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Ⅶ 瞼で味わう珈琲


 土曜日の午後はここと決めた場所がある。

 何の装飾もない扉を開けると、世界は一気に狭隘(きょうあい)なものとなった。二つのテーブルと、五人ほどが座れるカウンター席。いずれも表面のニスが剥がれ、ところどころ傷がついている。私の知る限り、この世界は常にメランコリックな音楽と独特の芳香に支配されていた。

 迷うことなく一番奥のカウンター席に座ると、店の主は形だけの挨拶をして、奥の冷蔵庫へと向かった。(しばら)くもしない内に、主は金魚すくいのポイのようなものを片手に戻ってきた。決定的に違うのは、その枠が金属製であり、紙ではなく、だらりとした布が下がっているということだ。主は慣れた手つきで沸騰させた湯にそれを(くぐ)らせると、布を固く絞った。ここからは見慣れた光景だ。サーバーにセットし、中挽きの粉を入れ、細口のポットで静かに湯を注ぐ。粉に湯が染み込む、この二十秒が何物にも代えがたい至福の一時であった。

 かちゃり、と置かれた完璧とも言える作品。

 まずはカップを鼻先に、(まぶた)を閉じた。そして一口。香りと熱がじんわりと浸透する。自宅で淹れてもこの味は出せない。見よう見まねのペーパードリップでは所詮(しょせん)偽物しか出来上がらないのだ。

 身体中を包み込む優しい味わいを堪能した私は、カップを置き、主の顔を見上げた。カウンターに立つその人は、満足そうに口元を緩ませている。


「相変わらず静かですね」

「静かな方がいい。あなたもそうでしょう?」


 客がいなくてもお構いなしということか。

 店の主、マスターは同意を求めながらも意地悪く唇を片方上げた。確かに静かな方がいい。世間の喧噪(けんそう)から離れ、この喫茶に通っているのは、何も珈琲に惹かれたからではない。開店準備に追われる居酒屋やバーが立ち並ぶこの通りならば、(わずら)わしい人間に出会わなくて済むだろうと決め込んだからだ。店名も明かさず、呼び込みもしない、店かどうかも分からないこの場所ならば、最小限の関わりだけでゆっくりと日々の疲れを癒すことができる。私にとって、ここは別世界なのだ。

 ここに通うようになって約三ヶ月。この喫茶についての情報は少ない。客は私以外に数えるほどしかおらず、そのほとんどが平日に来店するということ。この喫茶店は、五年ほど前に、先代のマスターから受け継ぐ形で始めたということ。それから、珈琲に特化していたが、最近メニューを増やそうとしていること。毎週、毎週、観察したり、質問したりしてもマスターに関する情報は一向に集まらない。

 今日も質問攻めにしてやろう。そんな思惑を感じ取ったのか、マスターはなかなか目線を合わせてくれない。ほろ苦く、香ばしい湯気がクリーム色のエプロンを包んでいる。早くも二杯目の誘惑か。


「前のマスターはどんな人だったんですか?」

「そうですねぇ。とどまることを知らない、常に何かしていないと気が済まない人でした。珈琲を淹れてはペンを動かし、ペンを動かしてはお菓子を作る。その間も絶えず言葉は滝のように溢れ……」

「つまり騒がしい人だったんですね」

「要約するとそうですね」


 落ちてくるシャツの袖を(まく)り上げるマスター。こんなこと、彼女が聞いたら怒りそうだと目を細める。その表情は明らかに他人に向けるようなものではなかった。深い信頼や愛情があるものに向けるそれだった。よほど大切な人だったに違いない。


「どうして継ぐことに?」

「さぁ、どうしてでしょう。マスターの遺志とでも言ったらよいのでしょうか。ただなんとなく、彼女が守りたかったもの、彼女の生き甲斐をなかったことにはしたくなくて。気がついたら珈琲の勉強を始めていました」


 珈琲の勉強、か。それがどれほど難しいものなのか私にはまだ分からない。マスターの影響で毎日の珈琲に()りだしたものの、せいぜい淹れ方を変えたぐらいだ。この喫茶は豆の種類や淹れ方に相当の(こだわ)りがあるらしい。数少ない常連も珈琲目当てに足を運んでいる。見つけること自体難しかったろうに。

 ふと、頭にある考えが()ぎった。

 もしや、マスターと先代のマスターは恋仲にあったのだろうか。

 マスターが既婚者でないことは左手を見れば分かる。しかし、先代のマスターに対する言葉は、胃の中で揺らめく珈琲によく似た、温かく優しいものだった。


「ここは、マスターにとっても大事な場所なんですね」

「えぇ、心まで凍えていたあの日、彼女は温かな珈琲とケーキを出してくれた。それ以来、ここは私の唯一の居場所なのです」


 私はもう確信していた。と同時に、猛然(もうぜん)とした失望を味わっていた。

 空いたカップにはいつの間にか茶褐色の液体が注がれ、裸電球の(いびつ)な影を映している。そこに(にご)った顔が入り込まないよう、普段は目をやらないメニューを見つめた。ラミネート加工されたメニューは、端が折れ、随分古くなっている。上から油性ペンで書かれた文字だけが浮いていた。

 ふたりしかいない空間。(なめ)らかに流れるピアノとともに、少し(かす)れた女性の声が響く。

 そこにふわり、と黒い影が現れた。隣の椅子に音もなく飛び乗る。私は動じることもなく、その背を撫でた。


「この猫も先代のマスターの?」

「いえ、この猫は先代のマスターが旅立った日に店先で。寒さに震えていたので、思わず招き入れてしまいました。変なところが似てしまったのでしょう」

「きれいな猫ですよね」

「えぇ、この猫を見るとマスターがしてくれた小話(こばなし)を思い出します」

「小話?」

「マスターは作家だったんです。私に初めて聞かせてくれたのは、確か黒猫が出てくる短編でした。知っていますか? この白斑(はくはん)、エンジェルマークというそうです。この喫茶の名前にぴったりではありませんか」


 猫の右足には確かに小さな白斑。何度かこの店で見かけてはいたが、これまで気づくことはなかった。基本はマスターが生活する二階にいるそうだが、常連客に気に入られているため、たまに店に出すという。美しい毛並みに青い瞳。これは人気になるわけだ。

 この瞳は一度でもマスターの愛しい人を映したのだろうか。マスターの慈愛に満ちた微笑みを見たことがあるのだろうか。小さな丸い頭を撫でると、猫はその手に()り寄り、喉を鳴らした。


「よろしければ、マスターの本を読みますか?」


 突然の提案だった。

 マスターの目をついと見上げる。猫の毛と同じ色の瞳。しかし、それは彼が淹れる珈琲のように、どこまでも澄み渡っていた。私が小さく頷くと、マスターは微笑を口元に浮かべる。そして、カウンターにそっと置かれるレモンケーキ。



 喫茶「天使」。今日も白い扉は閉じられたまま。

 想い渦巻(うずま)く珈琲は、かの日の二人をゆらゆらと映し出した。



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