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16 ベルガモッドの香り


 ジスデリアは少しの間考える仕草をしたあと、まるで公で見せるような柔らかな表情でにっこりと微笑んだ。 


「いいよ、じゃあきみに紅茶を淹れてもらおうかな」

「……紅茶の種類に何かご希望はございますか?」

「ううん、それもきみに任せるよ」

「かしこまりました」


 ジスデリアは紅茶が出来上がるまでの間読書をするつもりらしい。本棚から一冊を手に取るとソファにゆったり腰を下ろし早速本を開いた。マルガレットも気を取られまいと準備に取り掛かる。まず湯沸かし用の銅のポットに水を入れ火にかけ、その間にキャビネットから良さそうな茶葉を探した。世界中の一流の茶葉が取り揃えてあることからジスデリアはよっぽど紅茶が好きなようだ。


 どの茶葉を選ぶかもきっとジスデリアさまは見ているはずだわ。


 茶葉を選び終えると次にティーセットをシンクの上に運んでいく。そうしているうちにポットからぽこぽこと沸騰の合図がした。沸いた湯はすぐにガラスのポットとティーカップに注いだ。冷たいポットやティーカップは事前に温めておくことで紅茶の保温効果を高めることができるからだ。

 実は紅茶というのは手間をかければかけるほど旨くなる。そのためにはポットなんて三つも使う。湯沸かし用の銅のポット、紅茶を作成するためのガラスのポット、そして保存用の陶器のティーポットだ。東洋の国のようにティーポット自体がガラス製というのは確かに珍しいが、この国でも紅茶を作成するときは大抵ガラス製のポットを使用する。

 もう一度湯が沸いたら今度はガラスのポットの湯をティーポットに移し、温めていく。温まったガラスのポットには茶葉を二杯入れ、さらに沸騰したお湯を勢いよく注ぐ。すぐに蓋をして二分半から三分ほど蒸らして――


 いい香り。これならジスデリアさまを唸らせることができるわ


 

「ノーリーズのアールグレイだね」


 ジスデリアは紅茶が注がれたティーカップを持ち上げると鼻腔に抜ける香りを楽しんでいた。さすが勝負に乗っただけのことはあって銘柄を当てるのは容易らしい。


「香りはまあまあじゃない?」

「まあまあ、ですか」


 マルガレットはどきどきしながらもティーカップを口元に運ぶジスデリアの様子を静かに見守った。唇がティーカップに触れる瞬間はなにやら艶めかしさすら感じ、まるで見てはいけないものを見ているかのようなそんな緊張感が走った。ジスデリアはゆっくりと紅茶を嚥下(えんか)する。


「どうでしょうか」

「ねえ、どうしてアールグレイにしたの?」

「寝起きには柑橘のフレーバーティーであるアールグレイがさっぱりして目覚めにぴったりかなと思ったのです」

「そう。最後の一滴(ゴールデンドロップ)も残さず淹れていたのは感心したよ。ちなみに誰に習ったの? 使用人?」


 マルガレットは口をつぐみかけて、開いた。


「姉です」


 そうかローズベリーか! と、ジスデリアの表情がぱっと明るくなる。ジスデリアも人のことを言えないくらいローズベリーに対して未練たらたらではないかともやもやしかけたが紅茶と一緒に飲み込んだ。紅茶は美味しかった。我ながらローズベリーに教わり始めた当初と比べるとかなり上手に淹れられるようになったのではないかとマルガレットの口元が緩む。


「まあ、思っていたより美味しかったかな」

「じゃあ、もう……」

「ていうかぼく、そもそも別にきみに意地悪とかしてないけど」


 けろっと言いのけるジスデリアにマルガレットは何も言い返せなかった。


「あ、もしかして舞踏会の日のこととかを言ってる? でもあれはきみがいるなんて知らなかったんだもの」

「いえ、そのあとにも酷いことをたくさん言っていましたわ。馬鹿とか、その……マゾヒストとか」

「ああ、そんなこともあったね」


 まるでどこ吹く風のジスデリアには何を言っても無駄なのだろう。そう思いつつもマルガレットはつい自分の毛先を撫でつけながら呟いた。


「……実はわたし、初めてお会いしたときからちょっとだけジスデリアさまのことが苦手だったんです。きらきらとしていて、どこから見ても完璧な王子様だったから、わたしには眩しすぎるお方だなって」


