海辺のこの町に
ガタガタうっせぇんだよ、おまえみたいな人間がいるから!業績?知るかバカッ!!
ひときわ大きな怒鳴り声が課のフロアに響き渡る。視線の先で固まる上司と、俺自身は全身が震え顔が熱い。きっと真っ赤だと思う。両手のこぶしを強く握りこみ、張り付いたその場の空気は最悪だった。
大学卒業後ブラック企業で働いていた。
でも大学在学中からずっとあこがれていた業界の会社でもあった。当時、俺には目指す夢、そして希望があったから、そのための勉強も他の人よりはたくさんこなしてきたし、学業とは別に将来が有利になると思った資格も積極的に取得した。そして就職活動も精力的にこなしてきたんだ。
そのかいがあって今の会社から内定をもらえた時は、飛び上がって右手を振り上げガッツポーズ。とても嬉しかったし、夢に一歩近づいた気持ちにもなれて自信にもつながった。
大学を出て入社後も気力はすごく充実していたし、少しくらいの事でへこたれるか!って覚悟もしていたから、少々の問題事なら何にも苦にならなかった。毎日まいにち、食うのも寝るのも惜しんで働いて夢をかなえるため、これが当たり前だと思っていた。
しかし俺が所属していた部署の課の上司が最悪な人物で、その日の気分で部下への態度をコロコロ変え、気に入らないことがあるとすぐ切れてパワハラ、モラハラが当たり前だった。俺自身も徹夜で考えまとめ上げた企画を奪われたり、定時の帰り際に上司自身の仕事を押し付けられてサービス残業。時間をかけ営業をし苦労して勝ちえた契約もかすめ取られて上司の成績。理由は分からないが俺ははっきりと目をつけられていた。必死で仕事に取り組む姿勢が煙たかったかもしれない。しかしまぁなんでこんな男が管理職なんだ?
そして今日も上司からくどくどと嫌みを言われ、ついに我慢できず大爆発。前出のセリフである。
怒り心頭でそのまま会社を飛び出し、行く当てもなく最寄り駅に向かう。何時も乗っている通勤電車がホームにちょうど入ってきたところで、なぜか乗らなきゃいけないと感じ、そのまま乗車してしまった。そして空いていた席にドカッと座り込む。ラッシュ時間は当の昔に過ぎ車内の人間はまばらだった。
…ついにやっちまったな、俺これからどうしよう。でも疲れたよ…腕を組んで深呼吸をし目をつぶる。
走り出したのだろう。電車の動きを感じ緊張もいく分とけてきたが、心身ともに疲労困ぱいだったせいか、俺はいつの間にか眠りこけてしまっていた。
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…お客さん、ここ終点ですよ。お客さん
駅員に声をかけられてボンヤリ目を覚ます。意識が戻り今の状況を思い出して慌ててホームに出た。ホームに立ち、周りの景色を見回すともう夕暮れ時。でもこの景色…ここって?忘れかけていたけど見覚えがあったのを思い出した。
意図せずまた来るとは思ってなかったが高校2年生の夏休み、駅を出てこの先にある海辺の喫茶店で、泊まり込みのアルバイトをし過ごした町だった。
そう、あの娘がいたこの町。
懐かしくなり考えなく駅を出る。そしてその足は例の喫茶店に向かっていた。途中、スマホを見るとたくさんの着信履歴が目に入る。わずらわしい。俺はそのままスマホの電源を切ってスーツの内ポケットにしまい込んだ。そしてさらに日は沈み街灯のともりがつき始める。やがて夕闇に浮かぶ懐かしい景色と潮の香り。喫茶店はあの時と変わらずそこにたたずんでいた。
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当時高校生の俺は、酒乱の父親と浪費癖のある母親の3人家族だった。いつも金がなく借金を抱えており、そのことで両親はお互い顔を合わすとけんかばかりしていた。酒に酔うと酔った勢いで口汚く俺や母をののしり時に暴力をふるう。母は父親が酒を飲みだすと、不意にどこかに出かけ高価な服やブランド物のバッグなんか買って深夜に帰ってくる。泥酔して眠る父親をさげすみながら、俺に愚痴をこぼすけど、でもいつまでたっても離婚せずにいた。
そんな家庭なので家にいる時間が増える夏休みは、両親と顔を合わせるのが嫌でいやでしかたなかった。が、夏休みに入る直前に友達から海で宿泊所付きのバイトに行くんだけど、行かないかって声をかけてもらえた。親の顔を見なくて済むじゃん!喜んで二つ返事をし参加することにしたんだ。
