2階の窓にはキミの笑顔
アパートを出てから10分、一軒の家の前で立ち止まる。2階の窓を見上げると、レースのカーテンが風に揺れていた。俺はまた、前を向いて歩き出す。最寄りの駅まで、また、ここから10分歩いた。
今の職場の病院に就いてから、一人暮らしを始めた。病院のすぐ側にも良い物件はいくつかあったのだが、どうしても決めることができず、実家からさほど遠くない場所のアパートを借りた。病院からは電車で5駅も先なのにだ。車で通うこともできるが、そうする必要性も感じられず、電車通勤だ。
流石に7月の20分の道のりは汗が流れていく。職業柄、熱中症の対処なども熟知しているが、職場までにペットボトルが3本は空になる。髪をもっとサッパリ切ろうかと考えて、切った後の自分が想像できず、いつも通りのままかもしれないと落ち着いてしまうのだ。
青いチェックのシャツにチノパン、デイバッグ。通勤の格好にすれば、かなりラフだ。ラフというよりオタクっぽいと周りから言われているのを一応は知っている。度が強い黒縁の眼鏡がよりその印象を強めているのも知っている。でも、そこから抜け出せないのだから、貫いてやると意地になっている部分もあるかもしれない。オタクっぽいと言われても、アニメや漫画、ゲームにはあまり詳しくない。有名なものは知っているというくらいだ。電気系統もそれほど詳しくはないし、何かに特化して詳しいというオタクのイメージとは実は当てはまってなかったりする。ただ、そんな服装が楽だと思っているだけだ。
職場のロッカーで仕事着であるカラーのポロシャツと白衣を纏う。ここは総合病院の精神科。総合病院なので白衣は着用するがスクラブなどは着ない。患者に寄り添う精神科医は衣服にも不安にさせない考慮が必要だ。考えれば白衣も不安だという患者もいるので、そこは白衣を脱いで対応もする。患者に対して色々と考えているつもりなのに、なかなかうまくいかないのが世の常なのかもしれない。俺はものすごくあがり症なのだ。患者を前にすると、どうしても緊張してしまう。新米だからとか、そんな理由では済まされないレベルだ。わかっている。わかっているんだが、診察を終えると頭を抱えてしまう。そして、いくつかの自己啓発本に頼ってしまうのだ。
「太田先生は顔は優しいのに、ちょっとね」
俺についていた看護師の沢村さんが、頭を抱えている俺に声をかける。
「どこが、ダメなんでしょうか。うまく話そうとは思ってるんですが」
「うーん、私だったら、先生はロボットみたいに見えちゃうかも」
「ロボット……」
丁寧な言葉を選んでいるつもりなのに、ロボットに見えているとは。ぎこちないってことか。スムーズに喋るにはどうすればいいのか。俺はまた頭を抱えるしかなかった。
午前中の診察がひと段落し、休憩室でコンビニのおにぎりを食べていた。そこへ大袈裟なくらいどかっと結城先生が隣に座った。大きな体格だから柔道か何かをやっているのではないかと思うくらいだが、本人はただの大食漢と笑っている。
「コンビニのおにぎりも美味いとは思うけど、いつもそれで飽きないのか?」
結城先生と並ぶと俺は小動物みたいに周りには見えるらしい。これでも、170cmは一応超えているんだが。
「好きなんですよ、おにぎり。今日は明太子ですし」
ペットボトルの緑茶を飲んで、俺は答えた。結城先生はこの病院に就いたときに指導してくれた先輩医師だ。患者だけでなく家族や周りの話をしっかり聞いて、客観的に診ることができるという尊敬すべき先輩だ。俺の羨望の眼差しにも、豪快に受け取ってくれる。
「悩んでんだって。」
「あー、沢村さんに聞きました?」
「診察終わったら、いつも頭抱え込んで深刻だってさ」
俺は乾いた笑いしか出でこない。
「悩みはさ、誰だってあるもんだよ。精神科医だって人間だ。悟りを開いているわけじゃない。医者であって心理士でもないしな。」
結城先生は、区切って、持ってきた缶コーヒーを一口飲む。
「ただ、自分を変えたいって思うなら、自分から変わらないと無理だな。誰かが教えるもんじゃないよ」
「自分からですか……」
「自分から動き出さなきゃダメってことさ。本ばかりを頼っても無理だと思うぞ」
結城先生は残ったコーヒーを一気に飲み干すと、俺の背中に喝を入れて休憩室を出て行った。
「俺って、どうなりたいんだろう」
つぶやきがいつまでも耳に残っている気がした。
休日、俺は商店街の大型書店に来ていた。なんとなく、自分を変えたいという願望が強くなって来ていることに自分でも驚いている。先日の結城先生の言葉のおかげだろうか。まだ、それに形はなく、なんとなくという曖昧で見えないものだけれど。メンズ雑誌のコーナーで、何冊か手に取ってみる。今の流行りの服装、ブランド時計、スーツ、ヘアスタイル。どれも、自分にしっくりこない。それもそうか。今まで変えようとしたことがないから、変わった姿が全く想像できないのだ。カッコいいと思うモデルはたくさんいるが、彼らが着ている服を自分が着こなせるとは到底思えない。自分が着たら、どんな服装も野暮ったいのではないだろうか。オシャレが好きな人たちは、どうやってオシャレ度を磨いていったのか、そちらのほうを教えて欲しい。一応参考に売れ筋の雑誌を2冊購入した。
