三十三、砂嵐の前の静けさ
流砂に飲み込まれてしまっても、決してパニックになってはいけない。
詳しい原理は知らないが、流砂はもがけばもがくほど粘性が増して溺れていく。
大人しく救助を待つか、頑張って自力で這い出るしかないわけなのだが……。
「だ、誰も来ない……」
ここは水場からあまり離れていないはずだ。
それなのにだれも助けに来ないということは、私のこの状況は誰にも伝えられていないということである。
流砂の中では、人間の体は浮くので完全に沈んでしまう心配はない。
ただこの暑さだ。
このままだと脱水症状で命を落としかねない。
這い出るしかないと決意を固めたとき、背後から人の足音がした。
「おい、あんた。一体、こんなところで何してんだ」
呆れるように話しかけてきたのは礼烽さんだった。
腰まで埋まっている私を見て、訝しげに近付いてくる。
「見ての通り流砂に埋まってるんです。あんまり近付くと礼烽さんも沈んじゃいますよ」
「どっかの誰かさんと違って、そんな馬鹿なことしねぇよ。ほら、泥遊びはやめて帰るぞ」
両腕を掴んで引っ張ろうとするので、慌てて制止する。
「わぁーっ! やめて! やめてください!」
「んだよ、出たくないのか?」
「流砂に半分埋まってるんですよ! このまま無理に引っ張ったら、肩が脱臼しちゃいますから。私、自分自身の治療はできないんですよ! 勘弁してくだい」
「埋まってるのによく喋る奴だな、あんた。じゃあ、どうしろってんだ」
「自分で出るから大丈夫です」
この泥沼から這い出るには、まず脚を表面に出さなくてはいけない。
「んぎぎぎぎ……」
新種の生物のような声を漏らしながら、唯一自由な両手で踏ん張り、足をちょっとずつ動かしながら泥の中に空間を作り、上へ上へと持っていく。
テレビの中から出てくる髪の長い幽霊のように前へ這い出て、どうにか右足を流砂の上に出した。
あとは左足だけだ。
「うーっ……」
獰猛なチワワのように唸りながら、身体を前方へ押し出していく。
グチャグチャと音を立てながら、左足がようやく外の空気に触れた。
全身泥まみれである。
「で、出られました……」
内心ドヤ顔をしながら、礼烽さんの方を見る。
「流砂にはまらなければ良かっただけの話だがな」
唇の端を吊り上げると鼻で笑われた。
「しょうがないじゃないですか。こんなところに流砂があるなんて思わなかったんですから。……それにしても、よく熹貂ちゃんを連れてこないで私の居場所がわかりましたね」
「熹貂? 何のことだ?」
「熹貂ちゃんに言われてここに来たんじゃないですか? さっきまで一緒にいたので、てっきり助けを呼びに行ってくれたんだと……」
「……俺はもうすぐ飯の時間なのに、あんたの姿が見えないから探しに来ただけだ。熹貂のことは知らないぞ」
「どういうことでしょう? ……とりあえず、水場まで戻りましょうか」
泥まみれの服を着たままで歩くのも気持ちが悪いと思って、上の羽織りを脱いだ後、ターバンとスカーフを外す。
ワンピースもついでに脱ごうとしたとき、礼烽さんが素っ頓狂な悲鳴をあげた。
「な、何ですか!」
「それはこっちの台詞だ!」
「……私何かしました?」
「人前で服を脱ぐな!」
横に顔を背けた礼烽さんに大声で窘められる。
「そんなこと言ったって泥まみれなんですもん」
「だからと言って全部脱ぐ馬鹿がいるか!」
「大丈夫ですよ。これ脱いでもまだ下に着てますし」
「そういう問題じゃねぇ、馬鹿!」
「馬鹿じゃないですって。泥まみれの服を着て歩いていると、泥が擦れて身体に傷ができてしまうんです。その傷が感染症の原因になるかもしれないんですから、一度服を脱いで泥を落とした方がいいんですよ」
礼烽さんは面食らったようで、しばしの間考え込むような表情を浮かべた後、何かを思いついたようにこちらを見てきた。
「わかった……あんたを歩かせなければいいんだな。どうせ水場が近いんだ。服はそこで洗え。今は少しだけ我慢しろ」
「我慢? ……って、わーっ! 何するんですか!」
私はまるで米俵みたいにひょいと担ぎ上げられた。
突然のことに抵抗してしまう。
「あんまり動くと落とすぞ」
事故になのか故意になのか。
礼烽さんは周りに落ちている私の衣服も回収すると、この炎天下の中、人ひとりを担いで水場まで戻る。
馬鹿馬鹿と私に言ってきたが、この人も相当の筋肉馬鹿であることには違いない。
抵抗するのをやめた私は、折りたたまれた洗濯物のようになされるがまま運ばれた。
ガタガタと揺られていると、水場に着いたであろうタイミングで礼烽さんが息を飲む。
後ろ向きに抱えられていた私は、ポンッと降ろされると、そのまま「俺のそばを離れるなよ」と念を押された。
「どうしたんです……か」
水場を見て愕然とした。
誰もいなかったのである。
先ほどまで三十数名が夜営の準備をしていたはずのそこは、もぬけの殻になっていた。
礼烽さんは剣を抜いたまま喋らなかった。
ただその視線は、散らばった薪に釘づけになっている。
「禍人の仕業でしょうか……?」
「……おそらくな」
「もしかして皆さんは……」
禍人の襲撃に遭って殺されてしまったのではないか。
そう胸騒ぎがした。
「いや……死体もないし血があるわけでもない。逃げてはいると思うが……」
その続きを喋ることなく、礼烽さんは水場を見続けていた。
言いたいことはなんとなくわかるような気がした。
ここは砂の迷宮だ。
仮に逃げたとしても、バラバラになってしまえば遭難してしまう可能性がある。
土地勘のない者ならば尚更だ。
誰もいない水場に取り残された私たちは、何も言うことができないでいた。




