Ⅴ 自転車に幽霊を乗せて②
後編です。
相変わらず誰もいない一本道。強く、強くペダルを踏み込み、またマスターに問いかけた。
「マスターはいつから、こんなことができるように?」
「うーん、半年くらい前かな。開店前に少し仮眠をとっていたの。そしてね、目が覚めると、いろんな姿に変身できることに気がついて」
「いろんな姿?」
「そう、とにかくいろんな姿に。もちろんこの黒猫であることに変わりはないんだけれど、黒猫に関係するものであればなんでもいいの」
「なんでも、ですか」
「そ。こう見えてもね、いろんな姿になって、人々を助けたのよ! あるときはシールに、あるときは泥棒猫に、あるときは愛らしい子猫に。それはもうカッコよくて、モテモテで」
「あー、はいはい。すごいですねー」
「ちょっ……信じてないでしょ! 本当の話なんだから!」
「でも今は普通の姿なんですね」
「スルーした? 今絶対スルーしたよね? お姉さん、ショックだわー」
「お姉さんって歳ですか?」
「う、うるさいっ!」
私だって若いのよ、とマスターは声を荒げる。若いことは確かだが、本当にこの人は自惚れが激しい。このぐらい自信家だといっそ清々しいな、と思えるほどだ。
そう考えるうちにも話は進んでいく。
マスターは、今度は饒舌に、猫になってからの出来事を語る。自転車の速度もだんだんと上がってきた。話は俺と出会うまでの過程に差しかかる。
いくつかの運命的な出会い。それによって人々を救ってきたマスターは、次第に言葉を話せるようになった。それが科学的な現象なのか、魔法なのか、一向に分からなかったが、きっと全ては一つの答えにつながるのだと信じて、眠り続けたという。
「それが、一週間前からずっとこの状態。最初は河原に横たわっている状態で目を覚ましたんだけど、ひとりでつまらないからここを通る高校生、つまり君の自転車に乗ったってわけ。そのほうが何らかの情報が入手できると思って」
「何か収穫はありましたか?」
「全く! 何もなくて退屈だわ」
「……それは残念ですね」
何もしていないのに湧き上がる罪悪感。
俺はさらに自転車のスピートを速めた。景色はゆったりと流れ、川沿いに生えたススキが行く手を阻もうと道に首をぐっと出してくる。勢いよくそれらを轢くと、最後の抵抗とばかりに車輪に体当たりしてきた。
「でも、気になることはある」
「なんですか?」
運転に意識を集中しすぎていたせいか、声を聞き逃す。
一本道はもうすぐ終わろうとしていた。少しの傾斜を上ると、大通りへと出てコンクリート橋を渡る。そうすれば、俺の目的地は目の前だ。ほんの少し雨の匂いを含んだ風。途端に静かになった背中が気になり、ペダルを踏む力を弱めたときだった。
その人の一言はあまりにも唐突で率直で、車輪の音も、風の匂いも、全てを呑み込んだ。
「どうして君、学校に行かないの?」
「……っ」
「君、出会ってから一週間、全く学校に行ってないよね。制服は着てるし、自転車に乗ってるところを見ると通学していないわけじゃないみたい。でも私が開店前に店に戻るまで、ずっとここにいる」
「どうして? どうして学校に行かないの?」
勢いよくブレーキをかける。重い沈黙が二人の身体を包み込んだ。制服にじわりと汗がにじむ。
返す言葉が浮かばず、誤魔化すための言い訳もなく。俺はゆっくりと振り返った。
マスターは変わらず猫で、そして猫に似合わぬ、決然とした表情をしていた。
「……マスターには関係ないでしょ」
「えぇ、でも気になるの。これでも心配してるのよ」
「構わないでください。どうせ、すぐ消えるんでしょ?」
「そうね、消えるかもしれない。でも、君のためになるなら、私、」
「俺のためだって言わないでくれ! ただの幽霊猫のくせに!」
放った言葉に思わずはっとした。
目を見開くマスター。真っ青な瞳が一瞬だけ揺れた気がした。