商店街はいつも人が多く行き交っている。最近は外国人観光客も多く、TAXフリーの看板を大きく掲げたお店が目立つ。買い物はどちらかというと積極的にはできない。インターネットショッピングの方が性に合っているとさえ感じる。やっぱり、ここでも店員とのやりとりができないからというのが大きな理由なのはいうまでもない。
昼食を取ろうとハンバーガーチェーン店に入る。限定商品のハンバーガーセットを勧められて、じゃあそれでと注文した。なんだかそれも、自分がないと感じてしまうようになった。席を探していると、どう見ても小さな椅子に大きな体躯の男性がいる。見間違いようがない結城先生だ。休日だし、女性といるようなので遠くの席を探そうとしたが、逆に声をかけられてしまった。それも大きな手をブンブン振って。俺は苦笑いしながら同じテーブルに着いた。
結城先生の私服はモデル並みの男っぽいものだった。黒のTシャツにスラックスというカジュアルなのに着こなし方がオシャレに見える。180センチを超える身長のせいだろうか。厚い胸板のせいだろうか。フェロモンが男の俺にも感じられるのだから、周りの女性の注目を浴びているに違いない。その結城先生の前に座っているのが小柄な沢村さんなのだから、信じられない。ここは病院ではないはず。沢村さんも病院内のように髪をまとめてはおらず、パーマのかかった髪はふわっとしている。私服も可愛らしい花柄のノンスリーブのワンピースだ。女性はオンとオフがガラリと変わるなぁと感心してしまった。
「あの、どうして結城先生と沢村さんがデートしてるんですか?」
「どうしてって、俺と美樹は付き合ってるからな」
状況が飲み込めずにいる俺は、堂々としている結城先生を見つめすぎたかもしれない。
「あんまり見つめると、毅くん照れてくるからね」
「おい、」
沢村さんのにこにこしながらの言葉に、結城先生が赤くなる。結城先生の方が年上のはずだけど、主導権は沢村さんみたいだ。なんていうか、微笑ましい。こちらも笑顔にしてくれる二人だ。いいなぁと思う。俺の頭の中には、目の前の二人の会話と似たような会話を交わせる幼馴染の姿が見えていた。
「太田は変わりたい願望はないのか」
結城先生が思いついたようにハンバーガーを口にしていた俺に問いかける。沢村さんも興味があるようで目がキラキラしている。二人はそんなこと聞いてどうする気だろう。
「ありますよ、そりゃあ。でも、なんていうか、変わった姿が想像できなくて」
「でも変わりたいから、雑誌も買ったんだろう」
結城先生は目敏く俺が購入した雑誌を見て言った。そりゃ俺が2冊も買っていたらそう取られるよな。
「私が気になるのは、太田先生は見た目と中身どちらが変わりたいのかなって」
「見た目か、中身?」
結城先生から沢村さんに目線が移る。
「そう。見た目はファッションを勉強すれば簡単かもしれないけど、中身は今まで培ってきたものだから難しいかもね」
「でも俺は見た目から変えてみるのも手だとは思う。手始めに眼鏡をやめてみればどうだ」
「え、これがないと何も見えなくて」
「とりあえず、俺たちの前で外してみろ」
結城先生に押されて渋々眼鏡を外す。ぼやけた姿の二人が息をのむ気配が感じられた。でも、気配だけの世界は心許ない。
「眼鏡かけていいですか。やっぱり見えないと……」
眼鏡をかけると、なぜかそこにはニヤニヤ顔の結城先生と沢村さん。これは、何か企んでいる気がする。俺は罠にはめられていくと実感していた。
最寄りの駅で幼馴染の深雪を見かけた。やっぱり彼氏を連れている。なんだかチャラそうに見えるのは、俺が猜疑心を抱いているからだろうか。深雪が好きになるのは、なぜか女遊びが激しそうなヤツが多い。そんなヤツらに惹かれてしまう深雪もどうかと思うが、深雪を遊ぶように付き合う男たちには反吐がでる。どうしてそんなヤツばかりにと毎回腹立たしくなる。
俺は横目でそれを確認してから、自宅のアパートへ足を向けた。夕暮れを背に歩く。夕立でも降れば少しは涼しくなるかもしれないが、まだ蝉がやかましく鳴いている。幼馴染が住む2階の窓の灯りはまだ点いていなかった。
午後の診察も終わり、会計も集計に取り掛かり始めているころ、残っている通院患者はもう少ない。けたたましくパトカーのサイレンが病院周辺で鳴り響いていた。何か事件だろうか。外来の医師や看護師たちも何事かと出入り口の方を気にしている。俺も気になってはいたけど、やることはある。気配だけをそちらに向けていた。パトカーの音が止んだ。過ぎ去ったかなと思ったら、瞬く間に女性の悲鳴が聞こえた。何事かと出入り口に向かう。正義感。俺の悪い癖だ。受付窓口付近で、刃物を持った男が叫び喚いていた。警備員が近づこうとするが、刃物を振り回しているので、迂闊に近づけない。俺は、情けないなと思いつつ、男に近づいていった。
「なんだ、テメェ、刺されたいのか」
男は近づく俺に敵意を向けてくる。刺されたいかはどうでもいいんだけど、誰かに危害を加えて欲しくはない。
「僕は精神科医の太田です。刃物を捨ててください」
「ああ!」
ああ、なんか俺の話し方って敵意があるヤツには気に障っちゃうんだよなぁ。なんでかなぁ、もう。
「僕はこの分厚い眼鏡を取ると、何も見えません。だから、抵抗できないように眼鏡を置きます」
俺は眼鏡を置いた。そして気が立っている犯人に向けて、手で招く。これはもう、イラッとするだろうことは予測済みだ。
男の敵意が向かってくる。周りのか弱い女性たちよりも自分に敵意の気配が向いていることを確認。男の気配だけに集中した。ーー来る!
