Ⅴ 自転車に幽霊を乗せて①
この話は前編と後編に分かれます。
「自転車には気をつけろよ、拓」
「うるさいな。オカルトも大概にしろよ、彰広」
放課後の教室はもの寂しい雰囲気が漂っていた。ぎしりと軋む木造校舎。大きく踏み出した足は以前よりも重くなっていて。俺はそれを振り切るように、背中のリュックを揺らして走った。
まったく、彰広のやつ。また変な怪談話をしやがって。俺が恐れおののくとでも思っているのだろうか。
この前は、増える階段の謎。一昨日は揺れるブランコの秘密。昨日は、史上最強のモブ、田中の登校時間の予言、と。どこかで聞いたような怪談から、誰も気にならない確証なき予想まで、本当にどうでもいい話を毎日毎日よく飽きないものだ。
今日は今日で、自転車に突然飛び乗る霊がいるとかなんとか。彰広はいつから、こんなオカルト染みた話を信じるようになったのだろう。
ちりん、と鈴の音が鳴る。と同時に、頭に浮かんだ可能性。
そうかもしれない。でも、そうだとしても、俺には関係ないことだ。
通り過ぎる友人の背中に挨拶をして、俺は帰路を急いだ。
二週間後、秋風の心地よい朝。俺は、いつもと変わらない通学路で使い古した自転車に跨っていた。だがその荷台には、見慣れないものが。
そう、俺はついに出会ってしまったらしいのだ。幽霊というやつに————
「今日もいい天気ですね、幽霊猫さん」
「幽霊じゃなく生き霊よ。それも善良な霊なんだから」
「善良って……、そんな生き霊聞いたことありませんよ」
驚くことにその幽霊は猫の姿をしていて、そのうえ、とてもおしゃべりだったのだ。
遡ること四日。月曜日特有の気怠さを欠伸とともに嚙み殺しながら自転車を漕いでいると、突然ぐいとその走りを止めるような力を感じた。もちろん荷台には何も載せていない。荷物は背中のリュックひとつだけ。何かを轢いた感覚もなかった。とすれば……
急いで自転車を止める。キーッと鳴り響くブレーキ音。俺は恐る恐る後方に目を向けた。
そこにいたのは、彰広が話したような女の霊、ではなく、毛並みの美しい黒猫だった。
いきなり現れたこともそうだが、この猫、走る自転車に音もなく飛び乗ったのだ。しかも、その耳も、足も、尻尾でさえも若干透けているではないか。目の前で横たわる事実に恐怖すら覚えた俺は、猫を見つめたまま、しばらく口を開くことができなかった。
すると、猫は青い瞳をすっと細めて、こう言ったのだ。
「あんまり見つめないでくれる? 私が綺麗だからって」
いやん、照れるわ、と顔を前足で隠す猫。その足には鳥の羽に似た白い模様。
俺は何も返すことなく、その黒い背を撫でようと手を伸ばした。もちろん、触れられない。手は虚しく空を掴むばかり。これは現実を受け入れるしかないのかもしれない。
俺は、ついに出会ってしまったのだと。優雅に揺れる尻尾を眺めながら、ただそれだけを考えていた。
そうして俺は、何とも美しく、そしてちょっぴり自惚れの激しい猫の幽霊と朝のひとときを過ごすことになったのだ。当然ながら不本意に。
幽霊猫が現れるのは決まって朝。登校時の自転車に静かに乗ると、いつの間にか消えている。乗る時間も、消える時間も定まってはいないが、必ず川沿いの一本道を走っていると後ろから声をかけてくるのだ。
あぁ、この場合、鳴き声と言ったほうがいいのだろうか。しかし、どう聞いても女性、しかも三十代くらいの若い声をしているのだ。
まぁとにかく、この猫は当たり前のように自転車の荷台に現れると、当たり前のようにしゃべりかける。俺が十八年かけて築いた常識の塔は、たった一日で崩れ去ってしまったのである。
今日も幽霊猫はふわりと現れ、大きなくしゃみを一つ。俺はブレーキ音でそれに応じる。驚いた猫は後ろから怒りの声を上げた。その権利はむしろ俺にあると思うのだが……。
俺は左足を地面に置き、重心をそちらに傾けると、ゆっくりと振り返った。
「幽霊猫さんって暇なんですか?」
「断じて暇ではない! それよりいい加減その呼び方やめてくれないかな」
「じゃあ、なんて呼べばいいんですか?」
「もちろん、マスターよ」
