八月の空に消えた君を追って
「お兄ちゃん、あれ見て!」
妹の千聖の声に、貴文は教科書から目を上げた。
今は夏期休暇の真っ最中だ。貴文は、同じ中学校に通う一つ下の妹、千聖と一緒に、学校の図書館で夏休みの宿題を片付けているところだった。
千聖が指差しているのは、窓の外だ。この図書館は二階にあり、窓からは、校舎の隣に建っている講堂の屋根が見える。
その屋根の上に、一匹の白猫がいた。まだ子猫だ。その子が、カラスに突かれていたのである。
猫は、「ミーミー」と弱々しく鳴いていた。今にも消え入りそうな声だ。
「助けないと!」
千聖は立ち上がって、ポニーテールを揺らしながら窓を開けた。熱気が空調の効いた室内に流れ込んでくる。蝉の大合唱がうるさい。
「こらー! 弱い者いじめしちゃダメでしょ!」
千聖は拳を振り上げながら、カラスを叱った。突然の大声に、貴文はぎょっとする。
「おい、千聖……」
辺りに人はいないが、私語が禁止されている図書室でこんな騒ぎを起こしたら、その内、司書が飛んでくるに違いなかった。
「その子から離れなさい!」
貴文は、妹の肩に手を置いてなだめようとしたが、千聖は聞く耳を持たない。彼女は、小さい頃から正義感が強かったのだ。
「ミーミー」
千聖が怒鳴っても、カラスは攻撃をやめようとしなかった。子猫は、相変わらず弱々しく鳴いている。
「もうっ!」
たまりかねたように、千聖は窓枠に足を掛けた。
「千聖! 何する気だ!?」
嫌な予感がして、貴文は声を掛ける。「決まってるでしょ」と千聖は、つり目気味の瞳を険しくした。
「あっちへ飛び移って、猫を助けるの!」
「何言ってるんだ!」
貴文は驚愕した。
確かにここから講堂の屋根までは、大した距離はない。やろうと思えば、飛び移れないことはなかった。
だが、万が一ということもある。落ちて大怪我でもしたらどうするのだろう。兄としては、止めたくなるのも当然だった。
「カラスを追い払うなら、何か物でも投げればいいだろ」
貴文は、ペンケースの中から予備の消しゴムを取りだした。
「千聖は下がってろ。僕が……ああっ!」
貴文は、悲鳴に近い声を上げた。兄の制止も聞かずに、千聖が窓枠を蹴って宙に身を投げ出したのだ。
貴文は心臓が止まりそうになった。だが、最悪の事態は起こらなかった。千聖は無事に講堂の屋根に足をつけている。
「ほら、やるでしょ、私!」
千聖は、こちら側を見てピースした。貴文は、「分かったから前を見ろ!」と焦る。
千聖がいるのは、屋根の傾斜した部分だ。カラスに襲われている猫は、棟――つまり、屋根の一番高いところでうずくまっている。そこは地上と平行になっているので、人が歩くスペースも少しならありそうだ。
だが、バランスを崩しでもしたら、地面に真っ逆さまだ。貴文は眼下の校庭に目をやって真っ青になる。
「いいか、千聖。動くんじゃないぞ。どこか降りられるところはないか探すから、大人しく……」
「ダメ! 猫を助けないと!」
貴文は戦々恐々としていたが、千聖はお構いなしだ。そのまま屋根をよじ登っていった。千聖にとっては、自分のことなんかより、目の前のいじめられている子猫を助ける方が大事なのだろう。
蝉の声をバックにして途中で何度かずり落ちそうになりながらも、千聖は一番上まで辿り着いた。ハラハラする貴文を余所に、千聖は白猫の方に向かって歩いて行く。
「あっち行って!」
突然現れた千聖に驚いたのか、カラスはやっと動きを止め、そのまま飛び去っていった。猫は無事だ。「よかった」と千聖が呟く。
「猫ちゃん、こっちおいで」
千聖はすり足で猫に近づいて、その子を抱きかかえた。
「もう大丈夫だよ。これで……」
突然、強い風が吹いた。
ぐらりと千聖の体が傾く。貴文は息を呑んだ。
伸びやかな千聖の体は、宙に浮き上がった。長い髪が絨毯のように広がる。茶色の瞳が見開かれた。
妹と目が合ったと思った時には、千聖は図書室のある校舎とは反対側へと姿を消していた。
悲鳴も、物音も聞こえなかった。ただ、蝉が鳴く声だけが耳に流れ込んでくる。
「千聖……?」
貴文は、その場に立ち尽くした。目の前で起こったことが信じられず、呆然と妹の名前を呟く。
だが、自分の声で我に返った。貴文は、蒼白な顔で窓から身を乗り出す。
「千聖っ!」
必死で呼びかけても、返ってくる声はない。
貴文は、血の気が引いていくのを感じながら図書室を飛び出した。そのまま、階段を一段飛ばしで降りる。すれ違った教師が、「廊下は走るな!」と注意してきたが、止まらなかった。
(千聖……!)