「死ねぃーー」
俺は身をかがめ間合いを確認。男の手の位置、足の位置、頭部、胴体。脳裏に男の向かって来るイメージが鮮明になる。俺は頭部を目掛けて回し蹴りを食らわした。男の倒れる音が静まっていた院内に響く。起き上がる気配は感じられなかった。良し。
パトカーのサイレンが到着した。警察官だろう大きな体躯の影がちらほらしている。あれ、眼鏡どこに置いたんだっけ。手探りで探していると、パリンと割れる音がした。俺の眼鏡が誰かに踏まれたらしい。血の気が引いていくとはこのことかと実感せざるおえなかった。やばい、ほとんど見えてないのに。
まさか、眼鏡を外すことはないと思っていたから、ロッカーに代わりの眼鏡なんて置いていなかった。不測の事態というのは、ちゃんと考えておくべきだなと警察官の事情聴取中考えていた。ほとんど見えていないので、警察官の顔も見えていない。気配で察知しているだけだ。なんとか聴取を終えて、帰途に着こうとしたが、もう辺りは暗いし、不安要素しかない。どうやって帰ろうか。最寄り駅まで行ければタクシー代はなんとかなるけど、病院からは難しい。病院に泊まり込んでも事態は変わらない。どうする、俺。
「太田、見えてるか、」
椅子に座ったまま、どこに焦点を置いているのかわからない俺に結城先生が声をかける。
「見えてないです。どうやって帰ろうかと考えてて」
結城先生が隣の椅子に、いつも通りどかっと座る。その前方に座ったのは沢村さんだろうか。女性の気配。
「お前、見えてないのに、なんで回し蹴りができるんだよ」
「えっと、気配で」
「おかしいだろ、普通無理だから。何、空手有段者だったの、お前」
「はい、小さい頃から習い事はそれだけやらされてて」
気配と会話するのは、表情が読めず、だんだんとエネルギー消費量が増えていく。
「でも、カッコよかったー。一瞬で倒しちゃうんだもん」
「それは、俺も思った。まさかの弱そうなお前が倒すって、どこのヒーローだよ」
「すいません。警察が来るの待つより、相手した方が早いかなって思って」
ああいうのに出くわしてしまうと正義感の塊みたいになってしまう。普段はなんとなく様子見てから行動するようにしてるので、だんだんいたたまれなくなってくる。ヒーローを気取ってるわけではないからだ。というより、目立つことは本当は避けたい。俺は深いため息を吐いた。
「これを機に眼鏡をやめてみればどうだ」
結城先生はなぜか今、俺の自分改革を進めようとしている。
「それ、良いかも。大体の職員が眼鏡なしの太田先生を知ってしまったから、ちょうど良いかも」
沢村さんも賛成意見のようだ。なぜ?
「でも、何も見えないんで」
「コンタクトにすれば良い」
「コンタクトめんどくさいです」
俺はなんとか反論する。
「めんどくさいなんて言ってたら、自分は変わらん」
結城先生と沢村さんに両腕を掴まれて、ひきづられるように病院を出ることになった。
「とりあえず見えなきゃ何にもならんから、コンタクトだな」
目が見えないままコンタクトレンズ店に入店させられる。もうされるがままだ。視力を測って、度にあったコンタクトをつける。途端に視界がクリアになった。だけど、顔にかかる眼鏡の重みが全くないので、かなり不安だ。結城先生と沢村さんの顔が見れてホッとするが、また、がっしりと両腕を二人に掴まれてた。逃げられない。二人の笑顔がとても怖い。良からぬことを考えているに違いない。
次に連れてこられたのは美容室だった。俺がいつもいくような理髪店ではなくて、オシャレな男性が通うだろうお店だ。働く美容師たちも絶対にオシャレだ。もう、それしか言いようがない。
「どういたしましょうか」
担当になった男性美容師が俺に聞く。
「サッパリ、かっこよく。病院で働くから、カラーは無しで」
結城先生が勝手に答えていた。俺はなすがまま。ここまで来て、文句は言えない。言えるわけがない。美容師は俺に色々話しかけてくれるけど、俺は受けごたえがあまりできなかった。
出来上がりに満足したのは、俺ではなく、結城先生と沢村さんだった。鏡の中の俺は、別人にしか思えなかったからだ。確かに、雑誌に登場するような若手俳優っぽい気はする。イケメンかどうかは別として。でも、自分じゃない気がして、実感が全く伴わない。どこにいったんだろう、俺という存在は。
コンタクトと美容室の代金は俺たちのおごりだから、服は自分で買えと言われて、いつもと同じようなチェックのシャツを選ぼうとしたら、げんこつを食らった。自分より大きな結城先生からのげんこつは、雷の衝撃だった。
二人は、俺の意見など無視して、Tシャツを選んでいる。
「男はシンプルな方がいいんだよ」
結城先生は男の美学をしばし語り、無地のTシャツを5枚買わされた。安物ではなかったから、本当のところ痛い。でも、二人は俺の自分改革を指南してくれているんだと感謝することにした。
「明日から、服装もちゃんとしてこいよ」
「今までもちゃんと着てましたよ」
今までのことをダメだったと言われたみたいで、不満を含めた言い方をしてしまった。
「何事も自分から変えろってことだ」
「明日の病院が楽しみー。看護師たちの噂の君ね」
「それって、どういう」
「明日来てみたらわかるわよ」
ね、と沢村さんが結城先生に目配せする。
二人は外食して帰るというので、デートの邪魔はしたくないと駅で別れた。仲良く腕を組んで離れていく二人を見送る。良いなぁと思う反面、俺には無理かなと思ってしまった。アイツの隣に俺の場所は残されているだろうか。
職場に着くと、視線が痛い。悪いことを言われてはいないらしいのだが、言いたいことがありそうなのに声をかけてもらえない。そんな感じだ。こういうのは慣れていないし、少しイライラする。そしてエネルギーを大量消費だ。疲れた。
休憩室でコンビニのおにぎりを食べていると、同じく休憩に入ったらしい結城先生が、いつも通り隣を陣取った。
「またおにぎりか、コンビニでも種類は選べるだろう」
「おにぎり好きなんですって。今日は高菜です」
たぶん、おにぎりの具などどうでも良いんだろうけど、休憩室で会うと毎回これが挨拶がわりだ。
「どうだ、憧れのヒーローになった気分は」
