四、少女の登り坂
「羽衣様。秀滓でございます」
ボーッと部屋の仕切りを眺めていた私は、突如かけられた声で我に返った。
「水送りの儀式の準備が整いましたので、お迎えに参りました」
「は、はい」
慌てて御簾を上に上げると、秀滓さんが跪いていた。
「智漣さんは?」
「神官殿はもう玄武の泉にいらっしゃいます。羽衣様をお送りする準備ができましたので、私がご案内致します」
「そうですか……」
御簾をくぐり抜け、廊下に出る。
秀滓さんは立ち上がって、ついてくるように言った。
「あの、さっきおっしゃっていた水送りの儀式って何ですか?」
「水送りの儀式というのは、水ノ処に伝わる『人を今あるべき世界へと送る』儀式にございます」
「今あるべき世界……?」
「私共は、この儀式を人が亡くなったときに行います。死後、身体を抜け出した魂が、迷わず天へと昇れるようにお送りするのです」
お葬式みたいなものなのだろうか。
「……と申しましても、羽衣様の場合は、それとは異なります。死んだ者は天の国へと、羽衣様は元の世界へと……。この儀式は、その者を今あるべき世界へと送るものなのです」
私が天女でなければ元の世界に帰れるという言葉。
それはこういうことだったのか。
私が天女でなければ、この世界で全うするべき使命もないから、元の世界に帰れるということなのだろう。
それから秀滓さんと私は、泉に向かうために山へと入った。
しばらく無言の間が続いたが、空白に耐えきれず思わず口を開く。
「なんだかすみません」
「何がですか?」
突然声をかけられたことか、はたまた謝られたことか、秀滓さんは振り向いて訝しげな顔をした。
「期待していただいたのに、私天女じゃなくて……」
「ああ、そのことでございますか。いえ、羽衣様が思い詰めることは何もありません。この世界のことを異なる世界のものに頼るしかないというのも、おかしな話でございます。ただ——」
秀滓さんは、困り眉で申し訳なさそうな笑顔になる。
「神官殿や陛下が、羽衣様を天女だと期待されたのも、仕様のないことだと許してください。陛下は兄君を、神官殿はご家族を亡くされたせいで、残されたのは『国を守る』という使命だけなのです」
「智漣さん、ご家族がいないんですか?」
「智漣様は早くに父君と母君を亡くされて、弟君も先の戦で亡くされました。先帝が智漣様を処人として重用されるまでは、ご家族を早くに亡くされたことで、忌み子などと呼ぶ者もいたほどです」
それで私が家族に会いたいと言ったとき、あんな反応をしたのだろうか。
もしそうならば、智漣さんを傷つけてしまったのかもしれない。
「羽衣様にはご迷惑をおかけ致しました」
「そんな! 頭をあげてください。私こそ忙しいときに色々お世話していただいて……。何もできませんが、この国が一刻も早く平和になることを祈っています」
「……さようでございますね。ありがとうございます」
そう礼をしてから、再び私たちは歩き始めた。
しばらくしてから、どこからだろうか、子どもの泣き声が聞こえてきた。
「だれか泣いてる……」
「羽衣様?」
「秀滓さん、子どもの泣き声が聞こえませんか?」
「ああ、言われみればそのような声が……」
「迷子かもしれません。私、ちょっと探してみます」
「お待ちください、羽衣様。迷い子というのはいささか疑問に感じます。ここは山といっても、王宮の敷地内です。確かに王宮には各貴族のご子息やご令嬢がいらっしゃいますが、ここには理由がない限り、神職の者しか立ち入らないことを皆知っているはずです」
「それでも、山で泣いてる子どもを見捨てるなんてできません」
子どもは大人よりも体力や判断力に欠ける分、遭難するとその危険性は増してしまう。
喉が渇いたからといって細菌の温床になっている水たまりでも飲めば、下痢を引き起こして脱水症状になりかねない。
また体温調節が大人よりも機能していない分、低体温症になる危険も高い。
子どもが山に迷い込むというのは、生死に関わることだ。
「泣いているということは、まだ声を出せる元気があるということです。衰弱してしまう前に、見つけ出してあげないと」
「承知しました。羽衣様がそこまでおっしゃるならば、私が王宮に戻り、捜索する人間を呼んで参ります。羽衣様は、儀式を控えていらっしゃる身です。私が戻るまで少々お待ちください」
そういうや否や、秀滓さんは駆け出して行った。
待てと言われたものの、泣き声は徐々に大きくなっていき、その痛切さを頻りに訴えかけるようだ。
我慢できなくなって、声のする方へ一歩踏み出した。
ミイラ取りがミイラにならないように、十徳ナイフで傷をつけた小石を目印にする。
これを来た方向から一定感覚に落としていけば、帰り道を間違えずに済む。
声を頼りに道を進むと、ようやく体操座りで泣きじゃくる子どもの後ろ姿を捉えた。
「大丈夫?」
駆け寄って背中をさする。
顔色を確認しようと思い、下げていた頭を覗き込んだ。
「ヒッ」
子供の顔にはムカデの様な模様が浮かび上がっていた。
「助ケテェ……苦シイヨォ」
伸ばしてくる子どもの腕を思わず避ける。
バランス感覚を失い、尻餅をついた。
先ほどまで聞いていた子どもの声は、低い男の声と子どもの声が混ざった不協和音になっていた。
「オ、姉チャ、ン」
首が少しずつ奇怪に回転している。
眼が黒く染まり、肌は異様に白く、明らかに人ではない何かだ。
「オ、姉チャ、ン、食ベ、タベタイ」
骨が砕けているようにガクガクとこちらに向かってくる。
おそらく、これが禍人——。
「来ないで!」
思わず後ずさるが、どうやら意思疎通は不可能のようだった。
危険を感じたら冷静でいなさい——祖母の言葉だ。
祖母はもう一つ言っていた。
危険を感じたら、逃げることが大切なのだと。
脱兎の如く少年から離れて行く。
後ろからついてくる音が聞こえた。
足音の感覚は、普通の少年より少し遅いぐらいだ。
全身の骨が折れたような奇妙な歩き方だったから、走ることはできないのかもしれない。
それならば、好都合だ——。