血まみれで地面に転がっている妹の姿を想像しながら、貴文は身震いした。もっと強く止めていればよかったと唇を噛む。
靴も履き替えずに、貴文は校庭に出た。講堂に向かい、千聖が落ちたと思われる場所へと急ぐ。
「あれ……?」
しかし、すぐに奇妙なことに気が付いた。
どこにも千聖の姿がなかったのだ。それだけではなく、辺りの地面には血痕はおろか、人が落下したような形跡すら見当たらない。
貴文は狐につままれたような気分で周囲に目をやり、講堂の周りを一周した。
しかし、千聖はどこにもいなかった。まるで消えてしまったかのように、姿が見当たらないのだ。
貴文は、もしかしたらと思い、図書室へと帰った。だが、そこにも千聖はいなかった。
「何で……。どうしてだ……?」
訳が分からない。人が煙のように消えてしまうなんて、あり得るのだろうか。
(……いや、そんなことあるはずないよな)
貴文は頭を振って、馬鹿げた考えを脳内から消し去った。そして、もう一度講堂へと向かう。
今度は捜索範囲を広げてみた。こんなところまでは転がっていかないだろうという場所にまで目をやり、講堂の中にも入ってみる。
だが、どこにも千聖の姿はなかった。貴文は、段々と動悸が激しくなるのを感じていた。
一体これはどういうことなのだろう。千聖は、確かに自分の目の前で屋根から落ちたはずなのに。それなのに、どこにも姿が見当たらない。まるで初めから事件なんか起きなかったかのように、影も形もなくなっているのだ。
「何をしているのじゃ?」
そこに突如、声がした。貴文が驚いて顔を上げると、近くに一人の老人が立っている。
見たことのない人だった。少なくとも、学校の関係者ではなさそうだ。しわの寄った顔は何だか不気味で、貴文は思わず身を固くする。
「……人捜しです」
白昼の学校に堂々と入ってくるなんて、不審者か何かなのだろうかと思いながらも、貴文は老人の質問に答えた。
「屋根の上から落ちた妹が……いなくなってしまったので……」
こんなことを言ってもどうせ信じないだろうと思いながら貴文が続けると、老人はおかしそうに「ほほほ」と口をすぼめて笑った。
だが、馬鹿にしているような声色ではない。貴文は興味を引かれ、怖いと思っていたことを忘れて、老人をまじまじと見つめた。
「それは、探しても見つからんじゃろう。この辺りは、昔はよう神隠しが起こったところじゃからな」
「神隠し……?」
不穏な言葉に、貴文の心臓が大きく跳ねた。
「おじいさん、それってどういうことですか?」
「この辺は昔は山でな」
老人は講堂を指差した。
「ちょうどあの辺りに、ご神木が植わっておったんじゃ。じゃが、ここいらに住む悪童どもが、それに登って遊ぶようになってのう」
「罰当たり……ですね」
「そうじゃな。じゃから、その報いとして連れて行かれてしもうたのよ。あちら側へな」
「でも、今はそんな木、ありませんよ」
貴文は必死の思いで講堂を見た。
「なのに、どうして妹が罰を受ける必要があるんですか」
「これは罰などではない。ただの遊びのようなものじゃ」
老人はきっぱりと言い切った。
「木じゃろうが建物じゃろうが、高いところに登った子ども。それをさらう。昔の血が騒いだんじゃろう」
「じゃあ、どうすれば妹は助かるんですか!」
あまりに理不尽なことを言われ、貴文は絶望的な気分になった。
神隠しだのなんだの、いかにも古くさい考え方だが、目の前で妹が消えてしまったとあっては、そういう迷信も信じる気になってくる。
すがるように尋ねる貴文に対し、老人は首を振った。
「あちら側に渡ってしもうた子は、もう戻って来れん」
突き放すような言葉に、貴文は愕然となった。衝撃で声も出ずに、唇を震わせる。