「なんですか、ヒーローって。憧れてませんし」
「暴漢を回し蹴り一発で倒して、次の日にイケメンに変身している。まさにヒーロー」
結城先生がヒーロー戦隊の決めポーズを作る。それも昔流行ったやつだ。
「なんかみんなが声かけづらくなったみたいで、看護師たちももごもごするし。逆に甘えてくる人もいるし。疲れてます。」
「まあな。急に態度が変わったら疲れるよな」
ため息をつく俺に、結城先生は肩を掴んだ。
「でもな、太田。ここから自分を変えれるかはお前次第だぞ」
「俺次第?」
「そうだ。俺や美樹が手助けできたのは見た目だけだ。中身を変えたければ、自分から変わらないと変われない」
人の付き合い方に臆病な俺に、生徒に教え込むように結城先生は諭す。結城先生の目が俺を捉える。父親のような目だ。年齢からいったら兄貴なんだが。
「患者とも向き合えるようになりたいって悩んでるんだろう」
結城先生はなんでもお見通しだ。もうぐうの音も出ない。そうなりたいと考えては悩んで、悩んでは考えてを繰り返しているのは確かだ。ただ、考えて実行に移しても、うまく発揮できない。なんせ人の前だとあがってしまうのだ。そして、また悩む。
今日は初診の患者が二人入っていた。一人は男性。もう一人は女性。男性の方はつつがなく終えた。どこまで踏み込めば良いものか思案しながら、次の予約を入れた。女性の方は、井上さおりさんと言った。見た限りは明るい性格をしていた。自分でもポジティブなんですと語る。紹介状では幼い頃から統合失調症を患い、薬を服用しているとあった。他県での入院回数も多い。引っ越してきて薬をもらうために受診していると言った。しかし、その明るさが、引っ掛かりを覚えさせる。もう少し踏み込みたい。色々質問し、カウンセリングにも興味があるというので、次回はそれも含めた予約を入れた。女性が退室してまもなく、看護師が慌てて俺を呼び出す。明るく自分の症状を語っていた彼女が、泣き崩れているという。俺の診察が影響したのか。普段からうまく話せているか不安だからか。どうすれば、彼女を安心させられる? 次の患者も待たせているが、俺は焦っていた。看護師が別室に連れて行ったと聞き、話を聞きにそこへ向かう。彼女は苦しそうだった。寄り添っていたのは沢村さんだ。沢村さんは彼女の背中をさすり、ゆっくり息をするように促している。
「どうしました? 幻聴が聞こえてきましたか?」
俺はなるべくゆっくり話しかけると、彼女はかぶりを振った。急患を見ることはあるが、診察してすぐの急変にどんどん焦っていく。扉が開き、結城先生が入ってきた。
「太田、お前は自分の患者の診察を優先しろ。待たせてあるだろ。ここは俺で良い、俺は当直だから空いてる」
俺は何か言おうとしたけど、言えずに診察室に戻った。気が気ではなかったが、他の患者にそれが伝わってはいけない。それを強く意識して午後の診察を終えた。
あの後、井上さんは落ち着きを取り戻して帰ったという。結城先生からの話を聞いて、ホッとなでおろした。
おにぎりを食べようと帰宅前に休憩室に入る。そこには当直前の結城先生がいた。仮眠しているのだろうか。腕を組んで目を閉じている。少し離れた席に座ったほうがいいかと思い、隣を避けて座ろうとしたら、「太田」と呼ばれた。いつものように結城先生の隣に座る。呼ばれたけれど、彼はなかなか話そうとしない。だから、おにぎりの封も開けられない。
「今日の井上さんだけどな、お前のことで辛くなったと話してくれた」
俺は息を飲む。やっぱり、原因は俺だった。ショックと納得だった。踏み込んで聞きすぎたんだろうか。もっと言葉を選ぶべきなんだろうか。患者の気持ちを汲めていないのだろうか。ぐるぐると自分への疑問が渦巻きだす。
「彼女、お前が表情がなくて怖いって言ったんだ」
「表情、ですか」
「お前があがり症なのはよく知ってる。うまく頑張ろうと言葉を選ぶことも知ってる。だけどな、言葉よりも、人は表情で感じるんだよ。この人は信頼できるかどうかっていうのは」
俺は今までどんな顔で患者と向き合っていたんだろう。信頼される表情って何だろう。笑顔だろうか。それも違う気がする。
「彼女はおそらく、人の感情の変化を敏感に感じ取る人だ。つまり、表情が動かないお前は怖いんだろう」
「沢村さんが、以前、俺をロボットみたいと言ってました」
あれは言葉遣いのことではなかったんだ。
「ガチガチになりすぎて表情が固まっちゃってるんだよ。うまく話そうとか、もっと寄り添おうとか考えすぎだ。表情はどうこうできるもんではないが、力を抜くだけで、自然に出てくるもんだ。それが患者には、自分に向き合ってくれているって取れるんだよ」
わかったかと結城先生は俺の頭を小突いた。
「はい」
その鉄槌のおかげで、力が抜けていく気がした。明日からは、うまくとか、あまり考えないようにしよう。
帰宅途中の公園で深雪を見かけた。彼氏とでもいるのかと思ったが、一人でブランコに座っている。少し陰りが見えるのは何かあったに違いない。しかたないなとゆっくり足を向け、隣のブランコに座った。
「どうした?」
「ん。ちょっとね」
「いつものように話くらいは聞いてやるぞ」
深雪は俯いたままだ。空を見ると月が浮かんでいる。三日月だな。俺はしばらく月を見ていた。深雪はなかなか話せないらしい。いつもなら泣きながら怒っているのに。
「今の彼氏ね、本命の彼女がいるんだって」
「うん」
「それでね、なんかね、またダメだったって思って」
俺は頷くだけで静かに聞くことにした。胸の中のイラつきは封じている。
「なんかね、私って男運ないよね。なんでいつも本命がいる人を好きになっちゃうんだろ」
「俺は、男のほうも悪いと思うけどな。本命がいるのに遊ぶみたいに深雪と付き合って。深雪がいつも一途に好きになってるのを俺は知ってるから」
「本命がいるなら、付き合いたいなんて言ってくれないほうがいいのに」
深雪の瞳から涙が溢れるように流れ出す。我慢してたんだな。俺は手を伸ばして頭を撫でてやった。抱きしめて安心させたい気持ちを閉じ込めた。ひとしきり泣いた深雪がエヘヘと笑顔を見せてから、びっくりしている。なんかおかしかったか?
