5話:丹沢登山
その後、近くのラーメン屋で大盛りを食べて、家に帰っていった。高校2年の4月の一斉テストで池墨は、平沼高校で、橫浜市立大学商学部の合格確率、70%出あると診断されて、英語と社会が、弱いので強化するように、担任の先生に言われた。一方、吉崎君は翠嵐高校で橫浜国立大学工学部の合格確率75%と言われ、国語と英語を頑張るように担任の先生に言われた。そのために、合格確実と言われる80%を越えるように勉強を続けて、夏休みもエアコンの下で、勉強を続けた。
それでも、息抜きに、池墨と、吉崎君は、11月に丹沢に登山に出かけた、朝6時に起きて、橫浜駅経由して相鉄線の海老名から小田急線で、渋沢駅に8時に到着した。渋沢駅からヤビツ峠行きのバスに乗った。ヤビツ峠で降りると多くの登山客がいて、彼らについていくことにした。ヤビツ峠は8時に出て二ノ塔に9時半、三ノ塔9時45分、烏尾山10時過ぎ、めざす、塔ノ岳山頂に13時前に到着。一休みして、山頂で昼ご飯を食べると、辺りの景色の良さもあり、旨かった。
そして下りは早いが慎重に歩を進め、駒止茶屋14時過ぎ、観音茶屋15時、大倉に15時20分に到着、無事下山した。大倉から、約15分で渋沢駅に到着して、小田急線で海老名経由、相鉄線で橫浜駅へ、疲れて乗り過ごさないのに注意した。帰りは、かなり疲れて、2人とも無口になっていた。家に着いたのは17時頃だった。軽く食事をとって、風呂に入って、過ぎに床についた。翌朝、池墨が、朝食の時、神奈川県は、自然が多くて良い所だねと言うと、きょとんとして、丹沢に行って、そう感じたのかと父が笑いながら言った。橫浜から1時間半足らずで、丹沢の登山口まで行けるんだぜ、それって、すごいと感動していた。
すると、母が、そうね、海も山も近くて、食べるところも、中華街、元町があって、本当に良いところねと話した。そして、夏休みなり、大学受験の勉強を本格的に開始し、苦手の克服のためラジカセで、NHK英語講座を録音して聴いて、勉強するようになった。また、小説を読み練習も始めた。この頃、東京工業大学をめざそうと話していた吉崎君が、通学が遠いので橫浜国立大学、理工学部へ希望先を変更した、そして年末になり、1978年となった。
1978年2月になって、吉崎君が、一緒に予備校に行かないかと誘ってきたので、両親に相談すると、橫浜市大に合格するためには、仕方ないだろうと、月謝を出してくれることになって、2人で、通い始めた。すると、テスト漬けの日々が始まり、競争している感じがして、戦闘モードに入った。そして、4月の予備校の一斉テストで池墨は橫浜市大商学部の合格可能性75%、吉崎君の橫浜国大工学部も同じ75%でもう一息という判定が出た。
その後、5月の連休も、夏休みなって勉強続けた。ただい、マンネリにならない様に、睡眠時間だけは6時間以上とって、集中力に心がけて、勉強を続けて行った。10月の一斉テストで、2人とも合格可能性が80%を越えて、ひと安心した。その後は、仕上げとして、最近5年間の問題集を再度、徹底的に解いた。そして、足早に1978年が過ぎて、1979年、受験の年を迎えた。志望校の受験表をとって、体調を整えて、上がらないように心がけ、ベストのコンディションで、受験に臨めた。