09 ニアミスの婚約者
翌朝。こんなにも気持ちよく目が覚めたのはいつぶりだろうか。昨夜はまるで遠出前の子供のように興奮してなかなか寝付くことが出来なかったが、今朝はいつもよりも幾らか早く目が覚めた。多少睡眠不足ではあるがそんなことなど気にならないくらい晴れやかな気分だ。
今夜やっとローズベリーに会えるんだから。
日中は特に公務などの予定もないのでカジュアルな薄手のジャケットを羽織り、朝食も自室内で手軽に食べられるように果物の盛り合わせを用意させ、さっと済ませる。
何の予定もない日にジスデリアができることといえば限られていた。部屋のカーテンを全て閉める。先ほどまでとってもいい気分だったのに今度は急に憂鬱でたまらない。仕方ない、悪いのはすべて自分なのだから。
ソファに深くもたれ掛かるといつものように囁くような小さな声で呪文を唱える。
その紺碧の瞳はひどく冷たい色をしていた。
◇ ◇ ◇
日が傾き始めるとキースと二人の侍女が部屋に入ってきた。キースはすでに晩餐のために着替えを済ませたようで、シックなグレーのコートに身を包んでいた。侍女の一人はティーセットをテーブルの上にセッティングし始める。
「ジスデリアさまそろそろお召替えのお時間でございます」
「温かい紅茶もご用意しましたのでどうぞお召し上がりくださいませ」
「うん、ありがとうねえ」
ジスデリアはひどく気力を消耗し疲れていたが、その様子はなるべく見せないように侍女たちにお礼の言葉を述べた。その様子をキースは少し離れたところから静かに見守っている。
「特に異常はないようだから私は戻るよ」
「はーい。また後でね、兄さん」
侍女が用意した衣装に着替え終わるころにはすっかり日は落ち、外には暗闇が広がっていた。
鏡に映る自分はあの頃よりもうんと身長は伸び、モスグリーンのコートと相まって顔立ちも少し大人っぽく見えるような気がした。
もうそろそろ彼女が到着する頃だろうか。ローズベリーに格好良くなった、って思ってもらえたらいいな。
ジスデリアはジュエリーボックスから幼いころローズベリーからもらったブローチを手に取る。だがすぐにしまい直した。モスグリーンのコートに真っ青のサファイアのブローチはなんだか合わないような気がしたし、久しぶりの再会で高々とブローチを身に着けていくのも少々気恥ずかしかった。ローズベリーとはこれから幾らでも会えるようになるのだし無理して今着けていくこともない。
「それじゃあ行こうか」
廊下に出ると何やら城内が騒がしい。どうやらジルスチュアード家が到着したようだった。冷静を装いつつも逸る気持ちを抑えられなかったジスデリアがやや小走りで玄関ホールに向かう。いつもより距離があるように感じたがようやく玄関ホールに到着した。
そこにいたのはジルスチュアード公爵と公爵夫人、それからヨシュアに、マルガレット。その四人だけだった。ジスデリアの存在に一早く気が付いたヨシュアは少し気まずそうに首を抑えながら言う。
「こんばんはジスデリア王子、昨日ぶりですね」
「あ、うん、ヨシュアくん、今夜はようこそ来てくれたね」
そういえばヨシュアは昨日、また近々会えるような気がすると言っていたがこのことだったのか。
それよりも今夜の主役の一人であるローズベリーの姿がない。
そのくせして、主役でもないのにマルガレットは昨日とはまた違った煌びやかなドレスやジュエリーを身に纏っている。ネイビーのドレスは一見シンプルだが、小粒のクリスタルがあちらこちらに散りばめられているようで照明を反射するたびにキラキラ輝いている。首には大粒のクリスタルが連なったネックレスがぶら下がっていて、性格に似合わず本当に派手な格好が好きなやつだなとジスデリアは思った。
「わざわざジスデリア殿下直々にお迎えに来てくださるとは」
ジルスチュアード公爵は随分嬉しそうだった。
「いえ、とんでもない……それより、あの、ローズベリーの姿が見当たりませんが」
「これは申し訳ございません。娘のローズベリーは現在隣国のバーデンで王女さまのレディズ・コンパニオンをしておりまして……そのため本日は欠席させて頂いております。殿下と娘マルガレットの結婚式の際にはローズベリーも一時帰国し、式に参列することでしょうから今夜はどうぞお許しください」
ジスデリアの頭の中はクエスチョンマークが並び、首を傾げたくなるほど何もかもが理解できなかった。ジルスチュアード夫人の隣に立つマルガレットと目が合う。彼女は遠慮がちに会釈してきた。どういうことだ。わけがわからない。
「ジルスチュアード公爵家の皆さま、今夜は連日に渡りわざわざ王宮までお越しくださりありがとうございます。父と母もすぐに参りますので良ければお先に食堂にご案内します。どうぞこちらへ」
現れたキースはそのままジルスチュアード家の者たちを食堂へ誘導していく。どうしてもこの状況を掴むことのできないジスデリアは半ばやけにマルガレットの腕を引き食堂に行こうとするのを阻止した。
「やあ、昨日ぶり。ねえ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
突然のことにマルガレットは小さく悲鳴を上げそうになったがジスデリアは咄嗟に彼女の口元を手で抑えた。
「は、はい、なんでしょうか……」
早く行かないとみんなが心配してしまうかもとマルガレットは不安そうにぼやいたがそれは無視した。
「ぼくの勘違いだと思うんだけどさ……まさか婚約者ってきみのことじゃないよね?」
どうか自分の勘違いであってくれと心の底から思った。でないと昨日の夜から今日にかけて浮かれていた自分がどうしようもない馬鹿ってことになってしまう。
ジスデリアの苛立ちはマルガレットにもビリビリ伝わったようで、彼女はドレスの端を指先で握りしめ唇をぎゅっと嚙んだ。
「えっと、あの、わたくし出来るだけジスデリアさまのご迷惑にならないよう精一杯サポートさせていただきますから」
「うわ、それ本当に言ってる?」
「も、申し訳ございません」
何をどういうわけか分からないが父さんは幼いころぼくが遊んでいた相手をローズベリーではなくマルガレットだと勘違いしていたらしい。昨日きちんと名前まで確認するべきだった。これは完全なるぼくのミスだ。
マルガレットはジスデリアの一挙一動に敏感に反応し、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「いや、今のは言い方が悪かったかな。きみを責めたいわけじゃなくてつまりね、ぼくはローズベリーが好きなんだ。昨日父さんに結婚の話をされたんだけど、どうも話が嚙み合ってなかったみたいできみとローズベリーを勘違いしちゃったんだよ」
マルガレットはぽかんとした様子でジスデリアの言葉に耳を傾けた。自分が責められているわけではないと分かると少しだけ安心したようだ。
現実の王族や貴族の恋愛なんてそんなものだよね。本当に好きな人と結ばれることなんてほぼゼロに等しいことなんだ。まさか想い人の妹と結婚することになるなんてさ。そんなニアミスある? ああ、でも、そういえばこの子も同じようなものか。
「きみも残念だったね。結婚相手がキースじゃなくてぼくだなんてさ」