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一、事実は小説よりも奇なり

 枯葉を踏む音が山に響く黄昏時。

祖母はよく「暗くなってから山に入ってはいけないのよ、羽衣ちゃん」と私に言い聞かせていた。


 その祖母ももういない。

母はもう誰も住んでいない祖母の家も、祖母がよく私を連れて色々なことを教えてくれたこの山も売る気なのだと言う。


 最後に祖母との思い出をと、山に入ったのは確か三時間前だっただろうか。

 山といっても小さいものである。

もうそろそろ下山しようかと思った矢先、ふと山の景色が変わったように見えた。

青く霞みがかったこの山は、祖母と駆け巡った思い出の地ではない。


「迷子になったら木に登ってご覧なさい」という祖母の言葉を反芻し、私はポケットから十徳ナイフを取り出して、セーラー服のスカーフを切り裂く。

どうせもう卒業するのだ。


「問題ないでしょう」


 切り裂いたスカーフを両方の靴にぐるりと結びつけて、簡易の滑り止めにする。

 片足を木にかけてひょいひょいと登ると、霧はより深くなっているようだった。

 ただ東の方から水の音がしている気がして、川の近くにいるのだと少し安堵した。

景色はあまり見えないが、川を辿っていけば下山はできるだろう。

 木から降りて水音が聞こえる方を目指す。


 ピチョン、ピチョンと魚が水を跳ねるような音に導かれていく。

 霧を超えた先にはポツンと泉があった。

祖母の山に泉などあっただろうか。

泉は透き通っていて、底が見えそうなぐらいだ。

喉は乾いているが、煮沸していない水ほど危ないものはない。

「細菌がいるからお腹壊すのよ」と川の水を煮沸していた祖母を思い出した。


 顔を洗うぐらいはいいかと泉に体を近付けた瞬間——。

何かに手を掴まれた気がした。

そのままグイッと泉に体を引っ張られる。


 ——このままじゃ溺れる!


 抵抗しようと体を捩ったが、意思を持ったような水にあっさりと引きずり込まれる。


「羽衣ちゃんは、危険な目に遭ったときどうすればいいかわかる?」


「……ううん。わからない」


「大切なのはパニックにならないことよ」


 ニコリと微笑む祖母の顔が脳裏に浮かんだ。

 そうね、実際に危機に瀕すると冷静にはなれないものね、と思い出と共に私は目を伏せた。




 次に耳にしたのは、水のせせらぎのように美しい男性の声だった。


「大丈夫ですか?」


「うっ……ゲホッ、ゴホッ」


「ああ、意識はあるようですね」


 まぶたを開けると、和服を着た青年が私を抱きかかえていた。

 目も覚めるような美しさとは、こういう人のことを言うのだろうとのんきなことを思ってしまう。


「貴女、泉で溺れていたのですよ。さあ、立てますか? 近くに拙宅がございます。そこで手当てしましょう」


 禿に切りそろえた前髪の陰が落ちる。

 歴史の教科書で見た狩衣のような装いをしたその人は、青みがかった黒髪から雫を垂らした。

 どうやら先程までいた祖母の山ではないことだけは確かなようで、これは夢だろうかと虚ろな頭で考える。

 夢でないならば——。


「ここは……黄泉の国ですか?」


 その人は切れ長の目を見開くと、眉を寄せた。


「どうやらまだ大丈夫じゃないようですね」


 青年は私の腕を自分の首に回させると、袖から水を滴らせながら私を持ち上げた。

 これはもしかしても、もしかしなくても、お姫様抱っこというものなのでは……。


「お、おろしてください!」


 急に恥ずかしくなってジタバタ慌てると、青年は慌てたようだった。


「危ないですよ!」


「あ、歩けます! 自分で歩けますから!」


 私の暴れぶりに観念したのか、「わかりました、わかりましたから!」とそっとおろされた。


「それにしても……そのお召し物、このあたりでは見ないものですが、どこからいらっしゃったのですか?」


「えっ? に、日本ですけど……」


「ニッポン……?」


 聞き慣れない言葉だと顔を振る男性に、私の脳内が警報音をけたたましく鳴らす。


「すみません、ここはどこですか……?」


「ここは野老国、水ノ処です」


 トコロノクニ……?

 スイノショ……?


 聞き慣れない言葉に、頭の中のハザードは針が振り切れて爆発しそうだ。


「何やら思うことがあるようですが、風邪をひいてしまいますから、ひとまず拙宅においでください」


 そういうと青年は私を軽くエスコートした。

言われるがまま傀儡のようについていく。

夢ならばそろそろ覚めてほしい。


 歩きながら私は、怒涛の質問ラッシュを青年に浴びせた。


「助けてくれてありがとうございます。えっと……。私は羽衣、佐久間羽衣(さくまうい)と言います。お兄さんは……?」


「羽衣殿ですか。美しいお名前ですね。私は智漣(ちれん)と申します」


「智漣さんですか……。あの、ここは野老国だと先ほどおっしゃっていましたが、日本じゃないということですか?」


「日本……ですか。私の不勉強かもしれませんが、存じ上げませんね」


「それじゃあ、今って何年ですか?」


「何年……。そうですね。この国は神々に創られてから、おおよそ六千と三百回ほど満月を見ていると思いますよ」


 そこから時折詩的な智漣さんの返答に悩みつつも、この昔の日本風な国について、頭の中でまとめてみた。


 まず、この野老国というのは、神々に創られてから約五百年ほど経ていること。

 次に、元々は一つの国であったが今は五つの地域にわかれていること。

これについては都道府県のようなものかと思っていたが、ほんの五年前まで争っていた地域同士もあるようで、そう簡単なものでもないらしい。

 今いる私の地域が水ノ処、そして残りが木ノ処(もくのしょ)火ノ処(かのしょ)金ノ処(きんのしょ)土ノ処(どのしょ)の四つ。


 冷静に考えてみると受け入れがたい話ではあるが、どうやらあの泉に落ちてから、私は元の世界とは違う世界に来たようだった。


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