1.ろくでもない走馬燈
思えばわたくしの人生、ろくなことがありませんでした。
それなりの伯爵家に生まれ、一人前の令嬢となるべく教育を受けてきました。
けれど今わたくしは、人里離れた森の中で、賊の手にかかり命を落とそうとしているのです。まだ十八歳でしかないというのに。短い人生でした。
悔しさに唇を噛むわたくしに、禍々しい刃が迫っていました。
◇
わたくしには、愛された記憶が一つもありません。
両親は体の弱い妹ばかり可愛がっていて、わたくしのことを顧みることは一度だってなかったのです。
ずっとそのことを寂しく思っていましたが、両親の手をわずらわせてはならないと、何も言えずにいました。
そうしてたっぷりの愛情を浴びてすくすくと育った妹は、次第にわたくしを下に見るようになっていました。
妹は両親の愛も、素敵な贈り物も、全部独り占め。そうして面倒ごとは、全てわたくしに押しつけて。
けれどわたくしは、そんな妹に強く出ることができませんでした。
形だけでも妹を可愛がっていれば、いつか両親もこちらを見てくれるのではないか。そんなありそうもない夢にすがっていたのです。
けれど妹は、日に日に増長するばかり。気がつけばわたくしは、まるで妹の召使のような存在になってしまっていました。
両親に、妹に愛されようと努力しても努力しても、少しも報われることはない。そんな状況が続いたせいか、もうこの状況にあらがう気力すら残っていませんでした。
そして年頃になった妹は、一見するとたおやかでか弱く見える美しい女性に育ち上がっていました。多くの殿方が彼女のことを噂し、ひっそりと心寄せるほどに。
妹のもとには、毎日のように恋文が届くようになっていました。両親はわたくしの嫁ぎ先を探すことも忘れて、妹と笑い合っていました。
両親の前では、妹はいい子。ちょっとわがままで甘ったれなところもありますが、純真な娘を演じていました。
けれど彼女はわたくしと二人きりになると、まるで違う姿を見せていました。「みんな必死になっちゃって、馬鹿みたい。そこらの男に私が嫁ぐとでも思ったの?」と言って、いただいた恋文を全て暖炉に放り込もうとしたのです。
あわてて、彼女を止めました。その手紙にはみなさまの真心がこもっているのです、粗末にしてはなりませんよ、と。
しかしそれが気に入らなかったのでしょう、妹は偉そうな声で言いました。
「だったら、この手紙の返事をお姉様が書いてちょうだい。もちろん、全てお断りの返事よ。それも、今晩中に。お姉様の考えでいえば、あちら様を待たせるのだって、失礼なのでしょう?」
わたくしが反論する隙すら与えず、妹はすらすらと喋り続けています。
「お姉様のおっしゃる通り、本当なら私が書くべきなのでしょうね。でもお、私は体が弱いから。そんなことをしたら熱を出してしまうわ。だからお願いね、お優しいお姉様?」
そうして、彼女は笑いました。とても純粋で愛らしい、けれど虫をいたぶるような残忍さを秘めた顔で。わたくしは、もう何も言い返せませんでした。
結局わたくしは、一晩中返事を書き続けるはめになりました。最後の一通を書き上げた時には、もう東の空は明るくなっていました。
そんな目にあいながらも、わたくしはまだ希望を手放してはいませんでした。
いつか妹と分かり合えて、両親がこちらを見てくれる日が来るかもしれない、そんな希望を。
でも、そんなことを信じていられたのも、あの日まででした。
「わたくしに、縁談……ですか?」
ある日わたくしを呼び出した両親は、ためらうことなくうなずきました。
「ぜひ我が家と縁続きになりたい、と申し出てくれた家があってな」
「本当は、あちらはこの子を望んでいたのだけれど」
そんなことを言っている両親の間には、いつも通りに微笑む妹。
「この子は体が弱いからな。外に出して苦労させるよりも、婿を取らせてここに残らせようと思うのだ」
「だからあなたが、あちらに嫁いでちょうだい。そうすればみんな丸く収まるのよ」
「先方にはもう話を通してあるから、あとはお前が身一つで嫁げばいい」
わたくしの意思を問うこともなく、当然といった顔で両親は晴れやかに笑ったのでした。
「よかったわね、お姉様」
ひときわあでやかに笑う妹の顔には、紛れもない優越と、見下したような色が浮かんでいました。
そうして、わたくしは別の家へと嫁いでいきました。たった一人、見送る者すらなく。
ちょうどその日の朝、妹が熱を出してしまったのです。そのせいで、両親はまたしても妹につきっきりになってしまったのです。
残念だという思いより、やはりこうなったかという思いのほうが勝っていました。
空しさを抱えて馬車に揺られながら、嫁ぎ先について思いをはせました。
そこは一体、どのようなところなのだろう。新しい家族と共に、今度こそ幸せになれるだろうか。ほんのりとした期待を抱きながら。
けれどそんなわたくしのささやかな期待は、やはりあっさりと裏切られてしまいました。
わたくしを出迎えたのは夫となる人ではなく、その両親だけ。
「まったく、年増の娘をよこしてくるなんて……あなたが我が家にふさわしいかどうか、これからじっくりと見定めますから」