違う、違う。俺はこんなことを言うはずじゃなかった。マスターが俺のことを気遣ってくれていることぐらい分かっているんだ。だってマスターはいろんな人を助けてきたんだから。俺のことも本当に心配してくれていて。それぐらいマスターは、お節介やきで、自惚れ屋で、お茶目で、優しくて……。
堪えきれず、荷台から目を逸らすと、すうっと息を吸う音が聞こえてきた。
あぁ、傷つけてしまったのだ。
たった一人、俺を気遣ってくれる人を。俺の気持ちを理解してくれるかもしれない人を。
グリップから手を離し、深く頭を垂れる。もうマスターは話してはくれないだろう、そう思ったのだ。
だがしかし、マスターは全く予想だにしない言葉を発した。
「……幽霊じゃないわ、生き霊よ」
「……え、あ、ごめ、」
「大丈夫よ、この程度じゃ傷つかない。だって私、生き霊マスターですもの」
「生き霊マスター……それ、ちょっと違う職業じゃ……」
恐る恐る顔を上げれば、いつも通りふんと首を反らせる猫が。
いや、いつもなんて分からない。そもそも俺たちは出会ってまだ五日目なのだ。しかし、彼女にはそれを感じさせない安心感があった。なんだが懐かしい温かさが。
右足の白い模様を撫でる、その小さな頭に手を乗せた。やっぱり触れられない。でも不思議とあるはずのない体温を右手に感じた。心から感じるのだ。
何でも話していい。青い瞳がそう言っている気がして、俺は喉につかえた言葉を無理やりに押し出した。
「俺には、親友と言ってもいいくらい仲のいいやつがいるんですけど、そいつには好きな女の子がいるんです。でもその子はもう治らない病気にかかっていて、複雑な病名なんですけど、そのせいでいつ死ぬとも分からない身なんです」
俺の脳裏には馬鹿みたいに怪談話を話す奴の顔が浮かんだ。そして、そんな馬鹿ばかりをやる俺たちにいつもついてきたあいつの姿も。
小ぶりの雨が頰を打つ日。あいつは、一つ束にした艶やかな黒い髪を縦横無尽に振りながら、俺を追いかける。右手には水玉模様の傘。差し出すと同時に止む雨が、あいつの瞳を明るくした。せっかく持ってきたのに、と残念がる唇は優しげな弧を描いていて。俺は初めてその頰に小さなえくぼがあることに気がついた。その笑顔の可愛さに気がついたんだ。
「春ぐらいのことです。その親友に呼び出されて、そいつがスゲェ深刻そうな顔で言ったんですよ。『あいつはお前のことが好きなんだ』って。だからそばにいてやってほしいって」
「……」
「馬鹿ですよね。自分が好きなのに、親友にその好きな子を譲るなんて。なんてお人好しなんだと俺は笑ってやろうかとおもいましたよ」
自然と笑みがこぼれる。嘲笑う、乾いた笑いだ。
グリップをまた握り締め、踏み倒したススキを車輪でぎりぎりと潰した。もう抵抗することもなく、散らばっていく。そんな俺を、マスターは真っ直ぐと見つめていた。飽きることも、責めることもなく、ただ真っ直ぐに話を聞いている。
その眼差しについ熱くなってしまう目頭。しかし、言葉は止まることなく流れ続けた。
「その上、もっと面白いのは、その女の子、実は俺の親友が好きなんです。二人は、両想いなんですよ。笑っちゃうでしょ? 勝手に勘違いして、その恋を応援するなんて、馬鹿げてる」
「……君は、それを本人に伝えなかったの?」
「はい、伝えませんでした。だってそれが、彼女の望みですから」
「望み?」
「先の短い自分と結ばれても悲しい思いをするだけ。だったら、いっそのこと結ばれないほうがいい。そう言い切ったんです、彼女は」
「……だから、言わなかったの?」
「はい」
始めの勢いは随分なくなり、最後は絞り出すような返事となった。
溜まっていた言葉も心も、全てを吐き出したというのに気分が晴れることはなかった。川から吹く風がただ頰を撫でるばかり。それが温かいのか、強いのかすら、もう分からなかった。
マスターはしばらく川を見つめると、ヒゲにゆっくりと触れた。白く長いヒゲはその力でふにゃりと曲がる。
「確かに馬鹿ね、どちらも」
「そうですよね、本当に馬鹿だ」
「でも、一番馬鹿は、君ね」
「……え?」
……俺が一番、馬鹿?