 ジスデリアの視線はこちらには向いていなかったが、きちんと耳を傾けてくれているのはなんとなく分かった。マルガレットも相槌を待つことなく続ける。


「だから舞踏会の日に素顔を知って、少しだけ安心しました。遠い存在だと思って勝手に敬遠していたジスデリアさまは思っていたよりもずっと普通の男の子だったから」

「なにそれ、随分失礼な物言いじゃない」


 ちっ、と小さく舌打ちするジスデリアは本気で怒っているわけではなさそうだ。それを見て、マルガレットも砕けたようにふふと笑みを零す。 


「あの日、あの場所で出会っていなかったらきっとわたしたちは今も仮面を被ったままお茶をしていたのかなって思うと、やっぱりあのときばったり出会ったのには何か意味があるのかもしれません。……あれ、でもそれだとあのときジスデリアさまにぼろくそ言われてよかったってことになってしまうのでしょうか」

「あはは、何言ってるのきみ」


 首を傾げて深く考えるマルガレットに対してジスデリアは「本当にお馬鹿だよね、笑いすぎて涙出た」と目尻に涙を浮かべている。


「だからその、ばかばか言わないでください」

「そこがきみの良いところでもあるんじゃない」

「ばかなところがですか?」

「そうだよ」


 マルガレットは納得のいかない様子でジスデリアを睨みつけたが、ジスデリアもまた楽しそうに真っ向からマルガレットを見やる。見つめあう状態はしばらく続いたが数十秒経つとほぼ同時に限界が訪れ、マルガレットは口と目をぎゅっとすぼめ、ジスデリアは咄嗟に顔を逸らした。


「ぼくさ、婚約の相手がきみでよかったって思ってるんだ」


 一体何の冗談だろうか。また上げて落とす作戦に違いない。そう思ったもののなんて返したらよいか分からず言い淀んでいると、ジスデリアは深くソファにもたれ掛かると短く溜め息を漏らした。


「疑っているでしょう、でもこれは本当。こないだの誕生パーティーの日に思ったんだ。……ぼくさ、前は相手が誰だろうととりあえず婚約さえしてしまえばもう厄介な令嬢たちに追い掛け回されることもなくなるしラッキーって思っていたんだ。婚約者の存在はほかの令嬢からの誘いを断る言い訳にもなるしね」


 なんてあどけない『ラッキー』の言い方だろうか。本人はオンの状態でいるつもりはないのだろうが、すっかりそのキャラクターが板についているようでまるでいたずらっ子の少年のようだった。おもむろに立ち上がったジスデリアは茶葉が並ぶキャビネットに近付き、何かを探し始める。


「だけど考えてみた。もしきみ以外の女性が婚約者だったとして、ぼくはその女性(ひと)に素の自分を見せることができたのかなってね。例えそれがあのローズベリーだとしてもたぶん、できない。マルガレット、本当はきみにだって知られたくなかった。誰にも曝け出すつもりはつもりはなかったんだ、だってきっとそれはいつか自分の弱みになってしまうから」


 そう告げるジスデリアの背中はどこか寂しげだった。


「だからさ、むしろ今すごく清々しい気分なんだよね。婚約者に選ばれたきみにはすでに素の自分を知られてしまっているから、もう取り繕う理由もなくなっちゃった。それにほら、きみはあんまり誰かに言いふらすような子じゃないでしょ」

 

 探していたものを見つけたらしいジスデリアは再びこちらにやってくる。その腕の中には淡いブルーの平べったい缶が抱えられていた。


「……本当は国中に言いふらしたいくらいですけど、し、仕返しが怖いですから」

「そういうことを言うような子にはこれ、あげたくないんだけど」


 そう言いつつもジスデリアが差し出したのはクッキーの詰め合わせだった。


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