三十七、前門も砂、後門も砂
その晩はもう口を交わすことはなかった。
そうして、冷たくて長い夜が過ぎていく。
次に目が覚めたとき見たのは、朝の眩しい光だった。
「よう、起きたか」
「おはようございます……」
寝ぼけ眼で体を起こすと、礼烽さんが鍋で沸かした水を差し出してくる。
「ほらよ。あんたの服乾いてたぜ。それ飲んだら早いところ着替えろ。そんで、俺の羽織返せよな」
「はーい」
引率されている生徒が先生に返すように従順な返事をする。
まだ熱いお湯を少しずつ飲みながら、身支度を整える。
服には泥の汚れが沈着してしまっていた。
洗剤があれば落ちるのになぁと口惜しく思う。
「これからどうするんですか?」
「どうするも何も引き返すしかないだろ。装備も人もいないんだ。集落に戻る以外何がある」
「でも、他の隊員の方々はどうなるんですか? 遭難しているかもしれないなら、探した方がいいんじゃ……」
「馬鹿。俺らも遭難中なんだぞ? 遭難者が遭難者の捜索してどうする。俺らが探すより、救援を呼んだ方が早いに決まってるだろ」
「でも、禍人が出たらどうするんですか? 私たちは対抗手段がありますけど、向こうにはないんですよ。小さい子だっているんですし……」
礼烽さんは呆れたようにため息を吐くと、私の両肩を掴んで顔を近付けてきた。
「いいか? 俺たちが受けた命令は、確かに禍人を討伐することだ。だけど、俺らの使命はこの国を救うことだ。わかるか? 俺も、あんたも、今ここであいつらのために死ぬわけにはいかないんだよ」
「じゃあ、禍人に襲われている可能性がある皆さんを探さないって言うんですか!」
「無闇に探して本当に孤立したらどうするんだ? 昨日は偶然、ここが水場だったから助かったんだ。自分勝手な行動で、この国を破滅に追いやってどうする」
「人の命より国の存続が優先されるような世界なら、守る必要なんてないと思います。第一、隊士の皆さんは礼烽さんの仲間じゃないんですか?」
「……こんなことで死ぬようなら、そんなの仲間でも部下でも何でもねぇよ」
昨日の和やかさが嘘みたいだった。
まともな食事をしていなければ、十分な睡眠もとれていない。
疲れとストレスは、人間を時に攻撃的にしてしまう。
今だってそうだ。
こういうときこそ、落ち着いて話し合うべきなのだ。
だけど、それはできなかった。
「この分からず屋!」と今にも飛びかかりたくなったそのとき、何かがこちらに向かっているのが見えた。
私がボーッと空を眺めているのを見て、礼烽さんも視線をそちらに移した。
大きな砂色の壁がどんどんこちらに近寄っていた。
「砂嵐……」
切羽詰まった礼烽さんの声が聞こえた。
このタイミングで砂嵐なんて、天は我々を見捨てたとでも言うつもりだろうか。
このままいけば視界は砂にジャックされ、方向感覚を失ってしまうのは明白である。
「礼烽さん、急いで顔を布で覆ってください。砂を吸い込まないようにして」
「わかってる。いいか、俺の服でも何でもいいから掴んで離れないようにしろよ」
「はい」
壁はやがて、私たちの目前にやってきた。
周りの景色は砂に覆われ何も見えない。
この砂嵐の中、頼みの綱は彼の上着だけだ。
はぐれないように裾をギュッと強く握りしめた。
砂の世界に入り込む。
こうなるともう前も見えないし、しゃべることすらできない。
砂が身体中にまとわりつくような感触を振り払いながら、先へ先へと進む。
突然一陣の風が吹いた。
叩きつけるような砂塵から身を守ろうと、思わず手を離してしまう。
あっと思ったときにはすでに遅く、私を導いてくれていた彼は砂の向こうへと消えてしまった。
——どうしよう!
焦りと不安で、心臓の鼓動はどんどんと大きくなっていく。
一縷の望みにかけて、進んだであろう方角へと向かうが、いつまで経っても視界は砂色のままである。
恐怖に支配されそうな身体をどうにか奮い立たせる。
はたと思い浮かんだ。
天女の力でこの砂嵐を吹き飛ばすことはできないのだろうか。
自分でもこの力がどこまで作用するものなのか知らない。
誰かを助けたいという想いに呼応するのならば、自分自身が対象でも能力の発動が可能かもしれない。
「お願い、助けて」
縋るような気持ちで祈り続ける。
——助けて、助けて、助けて!
蜘蛛の糸に縋る亡者の如く、心の中にあるたくさんの悲痛な想いたちが、天女の力を待ち望んでいる。
しかし、何も起こらない。
相変わらず、景色は砂の地獄のままだ。
糸がプツンと千切れて、希望が絶望に変わっていく。
自分自身は救えないということなのか。
——諦めるものか!
能力が使えないのならば、自分の力でどうにかすればいい。
こんなところで負けるつもりはない。
砂嵐が去るまで、何時間ででも歩き続けてやる。
それからは、ただひたすらに歩き続けた。
歩いて歩いて歩いて、他には何も考えられないぐらい、前へ進むことだけが身体を支配する。
一体どれほど歩いたのだろう。
何時間という疲労が押し寄せる波のようにどっとやってきた頃、ふいに砂の世界が崩れていくのを感じた。
視界が開けて、最初に目に飛び込んできたのは、乱立した大きなテントだった。
サーカス小屋のような白いテント。
集落に来たのだろうか。
最後の力をふり絞って駆け寄る。
見知った顔の人たち——朱雀隊の隊士がいた。
「天女様!」
私に気付いた隊士の一人が、今にも崩れ落ちそうな身体を支えてくれる。
「水! 水を持って来い! ……天女様ご無事で何よりでした」
「ごめんなさい……私、礼烽さんとはぐれてしまって」
他にも話さなければと口を開いたところで、ふと意識が遠のいていくのを感じた。