「ミー」
その足元から声がした。白猫が、貴文の足元に絡みついている。
貴文はドキリとした。千聖が助けた猫かと思ったのだ。
だが、よく見てみればあの子猫よりも体が大きい。大人のようだった。
「……少年よ、運が良いな」
貴文が自分の足元にまとわりつく白い塊を見つめていると、老人が感嘆するような声を出した。
「お前を助けたいと思う奴が現れたぞ。……その猫について行くがよい」
「……猫に?」
一瞬、貴文は何を言われたのか分からなかった。足元から、猫がするりと抜け出す。そのまま、校庭を横切っていった。
「何をしている。追いかけんか」
貴文が呆然としていると、老人が叱責してきた。
「消えた妹を助けたいんじゃろう。ならば、あの猫の導く方へ行け」
貴文は困惑した。この老人と言い、あの猫と言い、一体何なのだろう。はっきりとは分からなかったが、それでも貴文の第六感が、彼らは普通ではないと語っていた。
「分かりました」
それでも、貴文は猫を追いかけることにした。今は他に妹を見つける手がかりは何もないのだ。それなら、こんな怪しい相手の話にだって乗ってみるしかない。
貴文は老人に一礼して猫を追いかける。猫は走り寄ってくる貴文を見ると、急に駆け出した。見失わないように、貴文は必死でそれを追跡する。
どこまで行くんだろうと思っていた貴文だったが、猫は案外すぐに足を止めた。講堂の前だ。閉まっている扉をカリカリと前足で掻いている。
「……中に入りたいのか?」
貴文が問いかける。猫がこちらを見た。
「ミー」
猫は小さな声で鳴いて、黒みを帯びた赤い目で、上方と貴文の顔を交互に見た。
「……何だ? 屋根か?」
千聖のことを思い出して貴文が尋ねると、「ミー」という声が返ってくる。猫と会話しているような気がして、何だかおかしな気分だ。
「まさか……登れって?」
「ミー」
そうだ、ということなのだろう。貴文は講堂の屋根を見つめた。
「屋根に上がれば、千聖のことが何か分かるのか?」
「ミー」
猫が目をパチパチさせた。貴文は「分かったよ……」と頷く。
「ほら、入って」
貴文は着ていたシャツをはだけさせ、その中に猫を押し込んだ。そのまま、図書室に向かう。
そして、妹がしたのと同じように、窓から講堂の屋根に飛び移った。
「……で、どうすればいいんだ?」
屋根の一番高いところに腰を落ち着けた貴文は、シャツの中から猫を出して問いかける。
猫は軽く毛繕いをした後、「ミー」と鳴いて、前足で地面を示した。
「えっ……何?」
「ミー!」
貴文が戸惑うと、猫はまたしても地面を差した。まさかと思い、貴文は顔を引きつらせる。
「と、飛び降りろってこと……?」
「ミー」
猫は貴文の体を押すように、腰の辺りに頭をこすりつけてきた。貴文は焦る。
「こんなところから落ちたら、死んじゃうかもしれないだろ! よくて大怪我だ!」
「ミー! ミー!」
貴文は必死で首を振ったが、猫は大きな声で鳴いて、しまいには「シャァー!」と牙を剥いた。意気地なし、とでも言いたげな顔だ。
「ミー! ミー!」
猫は叱りつけるように貴文の腕に爪を立てる。そんな猫を引き剥がしながら、貴文はどうするべきかと悩んだ。
(千聖は、確かにここから落ちた……。それで、消えてしまったんだ……)
その千聖を追うとしたら、やはり自分もここから飛び降りるしかないのだろうか。
「……大丈夫なんだよな?」
貴文が尋ねると、猫は「ミー」と鳴く。
貴文は、大きく深呼吸をした。言葉が通じているのかも分からない相手に従うなんて、いかにも愚かな行為のように思えたが、ここは思い切って賭に出る他なさそうだった。
(千聖……待ってろよ。僕が必ず助けてやるからな……!)
