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Ⅵ 黒が変える世界


 世界はこんなにも残酷になれる。

 失ったものが戻らないと気付いたとき、僕の進む先は黒く染まってしまった。




***




「餅持って行きなさいよ!」


 母親の甲張(かんば)り声が飛ぶ。その声に押されるように、ビニール袋が胸元にどかんとぶつかった。やけに重たい袋だ。一体どのくらいの餅が入っているというのか。仕方なくそれを右肩に掛けると、狭い玄関のドアを開けた。

 三階からの景色は見慣れたものだった。すぐ下を国道が走っており、街へ向かう車が右へ左へ駆け抜けていく。昨夕は空を灰色の雲が覆っていたが、地面はほんの少し白いだけで全く支障はないようだった。

 一度でいいから埋もれてみたい。テレビや広告で冬の特集を見る度に、僕はそう思った。

 そして、もし一緒に埋もれるのなら彼女がいい。何となくそう考えていたのだ。

 決まった時間はないが、伯父さんはたいてい九時には眠ってしまう。僕はリュックを背負いなおし、歩みを速めた。鉄骨造のアパートは、三十年の重みに微かに鳴いていた。




***




彰広(あきひろ)、少し痩せたな」


 伯父さんは部屋に招き入れるなり、そう言った。

 相変わらず雑然とした部屋。まず目に付く本棚には、見知った名作と数体のフィギュアが並んでいた。床には制服姿の少女が描かれた本がうずたかく積み上げられている。敷かれた布団は今這い出たかのように、不自然に盛り上がっていた。


「そんなことないよ」


 本と本の間に袋を置くと、ささくれだった畳に腰を下ろす。伯父さんは一旦キッチンの方に向かうと、マグカップを二つ持って現れ、布団の上に座った。


「勉強の方はどうだ。昨日穂奈美(ほなみ)さんには会ったが」

「母さんに? どうして……」

「ああ、ちょっと野暮用(やぼよう)があってな」


 マグカップを手渡す。その瞳は真っ直ぐに僕を貫いていた。

 それは悲哀、憂心(ゆうしん)、同情。一体何の感情なのか。昔から伯父さんの感情は全く読めなかった。

 両手にじんわりと熱を感じる。カップの中身は何年か前のインスタントコーヒーだろう。


「それより、成績はどうなんだ。しっかり勉強しているのか」

「ぼちぼち、ね。それよりいい加減、暖房器具ぐらい買ったら? 寒いよ、ここ」

「話を逸らすな。穂奈美さんに聞いたんだ、お前が勉強してないって」



 部屋がしんと静まり返る。僕はコーヒーに目を落とした。

 だいたい、伯父さんの口から母さんの名前が出たときに違和感を覚えていたんだ。いくら近くに住んでいるとはいえ、よほどのことがなければ、わざわざ会うとは思えない。野暮用の内容もおおかた想像はつく。勉学に身が入らない僕を何とかしようと、伯父さんに頼み込んだのだろう。

 優しく説き伏せるような声。伯父さんは言葉を続けた。


「彼女が亡くなって傷つく気持ちも分かるが、今はお前にとって大切な時期なんだ。お前もそれくらい・・・・・・」

「分かってるよ、それくらい。今が大事だってことぐらい。でも……」


 黒い液体には何とも情けない顔が映っていた。瞳は揺らぎ、唇は固く結ばれ、震えている。次第に液体自体も細かく震えだした。僕はカップを畳に叩きつけると、そのまま玄関に向かい、飛び出してしまった。

 建物横の階段を駆け下りる。伯父さんのアパートは先程よりも激しく軋んだ。




***




 不運には不運が重なるものである。

 カラカラカラと乾いた音を立てる自転車。僕はまた歯を食いしばり、ただ歩いた。

 鉄くぎの刺さった自転車を修理するにはどのくらいかかるのだろう。千円かかるか、かからないかぐらいだろうか。そんな計算をしながらも、頭の中では伯父さんの言葉がわんわんと響いていた。



 彼女のことはもう忘れなきゃいけない。

 でも忘れられないんだ。



 歯をぎしぎし言わせると、知歯まで疼くような気がしてきた。

 ふと、辺りを見渡す。地面はすっかり濃灰色に変わっていた。昼時の住宅街は人気もなく、静かだ。ここの住民は三箇日をどのように過ごしているのだろうか。神社で手を合わせる恋人たち。テレビを囲み、笑い合う家族の様子が目に浮かぶ。もしかしたら、セール品を買い漁っている人もいるかもしれない。

