十四、罪を憎んで人を憎まず
痛みを覚悟し、目をぎゅっとつむったが、意外にも何の触感も得ることはなかった。
うっすらと目を開けると、ポタポタと自分の顔に生温い何かが垂れてきたのを感じる。
反射的に顔を拭うと、真っ赤な液体がベッタリと手についていた。
それが何かを理解した瞬間、一陣の風と共に、空気がパックリと切れる音がして、更に男の血が私に垂れてくる。
男は声を上げることなく、コマ撮りの映像のようにゆっくりと倒れた。
全員の視線がそれに注がれる。
男の首が何者かに斬られているのに気付いたそのとき、絹を裂くような悲鳴と一緒に、イタチに似た獣人が身を捻ってこちらに飛んできた。
手先は鎌のように尖っており、木々を切り裂いていく。
「禍人……!」
思わずしゃがみこんで避けようとしたとき、仁萸さんを押し倒していた男が、禍人を見て悲鳴をあげた。
禍人はその悲鳴を聞くと、私を切り裂く寸前でピタリと止まり、凄まじいスピードで男の方へ向かっていく。
「逃げろ!」
声を荒げたのは仁萸さんだった。
しかし、男は腰を抜かしたのか動こうとしない。
仁萸さんは怪我をしていない手で地面に生えていたつる植物を触った。
微かな揺れと共に蔓は太さと長さを増し、意思を持つかのように波打つ。
それは男の足首を掴むと、禍人から引き離すように動いた。
出口の方へ男を放ると、再びもとの小さな状態へと戻っていく。
「早く行け!」
残された仁萸さんの方へ禍人が飛んでいく。
——まずい!
持っていたパチンコで、小石を禍人に向けて放つ。
ブンッと勢いよく飛んだ小石は、禍人の後頭部に当たった。
仁萸さんに向かっていた禍人のスピードが弱まった。
「羽衣殿!」
「智漣さん!」
仁萸さんを助けに行こうと赴いた足は、思わぬ声を聞いて止まった。
息を切らし走ってきたのは智漣さんだった。
「智漣さん! どうしてここに?」
「菑貴人が教えてくれたのです。しかしながら、詳しいことは後ほどご説明致しましょう」
智漣さんは背負っていた弓を構える。
水でできた矢がヒュッと禍人の頭へと放たれた。
矢は禍人に突き刺さり、禍人は呻き声をあげながら苦しむ。
「仁萸殿! 早くこちらへ」
「やあ、智漣君。来てくれると思っていたよ」
仁萸さんは転がるように私たちのもとに来た。
「智漣さんと仁萸さんはお知り合いなんですか?」
「仁萸殿こそ木ノ処の第二皇子。私が懇意にさせていただいている方です」
「またそんな堅苦しい言い方するんだから、智漣君は」
「……ということは、仁萸さんが処人?」
道理で先ほど仁萸さんが触れた途端に、つる植物が異常な成長を遂げたわけだ。
「仁萸殿。申し訳ありませんが、あの禍人を打ち倒すのにお力添えください」
「相変わらず慇懃だねぇ、君。僕こそ君の力を借りるよ」
「羽衣殿。以前私に神器を授けてくださったように、仁萸殿にも神器をお渡ししていただけますか?」
「おっと……もしかして君が天女様なのかい?」
「もしやお二人とも、お互いのことを知らずに行動を共にしていらっしゃったのですか」
驚き混じりの声にえへへと笑い返す。
天女の力がある程度、私の意志に呼応することはわかっている。
智漣さんのときは、彼を死なせたくないという想いにその力が応えたのだ。
私は仁萸さんへの想いで心をいっぱいにする。
助けたい。
力になりたい。
禍人を討ち果たす力を渡したい。
多くの想いを込めて祈ると、手の平からエメラルドグリーンの光が溢れ出した。
青龍園の木々は、いっせいにその木の葉を騒めかせる。
私の手には煌めく光と共に、青みがかった緑の分銅鎖が浮いていた。
「ありがとう、天女様」