貴文は覚悟を決め、目を瞑る。そして、消えた妹を追って、自身も屋根の上から飛び降りたのだった。
****
貴文は、しばらく空中をさまよっていた。しかし、すぐに浮遊感がなくなり、体が固い地面につく感触がする。衝撃も痛みもなかった。
「ここは……?」
閉じていた目を開けた貴文は瞠目した。
貴文は確かに学校にいたはずだ。それなのに、辺りの景色が一変している。林立する木立に、遠くの田園。貴文が立っているところは森の間に作られた坂道のような場所なのだが、舗装もされておらず、地面には大小の石がゴロゴロ転がっていた。
「あんたたちがいるのとは違う世界さ」
足元で声がして、貴文はぎょっとした。見れば、あの白猫が人間のように言葉を話しているではないか。
「しゃ、喋っ……!?」
「そんなに驚くことないだろう。これがあたしの本当の姿なんだから」
よく見ると、猫の尻尾は二股に分かれていた。貴文は信じられない気持ちで呟く。
「君、普通の猫じゃなかったんだな」
「ああ。人間は、妖怪変化とか化け物とか呼んでるらしいけどね。ま、あたしはあたしだよ」
「へー……。妖怪……」
あんまりにも突拍子もない話だったが、現にこうして猫が喋っており、見たことのない世界に連れて来られたことを考えたら、信じざるを得なかった。
「……で? 妖怪さん、千聖はどこにいるんだ?」
「あたしの名前は牡丹だよ。言っておくけどね、あたしは、普段は人間と積極的に関わらないことにしてるんだ。でも、今回は特別さ。あんたの妹があたしの息子を助けてくれたからね。その借りを返すことにするよ」
息子とは、あの子猫のことだろうか。この牡丹という白猫と親子だったらしい。
「でもね、だからと言って油断しちゃいけないよ。ここいらには、たちの悪い連中が住み着いてるんだ。そいつらに捕まったら……」
その時だった。どこからともなく、まるで手を叩いているような乾いた音が聞こえてきたのは。
続いて発される可憐な声。
「遊びましょ。遊びましょ。かくれんぼしましょ。あなたが鬼ね。私を見つけて」
千聖の声だった。貴文は目を丸くする。
「鬼さんこちら。手の鳴る方へ、手の鳴る方へ。キャハハハ!」
まるで自分の居場所を知らせようとするかのように、手を打つ音が大きくなる。貴文はたまらずに叫んだ。
「千聖!」
貴文は声がした方へと走り出した。道を逸れ、右手の林の中へと突っ込んでいく。
「ダメだよ! 戻りな!」
牡丹が慌てたようについてきた。しかし、貴文は止まらない。
「こっちに千聖がいるんだ!」
早く助けてやらなければ。きっと、訳の分からないところに連れて来られて、困っているに違いない。
「手の鳴る方へ、手の鳴る方へ!」
声はますます高くなり、両手を打つ音が大きくなる。貴文は、それを追って夢中で走った。
向こうに、森の切れ目が見えてくる。きっと、千聖はあそこにいるのだろう。
「止まれ!」
だが、貴文がそこに辿り着く前に、牡丹が首筋に噛みついてきた。
「……っ!」
さすがの貴文も、これには驚いた。尻餅をついた貴文は、牡丹に怒鳴る。
「何するんだ!」
「前、見てみな」
牡丹が貴文の膝の上に飛び乗り、前方を顎でしゃくった。
血がにじむ首元をさすりながら、貴文は視線を前にやった。途端に、背筋が凍り付く。
森を抜けた先に広がっていたのは、崖だった。底が見えないほどに深い。もしあのまま進んでいたらと思うと、ぞっとする。
「鬼さんこちら。手の鳴る方へ、手の鳴る方へ」
