押し問答になっていました。けれど、そんなことすら嬉しかったのです。
だって今までのわたくしの人生では、いつも一方的に命じられるばかりでしたから。押し問答も、これが初めてでした。
自然と微笑みながら、わたくしは生まれて初めての経験を楽しんでいました。
結局その晩はわたくしが押し切られ、わたくしはアーネストが普段使っている寝台で、アーネストは小屋の隣にある物置で休むことになりました。
小屋の内側から鍵をかけようかしばらく迷って、結局入り口は開けたままにしておきました。
出会ったばかりのアーネストにそこまで気を許すべきではないと分かってはいました。けれど鍵をかけてしまったら、このふわふわと温かい気持ちもどこかにいってしまうような、そんな気もしていたのです。
そうして寝台に横たわって目を閉じたとたん、すぐに優しい眠りがやってきました。
嫁ぎ先を追い出された時の心細さは、もうすっかり消えていました。
次の朝、アーネストが手際よく用意してくれた食事をとりながら、あれこれとお喋りをしました。
わたくしは、ひたすらに彼のことが気になっていました。
どうしてこんなところで暮らしているのか、どうしてあの男たちを一瞬で倒せたのか、どうしてこんなによくしてくれるのか。
けれど彼は慎み深く、中々自分のことを語ろうとしませんでした。熱心に頼み込んで、ようやく彼は重い口を開いてくれたのです。
彼は若くして実力を買われて騎士となったものの、数年前に周囲の反対を振り切って引退し、こんな森の中でただ一人静かに暮らしているのだとか。
「俺の家は代々拳法を受け継いでいるんだ。騎士になったのも、そこから何か学ぶことがあるかと思ってのことだった」
「そうだったのですか……。ところでその『拳法』というのは、どういったものなのでしょうか?」
「戦うための技だが、剣も槍も使わない。必要なのは己の拳だけ……いや、正確にはそうではないな」
彼はそこで言葉を切り、自分の拳をじっと見つめています。
「それを極めると、瞬き一つで他者を思うまま圧倒できるらしい。しかも、傷一つつけることなく」
「瞬きで、ですか……」
「信じがたい話だが、そうらしいんだ。この拳法では、何より心の強さが重視される。心を鍛えれば、おのずと技も磨かれる。腕力や体力を鍛えるのは、ただ心を鍛えるためで」
その言葉に、心が動きました。腕っぷしが弱くとも、心の強さがあれば他者を圧倒できる。そんな方法があるなんて、想像もしませんでした。
……そんな力が、欲しい。もう、誰かの言いなりになっていたくない。自分の人生をきちんと生きるためには、きっと力が必要だ。他者に圧倒されないための力が。
そんな思いが、ふつふつとわいてきます。気づけばわたくしは、立ち上がり身を乗り出していました。
「お願いです、わたくしにもその『拳法』を教えてください!!」