八、目の上の瘤
「羽衣殿、羽衣殿」
肩をポンポンと叩かれて目が覚める。
寝たフリのつもりが、本当に眠ってしまっていたらしい。
「木ノ処に到着致しました」
すっかり日が暮れて、御簾から光が射し込む。
牛車からチラッと周りを覗くと、人々が行き交い、市場が店じまいをしているところだった。
「木ノ処というぐらいですから、田畑とか森林とか、もっと自然豊かな所だと思っていました」
「ここは王宮の側。城下町ですから、商人や官吏が多いのですよ。田畑や森林は、ここより外にございます」
皇帝の住居が中心ということか。
駅周辺だけが栄えて、それ以外は田畑というような場所も、日本では珍しくない。
それだけここに、人口と金銭が集中しているのだろう。
雑踏に耳をすましていると、前の従者さんが何か話しているのが聞こえた。
「外宮に入る門に到着したようですね」
「外宮って何ですか?」
「木ノ処の宮中は、外宮と内宮の二つに分かれております。外宮は客人をもてなす場や官吏の仕事場があり、内宮は皇帝や皇子、そして皇后や妃嬪が暮らす場所でございます」
「仕事場と自宅で一応区切られているんですね。えっと……妃嬪というのは?」
「皇后を正妻としますと、妃嬪は側室や妾を指します。皇帝は血筋を残すのも仕事でございますから」
一夫多妻制が公認されている地域であるらしい。
母が時折観ていたお昼のドラマのように、ドロドロ愛憎劇が展開されていなければいいが。
そんなことを話していると御簾が上げられて、降りるように促される。
「智漣様、羽衣様、この度は木ノ処へようこそおいでくださいました。私は第一皇子、藐惹様に命を受けた者です。お二人を招客殿へ案内するように、第一皇子様から承っております」
30代ぐらいの男性といったところか。
質素ながらも仕立てのよい服を着ており、それなりに位の高い官吏の人であるようだった。
「お待ちください。我々は蕙惹帝に書簡をお送りしたはずですが、何故第一皇子殿が我々を迎えてくださるのですか?」
「失礼致しました。陛下は今、病に伏せっており、お二方のおもてなしについては藐惹様がお引き受けしております」
「第二皇子殿ではなくて……ですか」
智漣さんは険しい顔で呟く。
官吏の顔は心なしか青ざめていた。
「申し訳ございません。私めのご案内で、智漣様に不愉快な思いをさせてしまいました。どうぞこの首を刎ねるなり、私めに罰をお与えくださいませ」
言うなり智漣さんの前に跪く。
驚いたのは智漣さんより私の方で、思わず官吏の人の肩を掴んで頭を上げさせてしまった。
「そんな恐ろしいこと言わないでください! 何も案内に不満なところなんてありません……ですよね! 智漣さん」
「え、ええ……」
智漣さんは私の形相に驚いたようだった。
「すみません。案内を続けてください」
私の言葉に頭を下げて、招客殿に案内されることになった。
着いて早々、生首を見る事態にならなかったことにホッとする。
智漣さんが一体何に疑問を抱いたのかはわからないが、血を見るのは勘弁だ。
招客殿は豪華な造りだった。
これでも内宮にあるという皇帝の住居よりも控えめな造りらしい。
ここだけでも王宮と言われたら、納得できるほどなのだが。
第一皇子が会いに来てくれるとの話だったが、しばらく経っても音沙汰がない。
智漣さんは様子を見てくるついでに、第二皇子に会えないか聞いてくると言って部屋を出て行ってしまった。
広い部屋に一人。
最初こそもの珍しい調度品を見ていたが、ずっと部屋に閉じこもっているのも窮屈だ。
外に出て近くの役人さんに、智漣さんがどこに行ったか聞いてみようと思い部屋を飛び出す。
招客殿の近くに仕事場があるはずなので、そこに行けば何かわかるかもしれない。
別に疾しいことは何もしていないのだが、慣れていない土地を歩いていると、自然に気配を消そうとしてしまう。
そろそろと歩いていると、突然男性の怒鳴り声が聞こえた。
思わず建物の陰に身を潜める。
招客殿の裏にある客人用の庭園に、二人の男女がいた。
男性の方は華麗な礼服を着ているが、それに比べると女性の方は少し質素である。
「ふざけたことを言うな!」
「しかし、私めはもう……」
パシンッと乾いた音が響いた。
男の人が女の人の顔を引っ叩いた音だった。
女性はバランスを崩して地面に倒れる。
理由はわからないがただ事じゃないようで、ヒートアップしている男性が、これ以上暴力を振るわないように二人の前に飛び出た。
「誰だ!」
男性は厳しい顔でこちらを見る。
そして、私を上から下まで見定めると訝しげな顔をした。
「女官ではないな」
水ノ処の旅装束を着ているから、ここの人々とは服装が違う。
私の着ている服が日本風とするなら、ここの人々は中国風の装いである。
それで、私のことを王宮の人間ではないと判断したのだ。
「私は水ノ処より神官の智漣と共に参りました羽衣と申します。どのような理由があるかは存じ上げませんが、暴力を振るう場面を看過することはできません。どうぞその拳をお収めください」
下を向いて泣いている女性に近づいて、殴られた頰に手をかざす。
彼女を治療したいという気持ちを手のひらに集中させると、まばゆい光が溢れた。
「痛くないですか? もしまだ痛むようだったらお医者さんに診てもらってください」
女性は泣いたまま黙って頭を下げる。
「その力……もしや、そなたが天女殿か」
「いかにもそうですが」
ムッとした顔で振り返る。
あまり天女であるということを武器に使いたくはないが、この女性を助けられるのならば、表に出した方がいい。
「失礼した。私は木ノ処の第一皇子、藐惹と申す。菑貴人、もうよい下がれ」
菑貴人と呼ばれた女性は、土がついた衣服を払うこともせず、「失礼致します」とただ一言添えて走り去って行く。
それを見届けることもなく、第一皇子はこちらを見ると困ったように笑う。
「見苦しいところを見せた。彼女は菑貴人といって父上の妃嬪なのだが……少々問題があってな。詳しくは招客殿で話そう」
先ほどまでとは打って変わって、柔和な顔つきの男性である。
あそこまで険しい顔をしていたのは、よっぽどな理由があったからなのだろうか。
どんな理由であれ、人を傷つける行為はよくないと思うのだが。