「まこ兄、眼鏡がない。髪もない。なんで」
「いや、髪はあるし」
俺はとっさにツッコミを入れる。
「ちょっと職場の先輩にイメチェンさせられたんだよ、あんま見んな」
深雪に見られると、すごく照れる。深雪には俺はどんな風に映ってるんだろう。職場で言われるようにカッコよくなれたのかな。
「帰ろう、送ってくから」
「うん」
深雪の笑顔は幼馴染に向けるものだというのはわかっている。けど、俺に向けられたというだけで、ホッとするし嬉しくなる。俺の感情も幼馴染だからって思われているんかな。手を繋ぎたくても繋げない。もう子供じゃないんだから。
久しぶりに一緒に帰る道のりは、あっという間に終わった。職場は楽しいかとか、新しく駅前にできたケーキ屋が美味しかったとか、たわいもない話をして終わる。それだけ。彼氏の話はかけらもなかった。
「またな」
「ん。送ってくれてありがとう」
「お安い御用」
深雪が家に入って、2階の窓に灯りが点く。それを確認してから、自宅へ足を向けた。
井上さんの件から俺は、少し楽になったと自分でも思う。診療が終了すると、疲れてクタクタということがあまりなくなった。いい具合に気が抜けたからか、同僚たちからも話しやすくなったと言われるようになった。自分から変えたとは言えないかもしれないが、自分や周りの雰囲気も変わっていくのがよくわかる。そして、なぜか、女性から告白されたり、デートの誘いを受けたり。俺も男だから嬉しくないわけではないが、気持ちがついていかないのだから、断るしかない。胸の中にはまだまだ幼馴染が染み付いている。拭っても拭いきれないくらいに鮮やかな笑顔の染みがある。
今日は井上さんの診療予約の日だ。力を抜くようになったとはいえ、少し緊張してしまう。また、固まりはしないか心配だ。俺はとりあえず筋弛緩法でストレッチする。肩の力が入りすぎないように。井上さんを呼ぶ前に1分間瞑想を開始した。結城先生の指導以降、人前を意識してしまう時には、瞑想を取り入れるようになった。瞑想といっても、何も考えないで五感に任せるだけという、それだけなのだけれど。それが俺には良い効果を発揮してくれて、1分間という時間なのにリラックスする。余計な考えを振り払う時間だ。
井上さんは前回と変わらずに、明るく今の症状を語っている。それを相槌しながら聞き、薬はそのまま継続で処方箋を出した。次の予約を入れ、診察を終える。
「先生、先生と話せるようになって良かった。ありがとうございます」
「僕の方こそありがとうございます」
素直な気持ちだった。井上さんは驚いたような表情をした後に、満面の笑みを見せて診察室を出ていった。
休日、深雪がアパートを訪ねてきた。俺の親に今日は休みだと聞いたらしい。そして、どうせ暇してるだろうということも。親には一応休みの日を伝えてはいる。当直の日に呼び出されても無理だからだ。ただ、休日をだらだら過ごしているみたいに思われているのはどうなんだろう。俺にだって予定はあるかもしれないのに。誰かとデートとか。
深雪は彼氏と会う時のようなデート用の可愛らしいという格好ではなく、兄妹で出かけるようなカジュアルな普段着だった。少し残念に思うのを止めることが出来ず、ため息が出てしまった。幼馴染から抜け出せないと実感させられている現状だ。かくいう俺も出勤の時とそう変わらない。黒のTシャツにGパンだ。結城先生曰く、空手をやっているから筋肉質な俺は、ゆるいTシャツよりも、自分にフィットしているものを着た方がいいそうだ。その指南の元、服を選ぶ際はトップスでもフィッティングルームに入るようになった。以前はボトムスしか試着する意味がないとさえ思っていたのに。結城先生と沢村さんの見た目改革は、俺の意識改革にも繋がっていたらしい。
なんだか、深雪がもぞもぞしている。なんだろう、焦れったい。
「どこに行きたいんだ」
「えっと、水族館」
「彼氏ともデートで行ったりするんだろ、俺ともそこに行くのかよ」
電車に乗って少し海の方に出ると、人気のデートスポットの大きな水族館がある。大型水槽に二匹のジンベイザメがいることで有名だ。
水族館に深雪と行きたいと言われて、嬉しいと思うと同時に、二股をかけていたという彼氏の顔が見えてイラっとした。
「彼氏とは行ってない。水族館に行きたいって言ったら、子供っぽいって言われた」
シュンとする深雪に、俺は彼女の頭をポンポンと叩いて「じゃあ行くか」と言った。仕方ない。俺は深雪に甘々なんだ。
「電車と車だと、車がいいな。今日は暑いから」
実家まで二人で並んで歩く。いつものたわいもない話題だ。好きだとかそんな話題にはならない。
俺の軽自動車は母親が買い物に使っているらしく、父親のセダンを借りる。本当は軽よりSUVに乗り換えたい。まだ新米医師の身ではローンを組む勇気がなかった。セダンを借りられて良かった。乗り慣れているとはいえ、好きな女の子を軽に乗せては格好がいいとはいえない気がする。中古だし。
クーラーを効かせて、水族館まで走る。安全運転、安全運転と言い聞かしながらステアリングを握る。深雪はなんだか落ち着かない様子だ。
「そんなに水族館に行きたかったのか」
信号で止まったところで、たわいもなかった話題から切り替えた。驚いたように俺を見つめる深雪は、すぐに俯いた。
「深雪」
深雪の頬に手を伸ばす。目の下に取れたまつ毛が引っかかっていた。
「まつ毛がついてた」
払うと、深雪は耳まで真っ赤だ。わかっている。俺を意識してるんだろう。でも、ここで俺が好きだったと告白すれば、もっと早くに気づけば良かったって言うだろう。なんだかそれは、俺の中では納得できる告白ではなかった。なぜだかはわからないけれど。格好つけたいからかな。