またしても、千聖の声が聞こえてくる。しかも、今度は一カ所だけではなく、頭上や地面、そして谷底からも声がしていた。そして、パンパンと鳴らされる手の音。
貴文は表情を硬くした。
「これって……」
「連中、あんたで遊ぼうとしてんだよ」
牡丹が辺りをぐるりと見渡した。
「でもね、この中には、あんたの本物の妹が鳴らしてる音も混じってるんだ」
「千聖の……?」
「けど、あたしにはそれが分からない。でも、あんたはあの子の兄だろう? あんたなら、きっと本物を見つけられる。だから、あたしはあんたをここに連れてきたんだよ」
貴文は、ようやく事情を飲み込めた。つまり、千聖を助けられるのは、自分だけだということだ。
「いいかい、ここはね、生きた人間の来るようなところじゃないんだ」
牡丹は真剣な顔で続ける。
「このまま放っておいたら、あんたの妹は、活け作りにされて食われちまうとか、魂を抜かれるとか、ろくな目に遭わないだろう。神隠しに遭って、ここに連れて来られた奴は、ほとんどがそんな末路を辿ったんだよ。それが嫌だったら、早くあの子を見つけて、元の世界に帰るんだ」
「わ、分かった……」
このままでは千聖の命が危ないと分かり、貴文は辺りから聞こえてくる声にじっと耳を澄ませた。この中に千聖の声も混じっているのなら、早くそれを見つけなければならない。
(千聖……)
強気で正義感の強い、大切な妹。その性格のせいで貴文はこれまで何度もヒヤヒヤさせられたが、それでも、兄として彼女を守らなければといつも思ってきた。
だから、絶対に助けてみせる。そして、二人で元の世界に帰る。
決意を新たにしてみると、ある方向からの手を叩く音が鮮明に聞こえてくるのが分かった。貴文は木と木の間に目をやる。
「こっちだ」
千聖が導いてくれているのだろう。貴文はそう信じて、足を進めた。後ろから、牡丹がついてくる。
森は鬱蒼としていて深い。それに、辺りでは相変わらず千聖の声で「手の鳴る方へ」と言いながら、拍手するように手を叩く音が聞こえてくる。
そのほとんどが偽物だと分かると、なんだか気味が悪くて、貴文は我知らず肌を粟立たせていた。恐怖を振り切るように、自然と足が速くなる。
貴文たちは獣道のようなところへ出た。道が二つに分かれている。そのどちらからも手を叩く音が聞こえてきていた。
「どっちだい?」
牡丹が尋ねてくる。貴文は迷うことなく「左」と答えた。
だが、左側の道に進もうとした途端に、そちらからの手を鳴らす音がやんだ。貴文は足を止める。
「……右へ行くかい?」
牡丹が貴文を見上げた。右では、相変わらず手が鳴らされ続けていたのだ。
「……うん」
貴文は頷きかけた。だが、右側の音に注意を向けてみても、どこか違和感を覚えてしまう。例えるなら、食虫植物に誘われる虫のような気分だった。
「……やっぱり左だ」
貴文は、右から聞こえてくる「手の鳴る方へ!」という声を無視することにした。そのまま、左側へと足を進める。
「ねぇ、どうしてそっちへ行くの?」
後ろから声がかかった。振り向いた貴文は、あっと声を上げそうになる。
「お兄ちゃん、私はこっちだよ」
千聖が立っている。セーラー服の裾をはためかせ、ポニーテールを揺らしながら、こちらへとやって来る。
千聖は手を打ち鳴らし始めた。
「さぁ、来て。手の鳴る方へ、手の鳴る方へ!」
貴文は、どうしようか迷った。ふと、足元から牡丹の声が聞こえる。低く鳴いて、相手を威嚇していた。
「牡丹……?」
「走りな! 耳を貸しちゃダメだよ!」
牡丹が千聖に飛びかかった。「きゃあ!」と悲鳴が上がる。
