六、炎嫌いも信心から
「さようでございましたか……。ともあれ智漣様も羽衣様も無事で何よりでした」
屋敷に戻った私たちは、玄武の泉で起きた一件を秀滓さんに説明した。
血塗れの智漣さんと服を汚しに汚した私が王宮に姿を現したときは、屋敷中が大騒ぎになった。
装束を血で汚した智漣さんは、大怪我をしていると勘違いされて医者を呼ばれた。
身体中ドロドロの私は、大勢の侍女と湯浴み用の泉へと連れ出されて、足の指の間まで磨かれることになった。
綺麗になった頃には、すっかり日が暮れていた。
「秀滓には迷惑をかけた」
「いえ……智漣様が血だらけでお帰りになったときは、さすがに心の臓が止まるかと思いましたが」
「装束も汚してしまったしなぁ」
「御装束は私がお清めしておきます。それよりも智漣様、羽衣様。準備が整い次第、陛下のもとに来るようにとのお言葉をお預かりしました」
私と智漣さんは顔を見合わせた。
「わかった。秀滓、すまないが後のことは頼んだ」
「承知しました」
長い廊下を渡り、本日二度目の皇帝の間である。
謁見する前、智漣さんは小さなため息をついた。
「どうかしましたか?」
「え? ああ、いえ……秀滓が怒っていたので……」
「秀滓さん、怒ってたんですか? 私にはそういう風に見えませんでしたが……」
「秀滓は怒ると早口になりますから。装束を汚すと神職に携わる者しか清められないので、ただでさえ多い秀滓の仕事を私が増やしてしまいました」
しゅんとした顔をする智漣さん。
「服もあるんでしょうけど、一番は智漣さんがボロボロになって帰ってきたからだと思いますよ」
「……私が?」
「もっと自分のことを大切にしてほしいんですよ。うちの母も、私が無茶したせいで、怪我をして帰ってきたら、すごく心配して怒っていましたし」
「母上ですか……」
智漣さんはそう呟いて、それからフッと笑う。
「そうですね。秀滓のことは弟のように思っておりますが、近頃は母のように私にあれやこれやと言ってくる場面も増えました」
「仲がよろしいんですね」
「秀滓もこの処の民、私の守るべき者ですから」
そういうことじゃないんだけどな、と思いはしたものの、智漣さんがすっかり神官モードになったので何も返さなかった。
「陛下。神官智漣、陛下に謁見申し上げます」
智漣さんが御簾の前で跪いて頭を垂れるのを見て、私も慌ててそれに倣う。
一呼吸あってから御簾が上がる。
智漣さんたちの侍女よりも少しきらびやかな衣装を身にまとったお付きの人が、私たちを迎えた。
智漣さんが跪いて再び頭を下げたので、横目で様子を伺いながら真似をする。
「智漣、天女殿、頭を上げてくれ」
言われたとおりに頭を上げると、少女は小難しそうな顔をしていた。
「二人が玄武の泉にて禍人と戦ったことは、秀滓から聞いた。怪我がなかったようでなりよりだ」
「ありがたきお言葉」
智漣さんは頭を上げているが、視線は下を向いている。
目を合わせて話すのは、この国では失礼にあたるのだろうか。
「天女殿も」
突然私の方を見たので、反射的にビクッと肩を震わせる。
「ご苦労であった。そなたがやはり天女殿で間違いなかったことを嬉しく思う。礼を言う」
少女はにこやかに微笑んだ。
笑うと年相応の女の子という感じで可愛らしい。
「しかし、天女殿が舞い降りたこれからが重要だ。智漣を始め、残り四人の処人を集めなければ、禍人の根源を滅ぼすことはできぬ」
「四人の処人……」
「そなたに仕える者たちだ。処人については、各処の忍ぶことである故に、余その者たちの素性を知らぬ。それ故、各処に書簡を出し、そなたらが各処を訪れ次第、処人と会わせるように言っておいた」