夫の母、姑は見るからに性格のきつそうな女性でした。忌々しいと言わんばかりの目で、わたくしをにらみつけています。
その視線は人間に対するものというより、馬か何かを品定めしているかのようなものでした。
この屋敷のメイドはきっと苦労しているのだろうなと、そんなことを思わずにはいられませんでした。それくらいに、姑の表情は意地の悪いものだったのです。
「しかし、いい肉付きじゃないか……息子にやってしまうのは少々惜しいな」
夫の父、舅は明らかに好色そうな目でわたくしを見ています。姑ににらまれていましたが、少しも気にした様子はありません。
姑も舅も、少しも好感の持てない人物でした。この二人が、これからわたくしの義理の両親となってしまうのです。しかも、夫はまだ姿を見せません。
こんなところで、嫁としてやっていけるのでしょうか。泣きたいのを我慢して、そっと頭を下げました。
そして案の定、新しい生活は最悪でした。
姑は朝から晩までわたくしのそばに張り付き、一日中小言を言い続けました。
わたくしは礼儀作法も針仕事の腕も、人並み以上だと自負しています。両親に認めてもらいたい、その一心で頑張ったのです。
結局、両親は一度だって褒めてはくれませんでしたが、社交界で恥ずかしい思いをしたことはありません。
でも姑は、そのことが気に入らなかったようでした。おそらく彼女は、わたくしを駄目な嫁としていびりたかったのでしょう。妹のほうが欲しかったのに姉を押し付けられた、その不満のはけ口として。
彼女の執念は、恐ろしいものでした。わたくしのささいな粗を見つけ出してはねちねちと嫌味を言い、時にはわたくしがやり遂げたものをぶち壊して、もう一度最初からやり直せと命じてきたり。
どうにかこうにか姑の目を逃れほっと一息ついていると、今度は舅がこそこそと近づいてくるのです。いやらしい笑みを浮かべながら。
彼は彼で、隙あらばわたくしを口説いてくるのです。彼はどうやら、わたくしを自分の愛人にしようとしているようでした。
幸い、強引に迫ってくることこそなかったのですけれど、それでもあのにやにや笑いを相手にしているのは、とても疲れることでした。
そして肝心の夫は、行方をくらましていました。なんと彼は、わたくしが嫁いでくる前の日に屋敷を飛び出していたのです。それきり、一度も帰宅していません。
夫は、まだ結婚する気などさらさらなかったようなのです。もっと独り身を満喫していたいと、そう考えているようでした。
彼は友人たちのところを泊まり歩き自由気ままに過ごす、そんな生活を送っているのだと、風の噂に聞いてしまいました。
この結婚は、どうやら姑とうちの両親によって組まれた政略結婚のようでした。おそらく両親は、最初からわたくしをここに差し出すつもりだったのでしょう。
一瞬たりとも心の休まらない、つらい日々。日に日にやつれていく鏡の中の自分の姿を見て、ついにわたくしは決意しました。
もう、ここにはいられません。実家に帰りましょう。こんな目にあうくらいなら、実家で寂しく暮らしていたほうがずっとましです。
そう考えて、大急ぎで荷造りを始めました。最低限の身のまわりのものだけを、小振りのトランクに詰め込みます。
あとは小さな馬車をこっそりと借りて、見つかる前に屋敷を飛び出すだけ。
だったのですが。
「おや、どこに逃げ出すつもりなの? ああ、きっと男のところね。お前はしょっちゅううちの夫を誘惑していたようだから、よそに男くらいいても驚かないわ」
わたくしの部屋の前に立っていたのは、見下すような笑みを浮かべた姑でした。
「ちょうどいいわ、私もお前のできの悪さにうんざりしていたところなの。不義を働く嫁なんていらないわ、出ていってちょうだい、今すぐに!」
そうしてわたくしは、文字通り屋敷の外に放り出されてしまいました。トランクだけは持ち出せたものの、他には何もなく。
ここから実家まで、歩いて帰ることは不可能でしょう。一度最寄りの町に向かい、そこで家にあてて手紙を書くしかありません。
重いトランクをしっかりと持って、ただ一人歩き出しました。一度も、振り返ることなく。
最寄りの町への道は、とても険しいものでした。道こそきちんとしているものの、山を一つ越えなくてはならないのです。
それでも初めのうちは、足取りも軽く進んでいました。予定とは違うものの、これでやっとあの嫁ぎ先から解放されたから。
もしかしたら両親は、傷ついたわたくしを温かく出迎えてくれるかもしれない。いずれまたどこかに嫁ぐことになるのでしょうが、それでもあの嫁ぎ先よりはずっとましです。
うっそうとした森の中の風景とはまるで正反対に、わたくしの心は明るかったのです。
けれどそれも、長くは続きませんでした。
慣れない山歩きに足は疲れ果て、トランクは鉛でも詰まっているかのように重く、そして空は暮れ始めていました。
町はまだ影も形も見えません。このままでは、森の中で一夜を過ごすことになってしまいます。
胸の中には焦りが満ちていました。そうして必死に足を進めるわたくしに、いきなり野太い声がかけられました。
「貴族のお嬢さんがこんなところに一人きりたあ、珍しいこともあるもんだぜ」