処が一緒に行くことになっていた友達が、出発直前で都合が悪くなりバイトをキャンセルしてしまう。おいおい今更それはないだろう。あぁどうしよう自分も断ろうかな、でも家に居たくないし。悩んだ末、結局バイト先に了解を得て1人で現地まで向かうことにした。
そして夏休みに入った出発当日の朝。仕事で親は既に家におらず、準備しておいたリュックを背負って、戸締りをし午前8時には自宅をでた。朝なのに思ったよりも日差しが強い。駅に向かう途中で少し喉が渇いたのでコンビニで飲み物を買う。生まれて初めてするバイトに少しドキドキしつつ電車に乗車して、流れる景色を横目に電車に揺られた。
たしか迎えをよこしてくれるって聞いていたけれど…目的の駅に着き改札を抜ける。
立ち止まって周りをキョロキョロしていると、すぐにあなたアルバイト応募の人?って声をかけてくる女の子がいた。白Tシャツに薄い水色の半パンとサンダル。ショートボブの若干髪が伸びた感じで、目が大きく高い鼻、そして薄い唇。俺と同い年くらいで高校生かな?ん~ちょっとかわいいかも…そして見とれていたと思う。
「あの、応募の人なんですか?」
「あっ、バイト応募した福島ゆうじと言います」
「人が訪ねてるのに、返事してくださいね」
「すみません…(うわぁ言い方にトゲあんなぁ、気が強そう)」
プイっと後ろを向くと無言で歩き出したの慌てて後ろをついていく。こえぇ…。それから彼女のTシャツの背中に紺色の太いゴシックで、○○High School brass bandと書かれた文字を見ながら、7、8分ほど後に続いて歩いた。
やがてそんなに高くはない建物の街並みが切れ視界が広がると、遠くに青い水平線。潮のにおいが強くなる。そして海辺には多くの海水浴客が見え、ある1軒の海の家に連れていかれた。木造の白い建物で2階にバルコニーが見え、全体におしゃれな洋風の作り。お店入り口は茶色い木製玄関でアンティーク調。両サイドに整えられた植込み、まぁ見た目は喫茶店だ。でも夏のこの時期だけ海側の壁を一部だけ取っ払い、テラスを作って海の家として営業しているそう。
お店に入るとマスターが待っていてくれて、ロマンスグレーの髪色。口ひげを生やしメガネをかけた渋めの中年男性だ。そしてもう1人俺と同い年くらいの男の子が、テーブル布きんで丸テーブルを拭いていた。マスターからの紹介で気の強い女の子とその男の子2人は地元の高校生。しかも俺と同じ学年だった。男の子は金田君。迎えに来てくれた女の子は飯島さんと名乗った。2人は幼馴染なんだそうな。金田君の紹介で飯島さんはこのバイトを始めたらしい。
マスターから最初ってことでアルバイトの流れを30分ほどかかったろうか、ひととおり説明され、その説明を忘れないよう持ってきたノートに取った。さてこれからどうすんの?って思っていたらマスターが
「金田君、飯島さんが近くのお得意さんにアイスコーヒーを届けに行くから、福島君のこと少しのあいだだけ面倒を見てくれないかな」
「わかりました!福島君だっけ?ノートと筆記用具はそこに置いてていいから、ちょっとついてきて。マスターがまだ案内していない外の倉庫説明するよ」
そして店の裏手にまわり2人きりになる。彼は周りを見回すと、俺の前をふさぐように立ちはだかり、急に目つきが悪くなった。そして顔をグッと近づけて
「てめぇ俺の「あずさ」に手ぇ出すんじゃねぇぞ?わかってんな?」
いきなり脅されてしまった。いやいやついさっき出会ったばっかだし。
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でも、そこから5日間はあっという間で、お店は忙しく仕事を覚えるのに必死、金田君も初日にあんな言葉をかけてきたけど、それ以外は特に何もなく、すっかり脅されたことなんか忘れていた。それよりも人生初のアルバイトは、何もかもが新鮮で時間がたつのもあっという間、楽しくてしょうがない。来て良かったって思え、慣れてくると全体の流れも見えてきて、金田君と飯島さんの様子もわかるようになってきた。
遠慮がなく気心が知れたやり取りなのは、やはり幼馴染なのだろう。でも金田君をあしらい気味の飯島さんを見ていると、恋人同士じゃないのかなと思ってしまう。
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あれは、たしかバイト10日目の夕方だった。金田君と飯島さんは先にバイトは上がっていて、閉店後にマスターに出してもらったまかないを食べ、寝泊まりしているアパートに帰る処だった。余り手入れのされていない垣根の平家そばを通る。
ガチャーン、なんで?だから母さんが出て行ったんじゃない!
