四十五、蠍の生殺しは人を刺す
「アアアアアアアア……」
地獄の底から聞こえてくるような唸り声が響いた。
眼球を執拗に攻撃されることに、相手が怒りを抱いていることは明白だった。
誰だって目をしつこく突かれたら嫌な気持ちになる。
これで禍人が私に標的を絞ってくれれば、こちらとしては好都合だ。
もう一球、と思ったところで足元が急に不安定になった。
左足を軽く前にしか踏み出していないのに、身体が下に沈む。
禍人がアリ地獄のような穴の中に、自分ごと私を引きずっていこうとしていた。
——生き埋めにする気?!
抗議にも似た感想は口から出る暇もなく、身体が滑り落ちていく。
思わず目をつぶった瞬間、襟首を誰かに引っ張られた。
親猫に咥えられた子猫のように身体が揺れる。
視線を上げると、そこには礼烽さんがいた。
「どうして逃げてないんですか!」
「それはこっちの台詞だ、馬鹿。俺が逃げろっつったら逃げないで無茶しやがったのは、どこのどいつだ」
ズルズルと穴から引き上げられると、ポンッと放り出される。
「熹貂ちゃんは?」
「あの子なら隊士と一緒に逃した」
「何で礼烽さんは逃げてないんですか」
「随分勝手な奴だな。あんたを置いていけるわけないだろ」
「どうして……」
「あんたを守るのが俺の使命だ」
「私は……守られるだけは嫌です。第一、それじゃあ、礼烽さんを守る人がいないじゃないですか!」
「別にそんな奴いらねぇ。……だが、あんたがどうしてもそうしたいってんなら、共同戦線といこうぜ」
禍人の呻き声が聞こえた。
慌てて両手を前にかざして、光の壁をつくる。
目眩し程度にしかならないだろうが、時間を稼ぐことはできるだろう。
「面倒な話は全部後回しだ。おい、あんた。俺の神器はどこにある? あの坊っちゃんたちはすでに手に入れていただろ」
「神器ですか? ……私の中ですね」
「はぁ?!」
「私も仕組みはよくわからないですけど、あの武器は私の中から出てきて……」
「これ以上ややこしいことを言ってくれるな。わかったから早く出せ!」
「そんな急に言わないでくださいよ、もう。あれは私の意志に反応して出てくるんです。そんな簡単に出せ出せ言われたら困っちゃうじゃないですか」
「天邪鬼な女だな。どうすればいいんだよ、俺は」
「私のことを必要としてください」
「……はぁ?」
「そんな顔している場合じゃないですよ! 早く!」
「だぁっ! 必要としてくれって何だよ、馬鹿!」
「礼烽さんが神器を必要としているって、私が心の底から思わないと出ないんですって!」
礼烽さんは困惑した表情を顔一面に貼り付けていた。
一度舌打ちして下を見た後、決心をしたように顔を上げる。
「羽衣……俺と一緒に戦え。あいつらを滅ぼすにはあんたの力が必要だ。俺もあんたに力を貸す。だから、あんたも俺に力を貸せ」
「……はい!」
これが返事だと言わんばかりに、身体から赤い光が飛び出した。
燃えるような煌めきは、私の胸から紅の剣を引き抜く。
導かれるように礼烽さんが剣を取った。
光が弾けると辺りには静けさだけが残る。
「これが朱雀の剣……」
剣が炎をまとう。
熱風が礼烽さんを中心に吹き荒れた。
「あんたには随分と散々な目に遭わされたぜ……」
彼が剣を構えても、禍人は何も答えなかった。
人間のときの意識が最早ないのかもしれない。
「羽衣!」
「はい!」
「禍人の目を狙え! その隙に俺があいつを仕留める」
「わかりました」
右手にエネルギーを集中させる。
光り輝く弾をドッジボールの要領で思いきりふり投げた。
正確なコントロールは難しいが、禍人に当たった光弾は細雨のように降り注ぎ、禍人の視界を奪った。
「礼烽さん!」
「おう」
重心を低くした礼烽さんは、相手にタックルをかますぐらいの勢いで突っ込んでいく。
炎の剣は禍人の腹部を貫いた。
ミシミシと細かな音を立てたかと思うと、その外殻は粉々に割れて、中から人の姿が現れる。
「終わったんでしょうか……」
私がそろそろと近付いている間に、礼烽さんは倒れた男の手首を確認した。
「脈は動いている」
「死んではないんですね」
「おう。どのみち極刑は免れんだろうがな」
「連れて帰るんですか?」
「さて……どうしたものか。気絶している人間を運ぶなんて、ここじゃ命取りだろ。トドメを刺しちまう方が賢明だと思うがな」
「こ、殺すということですか……?」
「さすがに天女様はお優しいな。子どもを傷つけるような極悪人でも、生かしておくべきと言いたいのか?」
「いえ、それはそれです。この人を裁くのはここの法ですから、私が口を出すことではないと思います。でも、一つ気になることがあるんです」
「何だ?」
「どうして、この人は私を狙わなかったんでしょうか?」
「……どういうことだ?」
「この人は、殺すつもりなのは二人だったと言っていました。一人は熹貂ちゃん。彼女は自分の叔父が禍人だと知っていたわけですから、口封じに殺してしまおうと考えたわけですよね」
「そうだろうな」
「もう一人は礼烽さんです。礼烽さんが狙われた理由は何なんでしょうか?」
「それは俺が処人だからじゃないのか? 禍人にとっては、俺たちの存在は邪魔だろう」
「私は邪魔じゃないんでしょうか?」
「天女は……まあ、俺が禍人なら邪魔な存在だと思うぜ。むしろお前を一番に狙うだろうな」
「そうですよね。どう考えても、処人に神器を与える私は邪魔な存在なはずです。私をさっさと殺しておけば、礼烽さんだって武器を手に入れてなかったわけですから」
「それならば、どうしてこいつは……」
「それがわからないんです。もしかしたら、彼の意志ではなく、糸を引いている人物が裏にいるのかもしれません」
「そうなると、簡単にこいつを殺すわけにはいかないということか」
「そうなりますね」
「……よし、この場で聞き出すぞ」
「えっ?」
「聞くなら弱っている今がいいだろう。話す意志がなければ、即刻斬り捨てる」
「そんな……」
自分が言ったことが原因ではあるが、あまりに血生臭い展開はごめんである。
話してくれよと内心祈りながら、礼烽さんの行動を見守るしかできないでいた。