休日の水族館は人混みの中だった。これではどちらが見世物かわからない。魚の方が俺たち人間を観察しているんじゃないかと思うくらいだ。井上さんの、表情がないから怖い、の意味がわかる気がする。魚が何を考えているのか全くわからない。
「ほら、手貸して」
俺は手を差し出した。深雪は意味がわからないらしい。
「手を繋がないと、深雪はすぐに迷子になるだろう?」
俺は少し意地悪になってるみたいだ。深雪がまた赤くなった。なんだかそれが嬉しくて、楽しい。
「迷子には絶対に、絶対にならない」
反論したって、深雪の行動は熟知している。それが意地で言っていることもすぐにわかる。深雪は探るように手を乗せてきた。だから、俺は離したくないという裏腹な気持ちを乗せて握り返してやった。
順序通りに進むが、人の多さに二人とも疲れ気味。人混みが苦手というわけでもないけど、緊張からだろうか。
やっぱりカッコつけたい俺は疲れてるなんて言いたくはない。深雪の笑っている顔が見たくなって、面白いものを探すことにした。
「なぁ、あの魚、親父に似てない?」
「どれ?」
「あのナポレオンフィッシュ。でこっぱちの唇厚いやつ」
二人で親父の唇を思い出して吹き出した。親父は今頃くしゃみを連発してるはずだ。
巨大水槽まであと少し。イルカショーまではまだ時間もある。
「少し休もう」
楽しんでる中に疲れの色が見て取れたので、途中のカフェスペースに深雪を促す。
「疲れた?人多いの苦手だろ?」
「ちょっと疲れた。でも楽しい」
「そっか。少しでも吹っ切れていってるんなら良かった」
俺、今どんな顔してるかな。優しい兄さんの顔ができてるかな。
「まこ兄、なんで」
「深雪はわかりやすいからなぁ。ま、今日は楽しもう」
自分で振ったけど、泣きそうになりかけた深雪の顔を見て少し後悔した。甘々だから、抱きしめてやりたくなる。深雪の恋愛はとにかく一途だ。彼氏がいるときは男と遊びに行ったりなんてしない。たとえ気を許す幼馴染の兄だとしても。俺も一途だなぁといつもながらに思う。オタクっぽかったとはいえ、女性経験がないわけではない。ただ、やっぱり深雪は俺の深くにずっといるのだ。
イルカショーの時間になり、巨大水槽より先にイルカプールに向かった。遠いより前がいいというので、真ん中より前方。水しぶきにご注意と書かれている。イルカたちは音楽に合わせて華麗にジャンプやターンを繰り返して、拍手喝采だ。そして、何度か水しぶきを浴びてしまう俺たち。まさか、こんなにもかかるものだとは思っていなかった。ショーが終わって、俺はギョッとした。これはダメだ。これはどうしようもない。俺は深雪を抱きしめるしかなかった。
「なんで透けるようなやつ着てくるんだよ」
ボソッと呟く俺に、深雪は意味がわかっているだろうか。
「服が乾くまでここでこうしとく。何も気にするな」
深雪のブラウスは水しぶきを浴びて、レースのブラの線が透けていた。俺だってドキドキするのに、そんなのを見ず知らずの男どもに見せられるか。これは不可抗力だ。どうしようもないんだ。そう自分に言い聞かせるしかできない俺に、深雪の甘い匂いが鼻をくすぐる。キスしたい衝動。押さえ込んできたのに、今にも壊れそうな理性。俺はできるだけ意識しないような話題を急いで用意した。幸い気温も高かったから30分もすると線は見えなくなった。イルカプールはもう誰も残っていない。深雪はどんな気分だっただろう。ドキドキしたかな、俺に。
この後の俺たちは、明らかに変だった。ぎこちない。なんだか初恋同士の高校生のようだ。メインの巨大水槽も、その中で泳ぐ二匹のジンベイザメも記憶に残るかわからない。俺も深雪もお互いを意識しすぎているような状態だった。出口の自動ドアを潜る前におみやげを見たいというから、水族館グッズの店に入る。深雪の瞳は一つ一つにキラキラしてる。あれ可愛い、これ可愛いと見てるだけで嬉しそうだ。
「気に入ったの、ありそう?」
深雪はイルカのぬいぐるみとハンカチ、ノートをカゴに入れている。可愛いものが好きなのは、幼い頃から変わっていない。それを見て嬉しくなった。
「ちょっと、待ってて。買ってくるから」
俺が買ってやるのに、と思ったが、彼氏でもないのに気を回しすぎもダメかなと思った。でも、抑えきれない俺は、さっき、これだと思ったイルカのペンダントネックレスを手にレジに向かう。イルカはムーンストーンを抱えていた。6月生まれの誕生石だ。安物だから、おみやげという感じは仕方がない。レジでプレゼント包装できるか尋ねてみる。簡単でよければできるということだから、お願いする。ビニールの土産物袋ではなく、小さなしっかりした紙袋で渡されたそれを手に、深雪の隣に戻った。
「何買ったの?」
「秘密」
明らかに俺の手の小さな紙袋が気になっているらしい。
「どこかで晩飯食べて帰ろうか」
「何でもいい?」
「俺は何でもいいよ、食べたいものある?」
「ラーメンが食べたいな」
「了解」
深雪が失恋したときや、泣きたくなるときは、いつもラーメンを食べに連れて行った。彼氏とはあまりラーメン屋には行かなかったから、思い出すことなく美味しく食べれるのだそうだ。深雪が高校のときからだから、これで失恋ラーメンは3回目。泣きながら食べて、食べ終わったら少し気が晴れてる。そんな深雪を見て、切なくなるのだった。俺が彼氏だったら、別れたりしないのに。泣きながらラーメンを食べさせたりしないのに。
ラーメン屋を出ると辺りはもう暗い。深雪の家に向かう車内で、行きのような話題を振ることもできず、静かに走らせる。深雪も窓の外をぼんやり見ている。
「まこ兄は、彼女いるの?」
深雪がこちらを見ることなくボソッと聞いた。
「いないよ」
「じゃあ、好きな人はいるの?」
「好きな女の子は、いる」