仁萸さんは分銅鎖を片手で持つと、禍人に向かってその先端の重りを飛ばす。
上から振り下ろされた鎖は禍人の手先の鎌を砕いた。
もう一振りされた鎖は、まるで蔦が絡みつくように禍人に巻きついていく。
「これで終わりだよ」
グッと鎖を固く握ると、美しい緑の鎖はみるみるうちに紫へと変色していく。
禍人の身体に紫色の筋が何本と走っていき、やがてのこと音もなくドロドロに溶けて、紫色の塊となり蒸発して消えていった。
「倒すことができたようですね……。ところで、羽衣殿。お召し物が黒く汚れていらっしゃるようですが、まさか禍人にどこか刺されたのでは……」
「いえ、これは……」
そう言って男の死体に目を移す。
「禍人に殺された者ですか」
「この男は兄上の私兵だよ。僕を監禁して、羽衣君を殺そうとしたんだ」
「第一皇子の? 何故、羽衣殿まで狙う必要があったのですか?」
「最初は羽衣君が何か情報を掴んだからだと思っていたんだが、君が天女様なら話が変わってくるな。兄上の背後に誰かいるのか……。ともかく、この男たちは羽衣君を天女だと知ったうえで襲ったんだ。何者かが天女を狙っているんだろう」
「第一皇子が主犯ではないということですか」
「兄上一人ではここまでのことはできないよ。誰かに入れ知恵されたんじゃないかな……。ともかく、一旦ここから出よう」
仁萸さんは、黒い血で汚れた男の体を抱えようとした。
「すまない、智漣君。先の戦闘で腕を痛めてしまってね。一緒に抱えてくれないかい?」
「連れて帰るのですか?」
「ああ。彼もこの処の民なんだ。家族もいるだろう。せめて亡骸ぐらいは連れて帰りたいんだ。僕が守りきれなかった責任もあるしね」
どこか辛そうに仁萸さんは呟いた。
智漣さんは神妙な面持ちで、服が汚れるのも厭わず、男を運ぶのを手伝う。
私は黙ってその後を追いかけた。
「……しかし、君が天女様だったなんてね」
「私も仁萸さんが処人だなんて思いませんでした」
「お互いに自分の身分を明かすことを警戒した結果だね、これは。君が水ノ処から智漣君と一緒に来たなんて言うものだからさ。僕はしばらく監禁されていたから、天女様がいらしたことなんて知らなかったんだ。てっきり、智漣君の奥方だと思っていたよ」
智漣さんがすごい勢いで咳き込む。
「何故そのような考えに至るのですか!」
「だって、羽衣君は水ノ処の上等な旅装束を着ているじゃないか。大臣の娘でもないし、智漣君と一緒に来たって言うだろう? 女官にしては宮中の喋りじゃないし、服も上等すぎる。……となると智漣君の結婚報告かなって思わないかい?」
「思いませんよ!」
「すまない。母上が君の縁談が持ち上がっていて、木ノ処から嫁がせるという話もあるなんて聞いていたから……」
「初耳なのですが……」
「仕方がないね。宮仕えの定めだ。所帯を持って一人前とされる風潮があるからさ」
「やっかいなお話ですね」
大変そうだ。
結婚話が持ち上がるということは、智漣さんは20代ぐらいなのだろうか。
私より年上だとは思うのだが。
「ともかくそのようなお話はおやめください」
「なんかすみません、智漣さん」
「あ、いえ、その、羽衣殿は悪くありません。何と申しますか、羽衣殿と私がそのような関係だと思われるのが決して嫌なわけではなく、羽衣殿にご迷惑だと思い……」
どうしてか智漣さんはしどろもどろだった。
「別に私はなんとも思ってないですよ。私も仁萸さんのことお医者さんだと思ってましたし」
「さ、さようですか……」
仁萸さんは私たちを見て小さく笑っていた。
どうしてだろうか。
不思議に思っていたのも束の間、宮中の喧騒が耳に入ってきた。
ようやく青龍園を抜けたのだ。




