二、寝耳に水
質問を止めたのは泉の近くの泥濘に足を踏み入れてからだった。
「待ってください」
思わず智漣さんの袖を掴んで引き止める。
「どうかされましたか?」
智漣さんは驚いたようで、目を丸く見開いてこちらを振り返った。
「この泥濘にある足跡、これ猪じゃないでしょうか」
地面にはハート型のような足跡が残っている。
「近くにいるのかもしれません。ここを歩くのは気をつけた方がよさそうです」
野生動物の中でも、猪というのは獰猛な部類に入る。
突撃されるのはもちろん、噛みつかれる可能性もあるので、猪が近くにいる場合は警戒しておいた方がいい。
……という話をしながら作ってくれた祖母の牡丹鍋はおいしかった。
「ああ、もしや羽衣殿がおっしゃっているのはあのヰのことですか」
スッと智漣さんが指さす先には小さな猪の子どもが横たわっていた。
「ウリ坊じゃないですか!」
可愛らしい猪の子どもだが、子どもがいるということは親がいるかもしれない。
子連れの猪は特に気が立っている。
「怪我をしているのかもしれませんね」
注視するとウリ坊の足には切り傷がある。
傷口は黒っぽく変色していた。
「罠にでもかかったのでしょうか?」
「いえ……この泉の付近は神聖な場所とされていて、殺生することを忌み嫌う者がほとんどです」
そう言う智漣さんは、傷口をじっと見つめている。
それから険しい顔で「黒……」とポツリと呟くと、私の視線に気付いたようで、こちらを向いて困ったように微笑んだ。
猪の姿に心を痛めているのかもしれない。
自然界のことに人間が干渉しすぎるのは褒められたものではないが、何もしないで立ち去るというのも気が引ける。
「私ちょっと見てきます」
「あっ、お待ちください」
ウリ坊に駆け寄ると、痛がってはいるが息はあるようだった。
鳴き声を懸命に出しているのは、親か仲間を呼んでいるのだろう。
不憫に想い、怪我をした足の様子を見ようと手をかざした途端だった。
カッと白い閃光がほとばしる。
「きゃっ」
慌ててのけぞると、ウリ坊は元気よく鳴いて駆け出してしまった。
今の光は一体……?
視線を感じて後ろを振り向くと、智漣さんは眉間にしわを寄せて私を見ている。
なんだか居心地が悪くて、にへっと引きつりながら微笑み返す。
「今の光、なんだったのでしょうね?」
「今の光は……いや、貴女はやはり」
智漣さんは何かを言おうと口を開いたが、しばらく逡巡した後、先ほどまでの柔らかな顔に戻った。
「なんでもありません。さあ、行きましょう」
智漣さんは何もなかったように歩き出す。
私もそれに倣って、何も言わずに後を追った。
数分無言で歩いた後、一つの屋敷に辿り着いた。
屋敷と一口に言ってもかなり豪華な造りである。
よく周りを見てみると同じような豪華な造りの屋敷がポツポツと建っており、皆長い廊下で一続きにされている。
「智漣様」
屋敷の入り口から一人の男性が駆け寄ってきた。
「お帰りが遅いので心配しておりました。おや、後ろの方は……」
藍色の髪をオールバックにして片眼鏡をかけている紳士的な人だ。
智漣さんより簡素な装いをしている。
「秀滓、この方のお召し物を侍女に言って変えて差し上げなさい」
「承知しました」
そういうと智漣さんはさっさと屋敷に入ってしまった。
後からぞろぞろと清楚な格好をした女性が、追いかけていく。
「寒かったでしょう。中にお入りください」
「あ、あの智漣さんは……?」
「神官殿は少し用事がありますので、私が代わりにご案内します」
「神官?」
随分立派な屋敷に住んでいるとは思っていたが、智漣さんはここの偉い人ということなのだろうか。
「その様子ですと、智漣様は何もおっしゃっていないのですね。失礼致しました。私は水ノ処の神官補佐秀滓と申します」
「う、羽衣です……」
深々と頭を下げられて、つられて私もお辞儀をする。
「羽衣様。ここは水ノ処の王宮の中にあります、神官用の屋敷でございます。さあ、ひとまずお召し物を変えて、それから説明致しましょう」
秀滓さんが一声かけると、あれよあれよという間に侍女の方々がやって来て、私は護送される犯人のように周りを囲まれて部屋に連行された。
びしょ濡れの服を変えてもらい、髪をふいてもらって、綺麗に整えられる。
すべてが終わって鏡を見る頃には、格好だけは貴族の娘になっていた。
私の髪がショートじゃなければ、もう少しお嬢様らしくなっただろう。
しばらくすると、御簾の向こうから足音が鳴った。
「羽衣様」
にわかに声がかかる。
「秀滓でございます。お疲れのところ申し訳ございませんが、帝が羽衣様にお会いしたいとのことです」
侍女のお姉さんが御簾をスッと持ち上げると、私は廊下へ出るように促された。
「この西にあります神官殿の屋敷を抜けた、中央に位置するのが、帝のいらっしゃる場所でございます。さあ、参りましょう」
「えっと、あの、どうして水ノ処の帝は私と会いたいと?」
「詳しくは智漣様から説明致します。さあ、羽衣様。この廊下を渡った先でございます」
長い廊下を渡りきると、先ほどいた屋敷よりもさらに広い場所に出た。
例えるならば、広い宴会会場の入り口が全部簾になっている感じだろうか。
「陛下。神官補佐秀滓、陛下にご報告致します」
「よい、話せ」
御簾の向こうから聞こえてきたその声は、どう聞いても少女によるものだ。
「羽衣様を連れて参りました」
秀滓さんは相変わらず膝を床につけて、ピクリとも動かずお辞儀し続けている。
「あいわかった」
御簾がスッと上に上がると、中から智漣さんが顔を出した。
私を招き入れると、すぐに秀滓さんを呼び寄せる。
「秀滓、人払いを頼む」
「はっ、承知致しました」
私だけが御簾の中に入ると、広い広い座敷の中央に美しく装飾された台座が置いてある。
その上に乗っているのは、小学生ぐらいの少女に見えた。
「智漣、人払いはすんだか」
「はい」
「よい。天女殿。そなた、よく遠い天から遥々舞い降りて来てくれた。礼を言う」
天女……? 舞い降りる……?
「えっ、えっと何か勘違いをされているのでは……」
小声で智漣さんに声をかけてみようかと思ったのだが、智漣さんは智漣さんで明らかに納得しているという顔だ。
「そなた、玄武の泉で智漣に引き上げられたそうだな。我が王宮内に存在する玄武の泉は、天女が降臨する場所だという伝承がある」
「確かにここではない国から来たのは間違いないですけど、そんな天女なんてたいそうなものじゃないです!」
「そなたヰの子の怪我を治したそうだな」
少女にそう言われてハッとする。
猪に触れようとしたとき白い光に包まれて、猪が元気に走り去っていったのは事実である。
しかし、だからといって私が天女……?