垣根の向こうから食器の割れる音と悲鳴にちかい、聞き覚えのある女の子の声、なんだ…?ビックリして垣根をのぞき込む。でもすきまからは部屋の明かりが見えるくらい。続いてドタドタと大きな物音が垣根右側の切れ目付近から聞こえたと思ったら、勢いよくバーンって玄関扉が開く音が聞こえ、その玄関から人影が飛び出しぶつかりそうになった。
きゃっ!うわ!人影はやはり飯島さんで。
俺だと気がつくとものすごい形相でにらまれて、何見てんのよっ!!って怒鳴りつけられ、暗がりの向こうへ走って行ってしまった。
泣いて…いたな?
そしたらまたガシャンって、家から食器の割れる音が聞こえた。ただ事じゃなさそう、田舎だけど夜に若い女の子が1人でいて良いわけがない。彼女が消えた方向へ向かって探さないと。確かこの先は小さな漁港だったよな。
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港に着き辺りを見ると岸壁で街灯の弱いあかりの下、三角座りをしている飯島さんらしき姿を見つけることができた。はぁ良かったよ。そっと近づき時折小さく揺れる肩を見ながら、彼女の隣に立つ。
「あの…」、一瞬ビクッとしてこっちを見上げたけれど、俺だと気づくとすぐにうつむいてしまった。なんて声をかけて良いのか…、結局自分もそこに座る。
あぁ、かれこれ1時間は立ったろうか。わずかな海風と星空に月明かり、潮のにおいと遠く波の音が聞こえる。
「どっか行ってほしいのに」
彼女がうつむいたままボソッとつぶやいた。まぁそりゃそうだよなぁ、でも今更1人になんてできないし、だからって気のきいたセリフはやっぱり浮かんでこない。ホンとこんな時なんて言えばいいんだ?
「えっと、あっ。そしたら俺の一人語り聞いてくれる?」
「はぁ?」
こっちを見てけげんな顔で俺のことを見る彼女、いいや!もう勝手にしゃべっちゃえ。
俺んちさ、酒癖の悪いおやじと、すぐにお金を使っちゃうおかんで、お互いが好き勝手して家にお金も全然なくって。くだんねぇことでいっつもけんかしててさ。でも親じゃん?小さい時は仲良くしてほしいって。俺も寂しかったし、かまってもほしかったからいろいろ話しかけたり、泣きながら訴えて見たり、それでも応えてくれなくて何度も失望して、でもまだ変わってくれるんじゃないかって希望も捨てきれなかったし。まぁ結局2人とも全然変わんなくってさ。最後はおやじとおかんにあきれちゃって。
それでなんかもうどうでもいいやって、中3の時にちょっと悪い方に行きかけたんだけど、その時の担任がさ良い先生で、おまえはまだ未成年だけど、もう物の分別は分かる年だ。だから正直に言うが、両親はきっと変わらないと思うぞ、ずっと見てきたんだろう?もう考えを改めろって。あきらめろって言ってんじゃなくって、これからは似た事で苦しみ困っている人に、手を貸せる側の人間になれ。外に目を向けろって。
ごめん、うまく言えないけれど、もう親の愛情にこだわるのは辞めて、簡単じゃないけど「自分の進む道を見つけろ」って。そんなことを言ってくれたんだ。
彼女は黙って聞いていた。
話し終えるとまた2人沈黙が続く。それからどれくらい時間が過ぎたろうか。やがて、ふぅってため息をつくと飯島さんは急に立ち上がり、パンパンってお尻のほこりを払うとこちらを向いて
「あんた分かった風なこと言うね、帰る」
「あ、夜も遅いし送ってくよ」
「いいよ」
「アパートの途中まで道一緒じゃん」
「……」
並んで歩いている間もずっとしゃべらず、やがて寝泊まりしてるアパート前について、ほんとに家まで送らなくっていいか?黙ってうなずく彼女。そして1人歩きだす。まぁ大丈夫か…アパートの階段を上りかける。
ふいに「ねぇ」って呼ばれて振り返った。
「ありがとう」
それだけ言うと彼女はかけだして、夜の暗がりに消えて行った。
・・・・・・・・・・
それからバイト中は飯島さんのあたりが、少しだけ柔らかくなったような気がする。まぁ基本不愛想なんだけど、前よりは表情もあって話しもするようになったし、信用もしてくれているようだ。ごくたまに笑う処も見せるようになり、へぇ笑うといい顔になるんじゃん。時々まかないをマスターの代わりに作ってくれたり、暑くて喉が渇いたって思っていたら、冷たいものを用意してくれていたり。
根っこはきっと優しい子なんだって分かった。そしてあっという間に8月終盤の夕方。バイトも明日の午前で終わりになるその日、マスターと金田君は表のテントをたたみ、俺と飯島さんは店内の閉店作業をしていた。
「今晩あの岸壁に来てくれる?」
「えっ?いいけど…」
飯島さんに小声で声をかけられ、時間を決めてそこで待ちあうことになった。
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岸壁に着くと彼女はすでにそこにいて、俺を見つけると軽く手をあげた。遅くなったとわびながら途中で買ってきた缶ジュースを渡し、岸壁の縁に座ってジュースで乾杯する。それからしばしの沈黙。そろって夜の海を眺めていると、何か言いたげだった飯島さんが意を決したように、