また沈黙が空気中を彷徨った。好きなのはお前だよと言いたいのに、俺は言わなかった。今、言えば、深雪は俺に傾くのはわかっている。でも、失恋したばかりの彼女に付け入るようで、なんだかそれは、元彼の後釜のようで、俺は言えなかった。
「どんな子?」
「可愛い子だよ。ずっと俺の片思いだけどな」
「その子、贅沢だね。まこ兄に片思いさせてるなんて、まこ兄はカッコいいのに」
「イメチェンしたからカッコいいんだろ?」
「ち、違うよ。まこ兄は昔からカッコいい。優しいし、頭がいいし、強いし」
昔からの俺を知ってる深雪のカッコいいは、職場で囁かれるカッコいいとは比べ物にならないくらい嬉しい。
「俺を褒めても、今日はもう何も出ないぞ」
今日はを少し強調して俺は言った。深雪がはっと俺に向き直る。
「今日は?」
「そ。今日は、な」
次の期待をそこに含ませて、もう一度言う。車は深雪の家の前に着いてしまった。
「今日はありがとう」
深雪は名残惜しそうにドアに手をかける。
「どういたしまして」
そう言うと、また深雪は泣きそうなのを堪えて笑顔を作った。そんな顔をさせたくはないんだ。もっと笑ってほしい。俺は深雪の笑顔が好きなんだよ。
「深雪、これ、プレゼント」
俺は水族館で包んでもらった小さな紙袋を手渡す。
「私にくれるの?好きな人にじゃなくて?」
俺は黙っていた。黙って、深雪の頭をなでた。深雪の柔らかい髪が気持ちいい。笑顔になった深雪を見て、俺は、今が夜で良かったと思う。たぶん、赤くなっていたと思うから。
「またな」
深雪が家に入り、2階の窓に灯りが点く。確認してから、家路に向かうのは、当たり前のことになっていた。
午前の診療が終わり、休憩室でまたコンビニのおにぎりの封を開ける。
最近、患者さんたちが話しやすくなったと身の内を語ってくれることが多くなった。これは患者に寄り添える医師に近づいているのだろうか。もっとと欲が出そうになるが、一定の線も保たねばならず、難しい部分だ。患者さんとはうまくいきだしたのに対し、職員との距離感がどうしたらいいものか悩んでいる。明らかにボディタッチが多くなったり、目の前でモジモジされたり。これが好きな女の子なら嬉しいんだけど、好意を抱かれても気が向かない俺は断るしかない。だからといって、女性たちにショックの顔をさせたくなくて、冷たくあしらったりもできず、言葉を選んでしまうものだから、断りきれていないというか、逆効果に繋がっているらしい。
「今日もコンビニのおにぎりは美味いか?」
「いつでも美味しいですよ。今日は昆布です」
いつもの挨拶を交わした後、結城先生は隣に大きな熊みたいに座る。パイプ椅子が小さ過ぎると思う。
「イケメンは大変だな。っていうか、お前、女ったらしだったのか」
「違いますから。たらしてなんかないです」
結城先生にまで疲れるようなことを言われて、ため息をつく。
「俺は、結城先生のほうがカッコいいと思います」
「俺は美樹がいればいいんだよ」
堂々と惚気る結城先生は、カッコいいと本当に思う。結城先生と沢村さんは信頼し合ってるのがオーラでわかる。いつも見ていると、阿吽の呼吸だ。相手のことをわかっていないと、こうはならない。
「太田は好きな女はいるのか? 誘われても断ってるんだろ?」
「好きな子は、います。でも、片想いなんで」
「院外だろ。院内ではそんな気配がないもんな」
「です。幼馴染なんです」
結城先生に恋愛相談までする日がくるとは思わなかった。
「幼馴染って殻を破るのが難しくって。破るのはたぶん簡単なんです。でも殻を破ったら元には戻れないからですかね」
「そうだな。俺もそれはよくわかる」
「どうして、わかるんですか?」
「俺も美樹とは幼馴染だからな」
結城先生と沢村さんは幼馴染だったそうだ。そして、もう一人幼馴染がいて、二人が沢村さんを好きだった。でも、三人とも幼馴染みの殻を破らないまま、大人になり、就職したという。1年前、幼馴染が結婚して、結城先生に言ったそうだ。「いいかげん美樹を幸せにしろ」と。沢村さんの好きはずっと結城先生だけに向いていたのに、結城先生は気づかないふりをしていたらしい。幼馴染の殻の中が関係を守っていたからだと語った。
「気持ちに蓋をし続けると、いつか後悔するぞ」
「わかってます」
俺はもう一つのおにぎりに手を伸ばした。無性に幼馴染の笑顔が見たくなっていた。
夕暮れ時に最寄駅を降りた。帰る頃は薄暗いかなと考える。コンビニで夕飯を買って、いつもの家路を歩く。公園を横目に、今日は深雪はいないのを確認する。少しは吹っ切れてるかな。隠れて泣いていないといいけど。公園を過ぎたところで、女性の歩く後ろ姿をとらえた。深雪だ。会社帰りなのか、普段着でもデートの服装でもなく、きれいめのスーツ姿。辺りはもう薄暗い。追いかけて一緒に帰ろう。そう思って足を早めた時だった。暗闇から男が出てきて、深雪の目の前に立ち塞がる。深雪は逃げようとするが、男が乱暴に手を掴み離そうとしない。俺は急いで、深雪の元に走った。男から深雪を奪い、背に隠す。深雪は恐怖に震えているようだ。男の顔には見覚えがある。いつか駅前で深雪と並んでいたチャラい男だ。別れたんじゃなかったのか。本命がいるんじゃなかったのか。
「彼女は嫌がってる、帰れ」
「なんだ、お前。そいつは俺の女だ。口出しすんじゃねぇ」
「別れたんだろう。彼女につきまとうな」
男の敵意が膨れ上がっていく。また、俺の言葉は男の気に障ったらしい。なんだろうなぁ。元彼が俺の胸ぐらを掴んで睨んでくる。自分は喧嘩も強いんだと強調するような睨みだ。殴りあうのは趣味じゃない。できれば、正当防衛で一発で。俺は、胸ぐらを掴む男の腕を振り払う。深雪に2歩下がってもらい、男の敵意が来るのを待つ。背を向けて、隙があると見せかけて。ーー来る!