ふっとヒゲから離れる手。マスターの瞳が鋭く深く突き刺さる。
俺が馬鹿だって言うのか。俺はただ彼女の望みを叶えようとしただけ。二人のこれからを思って行動しただけだ。それなのに、俺が一番愚かだと言うのか。
胸の奥底から鈍い怒りがじわじわと押し寄せる。それでも何も言い返すことができなくて。荷台に尻尾を叩きつける猫を睨みつけた。
「君は、その女の子が好きなんだ」
「……は、そんなわけ」
「だから彼女の望みを叶えてあげたいのね。自分の気持ちを隠してまで」
「そんなことありません」
「哀れね、君も、君の親友も、彼女も。誰かのために自分を殺して」
「違います、そんなことは」
「違わないでしょう? だってその証拠に……」
猫の目が不意に俺の背中を示した。一瞬何のことか分からなかったが、すぐにその意味が分かる。
そこにあったのはキーホルダー。しかも、愛らしい猫が鈴を持っているという、高校三年の男子が持つにはちょっと恥ずかしいデザインだ。しかし、俺は長い間このキーホルダーを通学用リュックにつけていた。キーホルダーの紐が細くなっても。猫が薄汚れ、塗装が剥がれてしまっても。
お揃いだから絶対つけてね、と俺たちに見せた、あいつの顔が忘れられなくて。
背中からリュックを下ろすと、キーホルダーに触れる。ちりん、と微かに聞こえた鈴の音。俺はその鈴を何度も、何度も鳴らし続けた。思いが瞳から溢れ出してしまわないように。
「素直になれとは言わない。でも本当の彼女の望みについて、考えたほうがいい。残された時間が少ないなら、なおさらよ。深い悲しみを味わうことになっても、後悔はしちゃ駄目だから」
「……」
「学校、行きなさい。彼に会いたくないからって、逃げてちゃ駄目よ」
そう言うと、マスターは川へと視線を向けた。
川は穏やかに流れ、快い風を吹かせている。秋の涼しさ、そしてもうすぐ雨が降ることを知らせてくれていた。きっと明日には、川は濁り、増水しているのかもしれないな。
そう、きっかけは突然だった。学校に行くのが何だか億劫になり、制服のまま川沿いの一本道に佇み続けた。行ってきます、と家を出てはそんな生活を続けていた。
だが、もう逃げることはしない。マスターの言う通り、後悔をしたくはないから。一番大事なものを失いたくはないから。
マスターは時折目を細め、風の匂いを全身で感じているようだった。小さいと思っていたその頭も、背中も、今ではもっと大きく堂々としたものに見える。なんとも美しい黒い毛と、その中で一際目立つ白い模様。触れられないのは本当にもどかしいものだ。
「ありがとう、ございます」
「私は何もしてないわよ、今回はね」
「いえ、俺、やっと話す勇気が出ました。彰広に本当のこと、話そうと思います」
「……今、なんて言ったの?」
「え? だから彰広に話そうって……」
大きく見開かれる瞳。と同時に、瞳孔がぐっと大きくなる。
……また、何かまずいことを聞いてしまったのだろうか。
マスターは何度も小さく頷くと、ぶつぶつと何かを言い始めた。
「そう、そうなのね。こんな、こんな偶然もあるものね」
「……? どうかしましたか?」
「ううん、大丈夫。大丈夫よ」
……変だな。
まあ、いいか。
心も身体も軽くなり、勢いよく走りたい気分だが、あいにく荷台には客がいる。安全を心掛けなければ。
来週には学校に行こう。その前に、明日病院へ行こう。きっと二人に会えるはずだ。そこで本当のことを話すんだ。三人の絆を取り戻すためにも、後悔をしないためにも。
ペダルをぐっと踏み込むと、自転車はゆっくりと走り出した。俺は、後ろでまだぶつぶつと呟いているマスターに声をかけた。
「マスターはこれからどうするんですか?」
「もちろん息子を捜すわ」
「もし、見つけたら、どうするんですか?」
「……さあね、本当に黒猫にでもなろうかしら」
次の週、もう幽霊猫は自転車に乗ってこなかった。
当たり前だ、俺はその一本道をしばらく通らなかったのだから。
小ぶりの雨が頰を打つ日、あいつは静かに息を引き取った。