「あのさ、わたししゃべるの得意じゃないからこれを…」
彼女が手紙を手にした時だった。
「おい、おまえら何やってんの」
金田君だ、いつの間にか後ろにいたらしい。
「福島、おまえあずさに手を出すなって最初に言ったよなぁ。マスターに迷惑がかかるからずっと我慢してたけど、調子に乗ってんじゃねぇぞ、たてやコラ」
そばに来ると胸倉をつかまれて、無理やりに立たされる。俺も彼をにらみ返しながら
「金田君は飯島さんの彼氏じゃないんだろ?俺の勝手だし。この手離せよ」
お互いが胸倉をつかみあう。
「あずさは俺の女なんだ、こいつのことは誰よりも分かってんだよっ、横からちょっかい出してんじゃねぇぞ」
「ちょっとやめてよ、いつあんたの女になったんだよ。小さい時から知ってるってだけでしょう?誰と会おうと、誰と付き合おうと関係ないじゃない!」
「うるさい、おまえは黙って俺の横に居ればいいだよっ、こんなやつかまうからだろ!」
金田君がさらに俺のシャツを引っ張って、ビリってやぶれる音がした。
「金田っ、飯島さん嫌がってるじゃないか、おまえ恥ずかしくないのか?勝手に突っ走って、いい加減にしろよ!」
「は?突っ走る?おまえほんと、なんも知らねぇんだな?」
この時ニヤッと笑った金田君の顔がすごく印象に残っていて、飯島さんのハッとした顔が今も忘れられない。
「やめて!!!!!!」
「あずさの最初は俺なんだよ」
「!?」
一瞬思考が停止して手が緩んだ。と、同時に金田君に突き飛ばされて尻もちをついてしまう。
「おまえがあずさとこれからよろしくしても、俺が最初でおまえは2番だ、2番なんだよ!」
吐き捨てるように言われ、言葉をなくし固まってしまう。良からぬ様子が頭に浮かび、あぁ俺この子のことが好きだったんだ…無意識に彼女の顔を見ていた。
俺の視線に気づくと顔をぐしゃぐしゃにし、大粒の涙があふれだした。
「なんで…そんなこと…、なんで今言うんだよ!!!」
泣きじゃくりながら金田君に叫ぶ。そんな飯島さんを見て、あぁ本当のことなんだなって理解した。そして彼女は大きく首を左右に振ると、
「健介のバカッ!おまえなんか大っ嫌い!!」
そのまま走り去ってしまった。「待てよっ」て後を追いかけていく金田君。
静かになった岸壁。1人取り残された俺。遠く波の音だけがいつまでも聞こえていた。
・・・・・・・・・・
翌日の朝早く、重い気持ちのままお店に向かった。まだ2人は来ていないはずだ。すでにお店にいたマスターにアパートの鍵を返し、お世話になりましたと頭を下げる。
あの子たちに合わなくていいのかな?とマスター。昨日のうちにお礼は言いましたし、ありがとうございました。そしたら何かを察したのか、ん、じゃあまたいつでも遊びにおいで、大歓迎で待ってるから。ご苦労さまでした。笑顔でそう言って送り出してくれた。
それから駅に向かいホームで電車を待つ。ホームで最後のさよならを言いに彼女が!なんて、ドラマチックなことが起こるはずもなく。
残暑が残る暑い中。遠く山の向こうの入道雲をながめながら、俺はこの町を後にした。
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相変わらずおしゃれな玄関周りだなと思いつつ、こんばんはぁ…。なんて言いながら喫茶店の扉を開けて店内をうかがってみた。お客はだれもいない。店の様子はあの頃とほぼ変わってなくって、静かな音楽が流れている。カウンターの奥で渋みが増したマスターが静かにいらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ、手で即されて窓際の丸テーブル席に腰かけた。おしぼりと水を持ってきてくれたマスターに
「ご無沙汰しています。ここでお世話になりました福島です。覚えておいでですか?」
思い切って声を掛けてみた。おって顔をしたマスターが笑って、懐かしい元気そうだね。ご注文はどうしますか?穏やかに声をかけてくれた。
「コーヒーをお願いします」
「分かりました少々おまちください。いやぁ何年ぶりになるのかな?懐かしいね、もう立派な若者だ。」
「いえ、そんな。」
なんてやり取りをしてコーヒーをいれてもらっている間、マスターに自身の近況と今何をしてるのかを伝え、あの頃の懐かしい話に盛り上がっていた。
お待たせしました。テーブルに置かれたコーヒーはとてもいい香りがする。バイトをしていた時に使っていたコーヒーカップに、懐かしさを感じながらカップを手に取ろうとした時だった。
それからさ、これを預かっていてね、一緒に封書の手紙を渡される。
裏を見ると「飯島あずさ」と書いてあった。
えっ?と思うと同時に思わずマスターの顔を見ると、君がいつかこの店に来た時に渡してほしいって、ずっと預かっていたんだよ。読んでみたら良いんじゃないかな?
