氷とペンギンの夏の日
「暑いな……」
「暑いですね……」
夏も真っ盛りになってきて、いつもは涼しい図書館の空気もじわじわと侵食されてきている。
俺はベンチの上で、ラフィも上に行くほど暑いので、床近くをふわふわ上手く浮いていた。
俺は昔から夏は嫌いではないのだが、嫌いではないからといって快適なわけでもない。
「暑いと言いながら過ごすのも夏の良さだよな、ラフィ」
同意を求めるように、いや、自分に言い聞かせるように言う。
「私もこの季節は初めてではないですが、そうなんですか? そういえばこの前……」
そう言うと、近くの棚を探して、一冊の本を開く。
服がぱっと薄緑のワンピースに変わる。それと一緒に髪も後頭部でまとめた形になった。これはなんていう髪型だったかな……と考えて、シニヨンというのを思い出す。
合っているのかどうかはわからない。
「まぁ似合ってるからなんでもいいか……」
ぼーっとその涼し気な姿を眺める。
「なにか言いました?ケイ」
「いや、なんでもない」
俺の返事に不思議そうな顔をしたが、気にしないことにしたようで、ワンピースのすそをつまんで俺に披露するようにくるりと回った。
「どうですか? これは夏が舞台の青春物語なのですが、ヒロインの服でですね。これを着て主人公と、遠い海まで出かけるんです」
「海か……」
波の音。白い砂浜。俺の頭の中に雄大な海が広がる。
「ラフィ、その本の海へ行こう」
その風景の中に入りたくなった。
「海、ですか? えぇっとですね……」
ラフィが少し考えてから言う。
「この本の内容ですが、話しても大丈夫ですか? ケイは、まだ読んでないですよね」
心配そうに聞いてきた。
「構わないよ。それより暑いのをなんとかしたい」
本心だったが、少し残念に思うあたり、俺はやはり本好きらしい。
「じつはですね……。2人は海に向かうんですが、結局辿りつけずに、道に迷ってしまうんです。どんどん空も暗くなっていって、このまま帰るのも悔しい。会話もなくなっていって」
ラフィの目にじわりと涙が浮かぶ。
「そこからがですね。すごいキュンキュンするところなんですが、なんと出たところが……」
「あ、うん。わかったラフィ。そこから先は、あとから読んでみようか……な」
なんとなく長くなりそうだったので止める。いつもならその話を聞くのもいいが、今はちょっとでも早く涼みたい。
「そうですか……」
残念そうに続きを言うのをやめて、ラフィはその本をめくって読みだした。しばらくはこのまま読んでいそうだ。
海の本はなにか無いか……。本棚に手を伸ばす。
ひんやりとしてそうな、白い装丁の本を開くと、俺の求めていた一文が目に飛び込んできた。
──『海はどこまでも広がり、波は穏やかで、彼はほっ、と一息ついた」
「ラフィこれだ!この世界に行こう」
本を渡す。
「え?ケイ?これでいいんですか?」
「いい!頼む!早く!」
それでは、とラフィが本を開く。
『蒼い世界は水平線の彼方まで』
『彼の目指した遠い世界』
『白い氷の果て』
光が拡がる。
……ん? 氷? 呪文の言葉が気になったが、俺はもう光の中にいた。
────────
失敗した。
失敗した。と言ったはずなのに、声が出なかった。
青い海、青い空。……そしてどこまでもつづく白い氷の平原。
「ケイ、本当にここでよかったんですか? ……あ、あの、寒くないですか……?」
声の方を向くと、ラフィのさっきまでのワンピースはふわふわもこもこの防寒着に変わっていた。丁寧に頭まで全部フードで覆われている。
「失敗したよ……」なんとか声が出る。
ラフィまでは声が届かなかったようで、開いた本の解説を始めた。
「この本はですね、南極まで旅した人の冒険記ですね。酷い天気のあとに広がった晴天の場面です」
最高に良い天気だった。空気も澄んでいて、どこまでも見渡せる。
しばらくぼーっと青と白以外何もない世界の中をただよう。ただ……。
「夏服で来るには少し寒すぎたな……」
もう指の感覚はなくなりそうだった。
そろそろ帰ろう、とラフィを探す。少し離れたところで、彼女はペンギンと遊んでいた。
ペンギンは水族館では人気だが、実際野生のを見るのは初めてだ。危なくないのか? とも思ったが、そこは本の世界だしなんとかなるのだろう。
「ペンギン好きなのか?」
近づいて話しかける。小さな子ペンギンらしきものがぴょこぴょこと歩いていた。その周りには見慣れた成体のペンギンも何体かいる。
「はいっ! 可愛いです。ちょっと魔法の範囲広げたのでこの子達は自由なこの世界のペンギンさん達なんですよ」
目がキラキラしている。帰ろう、という言葉を言おうとしたが、飲み込んだ。
「俺にもその防寒着みたいなの出せないかな? それがあればもう少しここを楽しめそうなんだけど」
「これ……ですか? 自分の分は出したことあるのですが、誰かに出したことは……」
そう言うと、俺を足先から順に眺める。小刻みに震えているのが伝わったのだろう、ラフィが頷く。
「わかりました! やってみます。」
本を出して、呪文を唱える。
顔の周りがふわっと暖かくなる。それから体が一瞬にして、もこもこに覆われた。
「できました……!」
「ありがとうラフィ。さすがだよ」
震えが止まって、ようやく落ち着く。
「ちょっといつもと違う感じなので、調節が難しいですね。きつくないですか?」
ラフィが本を置いて、俺の裾の長さを確かめたり、首の辺りの隙間を見る。