 どの光景も今の僕には縁遠かった。

 ほとんど空気の抜けた自転車を惨めな顔で押していく正月。それがお似合いじゃないか。僕はグリップを固く握り締めると、ふっと笑みを浮かべた。

 住宅街で一番大きな道路を進んでいくと、右手に公園が見える。遊具はなく、淡緑の芝は先が枯れて、ところどころ薄くなっている。最近では子どもの姿もなく、端の方にあるベンチに老人が座るのみの公園だ。

 今日は三箇日とあって、さすがに人の姿はなかった。

 しかし、そこには黒く横たわる何かがいた。


「クロじゃないか」


 僕は自転車を公園脇に止めると、気怠そうに木々を見つめる黒猫に近寄った。猫は背を撫でても、決して媚びることなく、そればかりか首をもたげて、腹を舐めはじめた。

 クロは飼い猫ではない。たまにふらりと公園に現れ、ベンチで昼寝をしている野良猫だ。しかし、大人しい上に毛並みが(つや)やかで美しいので、住民に気に入られ、クロという名前すらもらったのである。ときどき誰かが餌をやっているのか、少しずつ大きくなっているようだ。

 ベンチ横の芝生に座り込むと、僕はクロの横顔に話しかけた。


「クロ、お前には分からないだろう、僕の気持ちなんて」


 クロはそれでも頭を上げることなく、腹を舐め続けた。右足には一片の雪。


「僕はただ、彼女を想っているだけなのに」


 口を開くと、今まで力を込めていた部分が緩んでくる。視界は揺らいで、クロの顔もはっきりと見えなくなった。僕は一体何をしているんだ。誰かに見られてしまうかもしれない。それでも溢れ出してくるものを、止めることはできなかった。



「君は何が望みなの?」


 頬を拭うこともなく、両の手をだらりと垂らすと、どこからともなく声が降ってきた。それは発せられたものではなく、頭鳴(ずめい)のように直接響く声だった。

 僕にはその正体が分かっていた。いや、知っていたのかもしれない。

 視線を青い瞳に合わせると、その声に答えた。


「言えば叶えてくれるの?」

「いいえ、全てを叶えることはできない。ある程度の制約はあるわ」

「制約? 例えば?」

「例えば、生死に関わること。人の心を変えること。それから、非現実的なことは無理。猫型ロボットに変えてくれって言われてもそんなことはできない。なりたくもないだろうけど」

「この状況がすでに非現実的なんだけどね」


 クロは五月蝿いとでも言うように、尻尾を振り上げ、ベンチを強く打った。

 静かな住宅地。ほのかに雑煮の香る昼下がり。まさか喋ることができる、しかも願いを叶えると言う猫が公園にいるとは誰も思わないだろう。だが、僕の目の前には確かにいるのだ。僕の望みを叶えてくれる猫が。


「僕の望み……」


 僕の望み。

 僕の叶えたい望みってなんだろう。

 もし彼女が戻ってくるならば、僕は間違いなく彼女の生を望むだろう。しかし、それはできない。きっと一目見ることも叶わないのだろう。ならば、何を望む。志望大学合格か。億万長者か。そんなものが本当に僕の切望するものなのだろうか。

 僕はクロの瞳を見つめ、考え続けた。天色(あまいろ)の瞳はあの日の空によく似ていた。

 不意に彼女の言葉が頭を(よぎ)る。彼女が夢見心地に語った言葉を。


「クロ、何でもいいんだね?」

「できることなら、何でも」


 僕は瞼を閉じ、彼女の柔らかな笑みを思い浮かべた。


「僕の望みはね、クロ……」



 数秒後、目を開くと視界は白に染まっていた。


「本当に三分間でいいの?」

「ああ、三分間がいいんだ」


 公園一面に咲き乱れるマーガレット。彼女が見たいといった雪のように白い花だ。

 もう彼女と見ることは叶わない。彼女の喜ぶ顔を見ることもできない。



「愛されてたのね」

「えっ?」

「だってこの花の花言葉は――――」

 


 世界はこんなにも残酷で、そして誰かの想いに満ちている。

 僕には見えた、花畑に埋もれながら微笑む彼女の姿が。



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