「ありがとうございます」
「よい。それでは智漣よ、天女殿のことを頼んだぞ」
「承知致しました」
その後は夜も深いので、水ノ処で一泊し、早朝旅に出ることになった。
まず向かうは木ノ処。
戦時中も同盟関係にあり、治安も良い地域らしい。
何より王宮には、智漣さんの友人がいるとのことだった。
水ノ処から木ノ処は比較的近く、道中は牛車で送ってくれると言っていたので、旅といっても思ったより楽なものになりそうだ。
電気のないこの国の夜は暗い。
星の光がよく見えた。
今日あった出来事が濃すぎたのか、心臓がバクバクして緊張してしまう。
眠れないし少し散歩しようかなと思い、御簾を抜けて外に出た。
鳥と虫の鳴き声がよく聞こえる。
祖母の家をふと思い出した。
「羽衣様?」
突如声をかけられて振り向くと、暗闇に秀滓さんが立っていた。
「秀滓さん」
「どうされたのですか、こんな夜更けに」
「眠れなくて……少し散歩を」
「さようでございますか。今宵は星が綺麗ですからね」
「秀滓さんは?」
「仕事を終わらせようと思いまして、明かりを取りに行く途中でございます」
「ついていってもいいですか?」
秀滓さんは目を丸くする。
「よろしいですが……羽衣様がいらっしゃるほどのものでは……」
「あ……ご迷惑でしたか?」
「いえ、迷惑だなんてそんな。特段面白いことなぞございませんが、よろしければご一緒してください 」
「ありがとうございます!」
薄暗い邸内を二人で歩く。
「明かりって何を使っているんですか?」
「我が処は、獲れた魚と引き換えに、木ノ処から材木をいただいています。その材木に火をつけて、明かりとしておりますよ」
二人であれやこれやと話しているうちに、篝火の焚かれた倉庫に着いた。
秀滓さんは首を傾げて、キョロキョロと辺りを見回す。
「どうしたんですか?」
「いつもは倉庫番がおりまして、その者に松明を頼むのですが……」
倉庫の周りには誰もいない。
秀滓さんは顔をしかめた。
「よければ私が松明を作っていいですか?」
「え? いや、羽衣様のお手を煩わせる訳には……」
「いえ! 私こういうことするの好きなんです」
秀滓さんは暫し逡巡した後、丁寧に頭を下げて了承してくれた。
私は勇んで倉庫に入り、松明の材料を探す。
篝火の光で倉庫の中は照らされている。
材料は松、そしてボロ布に油と紐を使う。
松の木の先端に油を浸したボロ布を巻き、それを紐で厳重に結ぶ。
あとはこの先に火をつけるだけでいい。
「できましたよ」
「ありがとうございます。羽衣様は聡明でいらっしゃいますね」
「祖母の受け売りですよ。それより、邸内にもっと篝火を焚いた方が、明るくて便利じゃありませんか?」
「さようでございますね……。然れども、篝火を焚きすぎると火事の心配がございますし、ここは女性や幼子も多くいます」
確かに木造の屋敷が火事で崩れたら、下敷きになった人はひとたまりもないだろう。
特にここの女性の格好は男性より重く、走って逃げるのには向いていない装いだ。
「それに……休戦中とはいえ、炎は火ノ処の象徴ですから、忌み嫌う者も多いのです」
「え! でも、火がないと生活が大変じゃないですか」
「ときに人は、道理よりも感情を優先させる生き物でございます。火が生活に欠かせないことは、皆知ってはいるのですよ。しかし、心の折り合いがつかないのです」
思っているよりも複雑な想いを、ここの人々は抱えているらしい。
疾しい気持ちがなく火を使える日が、智漣さんや秀滓さんたちに来てほしい。
私に何かできることはあるのだろうか。
居心地の悪そうに、炎が揺らめいていた。