なんというか。出勤前のスーツの具合を見る妻ってこんなかんじなんだろうか。と考えて、冷たかった顔が熱くなった。
「だ、だいじょうぶだよ! ちょうどいい!」
腕を伸ばしたり屈伸をする。少しきつめな気持ちもするが、動くのに問題はなかった。
「よし、俺もペンギンと遊ぼうかな!」
「そうしましょう!」
少しオーバーなリアクションでペンギンに向かう。
と、歩くさきに、数匹のペンギンが固まっていた。頭に何かを乗せて歩いている。
「あーっ! ケイ! その子たち止めてください!」
後ろからラフィがいきなり声を上げた。
よく見ると、ペンギンたちの頭の上には本が、さっきまでラフィが持っていた本が乗っている。
「置いた時持っていったのか……!」
俺が走り出すと、その中の一匹が本を背中に乗せて、そりのように滑りだした。
「器用なもんだな……、っておい待て!」
感心するが、どんどん距離は離れていく。走り出すと、ラフィも飛びながら追いついてきた。
「すみません、ちょっと目を離してしまって」
「ラフィのせいじゃないよ。俺のためにやってくれてたんだし。とりあえず早く取り戻そう!」
そう言うと、こくんと頷く。
白い平原を全力で走る。靴もさっき防寒着と一緒に南極仕様になっていた。
前を行くペンギンは追いつけそうで追いつけない。絶妙なスピードで楽しんでいるようだった。
走りながら、少し暗くなってきたように思って、空を見る。雲が拡がってきている。
「ラフィ、このあとの場面ってどうなるか知ってる?」
「えぇっと……。少し見ただけですが、また嵐が来ます」
「この服で凌げるかな?」
「本があれば、ある程度大丈夫ですが……場面が変わるってことはちょっと私の制御から外れてきたのかも…」
そう言うと、緊張した顔をこっちに向けた。魔法の範囲を広げた影響なのかもしれない。
「急ぐぞ……!」
俺が言うとラフィも一緒に速度を上げる。
顔になにか冷たいものが当たってきた。風もだんだん強くなっている。
あと少し……。手を伸ばせば届きそうな位置なのにわずかに届かない。
いきなり、ペンギンが止まった。
勢いあまって、そのままぶつかる。体勢を崩しながら無我夢中でペンギンと本を掴む。
地面にぶつかる衝撃を覚悟したが、俺はそのまま空中にいたままだった。
頭の位置が逆になっているのに気が付く。周りは氷の壁だ。
「ケイ! 今助けます!」
下から、いや、上からラフィの必死な声がした。
俺の足を誰かが掴んでいるのがわかる。
人1人がちょうど落ちるだけの大きさに、地面にできた裂け目。俺はそこに体の半分以上落ちていた。
右手で本を掴んで、左腕ではペンギンをなんとか抱きかかえている。夢中でやったにしては上出来だ。腕の中で原因を作った張本人が静かに鳴く。
落ちた俺を、ラフィがなんとか捕まえてくれたようだ。
「ラフィ! ごめん! お願い」
俺1人でも上げることなんてできるのだろうか。しかし今はラフィに頼むしかない。
「ケイ! 本は持ってますか? 絶対離さないでくださいね! あとペンギンさんも!」
本を見ると、淡く光っている。
俺の中を何かが通っているような感覚。少しずつ俺の体が上へと引き上げられていく。
「本を直接持っていればこんなのすぐなんですが……」
ラフィが苦しそうに言う。
「せーーーのっ!」
大きな声と一緒に俺の前に広い世界が戻ってきた。
なんとか地面に横になり、ペンギンを離す。
命の恩人に礼も言わず、ぴょこぴょこと歩いていく。
「お前のせいだぞ……」
体を起こしながら、ずいぶんと動きやすいことに気が付いた。
さっきまで覆っていた防寒着が無い。俺がつけているのは下着だけだ。
「こ、これ……! どうして……!?」
ラフィは隣で力を使い果たしてうつぶせに倒れていた。
「ラフィ、これ……」
本を渡す。
「あ、ありがとうございます。ケイ。良かった……無事ですね」
「あぁ、頑張ってくれたおかげだ」
できるだけ見ないようにして返事をする。
「──え? あ、ケイにかけた魔法が解けて……」
体を起こして本を受け取ったラフィが一瞬固まる。
「……きゃあーーーーー!!」
南極の大地に悲鳴が響く。
彼女の服も俺のと同じように消えていた。
────────
「あついな……」
「ごめんなさい……」
図書館は出掛けた時と変わらず夏の空気が充満していた。
嵐になる直前、なんとか本を取り戻した俺たちはなんとか危機一髪、図書館に戻ってこられた。
ベンチに横になった俺の頬には、ラフィが南極から持ってきた氷が、袋に入れて乗せられている。
「いや、ラフィのおかげで助かったんだから、これくらい大丈夫さ……」
頬が熱い。
本を渡した俺を見てから、自分が何も纏ってないことに気づいたラフィはパニックになり……、俺の頬にビンタを一発放ってきた。
帰ってきてからもずっと彼女はそれを反省していた。
セミの声が図書館の中まで届いてくる。
「やっぱり夏は暑いほうがいいな」
少しおおげさに明るく言う。
「そうですねっ」
やっとラフィが表情を崩す。
「あの青春小説、好きなんだろ?」
思い出して言う。
「それじゃ、今度は夏の海に行こうか?」
「はいっ!」
嬉しそうに返事をしてくる。
やっと元気を出してくれた。
今日はなんとかこれでいつも通りに過ごせそうだ。
海。海といえば……。
まったく男ってのは嫌なもんだ。彼女がようやく元気になったってところなのに。
頭の中で、まだ見ぬ彼女の水着姿を思い浮かべて、頬の氷が少し音を立てた。