はいっ!
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
福島君へ
この手紙を見るのはいつになるのでしょうか。明日?1年後?それとも一生読んでもらえないかな。
それでも私の気持ちを書きます。あの時いなくなってごめんなさい。伝えたい事があってそれを手紙に書いたのですが、渡しそびれました。今こうして手紙を書きなおしています。
私は楽器演奏が好きで、高校では吹奏楽部にいました。楽器はオーボエを担当しています。クラリネットの親戚みたいなやつ。でもその部活も春の新学期から、真剣に取り組む派とそうでない派に分かれ、先輩後輩どおしで対立して、私は音楽がしたいだけなのに、人間関係のいざこざでまともに練習もできず、そんな部活に失望して退部しました。
また同じころに父とけんかした母が家を出て行き、もう何もかもがめちゃめちゃで色んな事にあきらめてて。でも福島君が話してくれた「自分の道を見つけろ」って言葉でたくさん考えました。
それでやっぱり私は吹奏楽がオーボエが好きです。今年はもうコンクールの地区大会は終わったけれど、来年高校生活最後の年だし、もう一度部活に真剣に取り組んで、吹奏楽コンクール全国大会に出たいと思います。そしてできれば音楽家を目指そうと思います。
こんな事を気づかせてくれてありがとう。もしも私が将来音楽家になれたなら、私の演奏をぜひ見に来てください。
それから…好きでした。じゃあね♪ 飯島あずさ
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
マスターあの、飯島さんは今どうされてるんですか?
マスターはにっこり笑うと黙って壁の方に視線を送る、俺もその視線の先を追って壁を見た。そこには大小の額に入れられた写真2枚かけられている。席を離れその写真のそばに立った。
小さめの1枚は、県立○○高等学校吹奏楽部 第○○回 全日本吹奏楽コンクール全国大会 銀賞 と書かれた高校吹奏楽部の集合写真。オーボエを持ち笑顔の彼女がそこにいた。
そして大きめのもう1枚は情熱的にオーボエ演奏中のシーンを切り取った、海外のコンサートポスター。彼女だった。
なんだ…すごい…じゃん。彼女頑張ったんだなぁ…そしてあらためて手紙を見ていたら、胸が熱くなっていつの間にか周りの景色がゆがみだし、やがてボロボロと涙があふれ、嗚咽を押さえる事ができなくなってしまう。
何で泣いてんだろ?俺…。
マスターは1人ニコニコしててお皿を磨いている。そして静かに、しずかに喫茶店での時間は過ぎて行った。
・・・・・・・・・
あれから3年がたった。
俺はその後会社を退職し自分で起業した。零細企業だが、今は社員も何人か抱え何とか食うに困らない程度までにはなっている。そして久々に数日間の休暇をとる事ができた。今、日本の某国際空港にいる。ヨーロッパのとある国へ出国予定なんだ。時間が掛かったけれどやっと約束が果たせそう。
そのせいか今日は空港ロビーでくつろいでいると、つい感慨にふけってしまい時がたつのを忘れてしまう。飛行機に乗り遅れそうであぶない、あぶない。時間が気になり腕時計を見た。おっまもなく出発の時間だ。
それまで眺めていた彼女出演のコンサートチケット。それをキャリーケースに戻して立ち上がり、国際線の搭乗口へ向かう。
「さぁ行こうか」
「うん」
あずさが笑顔でうなずき、そしてつぶやく。
「次はマスターの処に2人一緒に行こうね」