牡丹は千聖の顔を引っ掻いた。そこから、壁紙がめくれるように、隠されていたものが覗く。泥のような色の肌と、ギョロリと動く目玉。貴文は戦慄した。
「行け!」
牡丹が叫ぶのと、貴文が駆け出すのが同時だった。
「どこ行くのぉ、お兄ちゃーん」
牡丹の次の攻撃をよけた化け物が、笑いながらその後を追いかけてきた。
「私はこっちだよぉ? さぁ、手の鳴る方へ、手の鳴る方へ!」
キャハハ、キャハハハハ! という甲高い笑い声が聞こえる。
恐怖のあまり頭が真っ白になり、足をもつれさせながらも、貴文は必死で走った。
その視界が、突如開ける。
目の前の地面には、深い深いドーナツ状の穴が空いていた。その穴の中心部に、一本の木が立っている。その木に登っていたのは、千聖だった。
「千聖!」
思いがけない再会だった。貴文は大声を上げる。目の前にいるのは、本当の自分の妹だと直感したのだ。
千聖も兄に気が付き、目を見張る。
「お兄ちゃん!? どうしてここに!?」
「千聖を助けに来たんだ! 早くこっちへ来い!」
「ダ、ダメ!」
貴文ははやる思いで促したが、千聖は首を振った。
「この子を助けないと!」
よく見れば、木の上にいるのは千聖だけではなかった。あの時の白い子猫――牡丹の息子も一緒だ。
子猫は、また鳥に突かれていた。しかし、今度はカラスではない。顔の部分が人間の老婆のようになっている、人面鳥だ。
「あのね、この子が言ったの。手を叩いて自分がいる場所を知らせれば、そのうち誰かが助けに来てくれるかも、って。でも、音を聞きつけたのがこの鳥で……」
どうやら貴文が現れるより早く、二人は厄介な相手に見つかってしまったらしい。
同時に貴文は、急にこちらから手を叩く音が聞こえなくなった訳を察した。きっと千聖はこの子を助けるために木に登ったので、手を打ち鳴らすことができなくなってしまったのだろう。
まったく千聖らしい行為だった。やっぱり彼女は自分のよく知る妹だ。
「分かった、じゃあ僕がそっちへ……」
「お兄ちゃーん、待ってぇ」
後ろの森から、化け物が姿を現した。もはや声以外は完全に千聖の面影はなく、泥で作られた人形が動いているような外見になっており、貴文は思わず後ずさる。
「こっちおいでよぉ。一緒に遊ぼぉ」
「こいつめっ!」
牡丹が毒づきながら、化け物の腕に食らいついた。
「妹を見つけたのかい!? だったら、早く行きな!」
「ぼ、牡丹、君の子どもが……」
「後で助けるよ! さあ、早く!」
牡丹に急かされ、貴文は視線を前へ向ける。こちらと千聖のいる地面を繋いでいるのは、一本の頼りない吊り橋だけだった。
貴文は、ごくりと息を呑みながら進もうとする。しかし、何気なく下を向いた瞬間に、もう少しで足を踏み外しそうになった。
穴の底から、無数の黒い手が伸びている。それは、「おいで、おいで」とでも言いたげに、貴文に向かって手招きをしていた。貴文は牡丹を振り返る。
「気にするんじゃないよ!」
牡丹は化け物の足に噛みつきながら怒鳴った。
「それは怖いもんじゃないんだ! いいから早くしな!」
そんな風に言われても、この手に捕らえられたら無事ではすまない気がする。幸いにも、穴の底まで距離があるので、橋から落下しない限りはそんな目に遭わずにすむだろうが、千聖のところへ向かっている最中、貴文は生きた心地もしなかった。
「千聖!」
ようやく固い地面に足をつけることができた貴文は安堵して、妹が登っている木に駆け寄った。人面鳥は相変わらず子猫を突こうとしているし、千聖はそれをどうにか助けようとしている。