殴れば勝ちとでも思っている男は拳を振り上げて俺に向かってきた。俺はすぐに男の足を払い、倒れかけたところにすかさず正拳突きを入れる。本当のところは入れていない。寸止めした。相手は気迫だけで俺に負ける。そうわかっていた相手だったからだ。俺が睨みつけると、元彼は顔を引きつらせて逃げてしまった。
「まこ兄、あの、」
俺の苛立ちはもう限界だった。散々深雪の恋愛相談を聞いてきたが、今回ばかりは我慢ができそうにない。
「もっと男を選べ!じゃないと俺の気持ちが抑えきれない!」
怒鳴ってから、涙を浮かべていく深雪を掻き抱いた。もう深雪を、誰にも渡したくない。
「まこ兄、くるし」
「ああ、ごめん。大丈夫か」
深雪はもう泣いていないようで安心した。電柱の光が真っ赤になってる深雪を照らしている。ここで何かするわけにもいかず、深雪の家に送り届けることにした。自分よりも一回り小さな手を握って。
「また、なんかあったら言え。俺が守ってやるからな」
なかなか家に入ろうとしない深雪の頭をなでた。上目遣いはやめてほしい。照れてしまう。ここまできて言えないのは男の恥かもしれない。俺は深雪の耳元に顔を寄せた。
「好きだよ」
深雪は耳まで真っ赤だ。それが嬉しくて、おかしくて、やっぱり嬉しくて。
「はは。真っ赤だ」
「もう!」
深雪は玄関に小走った。こちらを振り向き、何か言いたげに俺を見つめる。
「またな」
「うん!」
2階の部屋の灯りが点くのを確認した。いつもと違うのは、窓が開いて手を振る深雪を見ることができたことだ。今日のコンビニのおにぎりと惣菜は格別に美味いだろうと思った。
出勤してまた職員の目線が俺に集まっている気がする。そんなに注目浴びたいわけではないのだけど。
休憩室でいつものようにおにぎりを取り出す。そしていつも通りこのタイミングで結城先生が顔を出す。特に休憩を同じにしているわけではない。なぜかいつもタイミングが合うだけだ。
「今日のおにぎりはお前の好きな鮭だろう」
「違います。今日はツナマヨです」
結城先生は椅子に座ってブラックの缶コーヒーを開ける。結城先生がブラックを飲むときは、気合を入れるときだ。寝不足か、疲れてるのか。
「疲れてますか?」
「いや。ちょっと終療後に気合を入れないといかんからな」
「沢村さんとデート?」
「そっちなら気は楽だよ」
結城先生らしくないくらい、緊張しているみたいだ。
「美樹の親に会うのは、俺だってやっぱり緊張する」
俺の心配を読み取ったのか、結城先生は笑いながら予定を教えてくれた。
「でも幼馴染なら親のこともよく知っているんじゃ」
「知っているからこその緊張もあるんだよ」
ああ、なるほど。結城先生は結婚前提の挨拶に行くんだ。俺もいつかの未来を思い描いて見る。
「うまくいくといいですね」
「うまくいくように持っていくさ。これは俺しかできん」
結城先生はやっぱりカッコいい。
「で、なんで、お前眼鏡かけてんの」
「やっぱりコンタクトはめんどくさくて」
「ま、前の黒縁牛乳瓶よりはいいけど」
「黒縁牛乳瓶って、愛着あったんですよ、あれ」
今日、俺はしばらくぶりに眼鏡をかけていた。なんとなく、やっぱり心許なくて。仕事とプライベートの切り分けにと考えたのだ。仕事では眼鏡、プライベートではコンタクトにしようと思った。黒縁牛乳瓶は踏まれてフレームも使い物にならなくなってしまったから、新しいものを作った。先日の水族館のお礼をしてくれと深雪を連れ出して、選ばせた。薄いフレームの薄型レンズ。軽いので目も疲れにくいらしい。深雪は自分が選んだのに、なかなか俺を見ようとしない。どうしたのかと聞くと、眼鏡が似合いすぎると真っ赤になっていた。思い出してにやけそうになるのを、おにぎりを頬張ることで止める。
「お前、眼鏡男子って知ってる?」
「眼鏡かけてる男子でしょう」
「じゃなくて、眼鏡に萌えるらしいぞ。大変だな、これからも」
結城先生は意味深な言葉を吐いて、空になった缶コーヒーと共に休憩室を出て行った。
その後、俺は誘って来る女性たちに「彼女がいるので」と断るようになった。