「この! あっち行け!」
貴文は自分も木に登ると、枝の一部を折って人面鳥に投げつけた。それが顔に当たった化け物は驚いたような声を出して、ようやく去っていく。
「お兄ちゃん、さすがだね!」
千聖が笑顔になった。子猫に手を伸ばそうとする。
「ねぇ、こっち来て遊ぼぉよぉ」
ギシギシと音がした。振り向けば、牡丹を振り切った化け物が、橋の上を全力疾走してくるところだった。
「早く逃げな!」
化け物を追いかけながら牡丹が叫ぶ。
「そ、そんなこと言われても……」
子猫を抱いた千聖と一緒に木から降りた貴文は、辺りを見回した。
今貴文たちがいるところから他の場所に移ろうと思えば、あの頼りない吊り橋を渡らなくてはならない。だが、肝心の化け物がそこから迫ってきているのだ。
つまり、貴文たちに逃げ場はないのである。
「こっちだよ!」
貴文がどうするべきかと焦っていると、子猫が千聖の腕の中から滑り降りた。そのまま穴の中へと飛び込んでいく。
「えっ、そ、そんな……」
突然のことに、千聖はショックを受けているようだった。そのタイミングで、化け物も橋を渡り終える。
「お兄ちゃーん。早く捕まえてよぉ」
化け物は顔いっぱいに裂けた口で笑いながら、こちらに飛びかかってきた。千聖が悲鳴を上げる。
迷っている暇はなかった。貴文は千聖の手を取ると、地面を蹴って穴の中へと飛び込む。
黒い手が、それに反応したかのように両手を打った。「手の鳴る方へ、手の鳴る方へ」と囁く声が聞こえた気がする。
「またかくれんぼしようねぇ」
それに混じって、化け物が別れの挨拶のように呟く。キャハハハという笑い声が遠くなり、やがて何も聞こえなくなった。
****
熱い風が頬を撫でる感触がする。目を開けると、貴文は千聖を抱きかかえる格好で、学校の中にある講堂の屋根の上に座っていた。
(戻って……来られたんだ……)
貴文は脱力した。千聖が辺りを見回している。
「お兄ちゃん……」
「もう大丈夫だ」
貴文が笑いかけると、千聖も破顔した。だが、すぐにその顔が崩れていく。
「お、お兄ちゃん……わ、私、本当はすっごく、こ、怖くて……」
「うん、僕もだよ」
貴文は、震える千聖の背中を撫でた。
「そうだったんだね……」
千聖はグスグスと鼻をすすりながら、濡れた瞳で兄を見上げた。
「それなのに、助けに来てくれてありがとう……」
「そんなの当然だろ。兄妹なんだから」
どんな化け物に追いかけられることよりも、千聖があのまま消えてしまうことの方が、貴文にとっては恐ろしかった。そんなことにならないで本当に良かったと、心の底から思えてくる。
「あの子猫は……」
涙を拭きながら、千聖が周囲に目をやった。一緒に穴に飛び込んだはずが、子猫は姿が見えなくなっている。
「大丈夫だよ。あの子もきっと無事だ。なにせ妖怪なんだから」
「どこかでいじめられてないといいけど」
「そうだな。また鳥に突かれてたら、これまでと同じように、千聖は助けに行くもんな」
「し、仕方ないじゃん。私、そういう性格なの!」
千聖が頬を膨らませる。やっといつもの妹に戻ってきたようだ。貴文は声を上げて笑った。
「そこ! 何をしているんだ! 降りなさい!」
図書室の方から声がした。窓辺に立つ司書が、怖い顔をしている。
「ご、ごめんなさい!」
千聖は慌てて図書室の窓へと飛び移った。
「ほら! 君も早く!」
司書に促されて、貴文も屋根の上から滑り降りる。
これは後で大目玉だなと苦笑しつつも、貴文はそのまま宙に身を躍らせた。