「ま、ますたぁ?」
「そ。これでも私、喫茶店のマスターやってるのよ」
ふんと首を反らせる猫。中の人はドヤ顔でもしているのだろう。
それよりも、この猫、やっぱり人だったか。喫茶店のマスターとは立派な社会人じゃないか。
「じゃあ、喫茶店のマスターさんは、どうして朝から俺の自転車に乗ってるんですか?」
「それは……」
すっと黙り込む猫。先ほどまで輝きに満ちていた瞳に急に影が差した。
何かまずいことを聞いてしまったのだろうか。
なんとなく気まずくて、グリップを持つ手にじんわりと汗が滲む。
「人捜ししてるの」
「人捜し?」
「えぇ、少し恥ずかしい話なんだけれど」
猫はまた口を閉じ、右足でヒゲを何度も引っ張った。と思ったら、今度はくるくるねじり始めている。本当に恥ずかしがっているらしい。
透けていることを除けば普通の猫なのに、仕草や振舞いはやはり人間らしいな。
しばらく穏やかな川の流れに目をやっていると、猫はやっとヒゲから手を離した。
「私、若い頃に結婚に失敗してまして、」
「え、え、バツイチ?」
「うるさいっ!」
人に勝手にバツを付けないでよ、とまた怒る。
そりゃあ、少なからず衝撃を受けてしまうだろう。声と動作でしか判断はできないが、目の前にいるのはそれなりに若い女性だ。結婚していて、しかも失敗しているとは。この猫、いや、マスターには一体何があったのだろう。
俺は話の続きに耳をそばだてた。
「子どもが生まれてしばらくは仲が良かったのだけれども、私の父親が亡くなって、その父がやっていた喫茶店を継いだあたりからかな、うまくいかない経営、膨らむ借金に喧嘩が絶えなくなって」
「それで、離婚ですか……」
「それまで主人がマスターをしていたのだけれど、もう耐えきれないと飛び出してしまったの。元々は稼ぎのいい仕事をしていたから、すぐに復帰して新しい生活をさっさと始めてしまって。私は慣れない仕事に奔走したわ」
「……大変だったんですね」
「まぁね。でも、そのときに気づいたのよ。自分は一番大切なものを見失っていたんじゃないかって。家族を顧みることもできないマスターなんて笑わせるわよね」
くすりと笑う猫。しかしそれは、哀愁漂う、切ない笑みだった。
名も知れぬ幽霊猫。毎朝突然現れる猫にこんな過去があったとは。
彰広の話じゃあ、自転車に飛び乗る女性の霊は、自分を轢き殺した男を捜しているという話だったが。
「じゃあ、ご主人を捜しているんですね」
「いいえ、まさか。主人はとっくに別の女性と結婚しているわ」
「じゃあ……?」
「子どもよ。離婚したときに、主人には安定した職と、経済力があった。一方、私には今にも潰れそうな喫茶と多額の借金しかなかった。子どもを育てる余裕なんて無いに等しかった。幸い主人が、店と妻から逃げた償いにと少しばかりのお金をくれたから、今でも喫茶店を経営していられるのだけれど」
「子どもさんとは会えてないんですね?」
「えぇ、子どもにだけは会わないでほしい、今の妻を母と思ってほしいと言われて……」
それで、子どもを諦めた、ということか。
本当に悲しい、やるせない話だ。マスターはただ父の遺したものを守ろうとしただけだったのに。同じくらい、いや、それ以上に大事なものを失ってしまった。だらりと垂れた尻尾がマスターの心を表しているようで。かける言葉もなかった俺は再び川の流れを見つめた。
川沿いの一本道は河原より少し高台にあり、流れが遠くまで見渡せるようになっている。夏にはカップルや家族連れがよく水遊びをしていて、俺はそれを横目に塾に通っていた。
穏やかに、しかしたゆまず流れる川を見つめながら、この四日間、そして今日の出来事に思いを馳せた。
「ごめんなさいね。こんなつまらない話」
「いえ、俺こそなんかすみません。いろいろ言ってしまって」
「いいの、いいの。それに君が息子と同い年くらいだから、なんだか親近感が湧いてたの。だから毎朝、君の情報収集がてら、自転車に乗っていたの」
「喫茶店は空けてても大丈夫なんですか?」
「大丈夫。一応開店の時間までには戻ってるの。それに遅くてもアルバイトの少年が来るまでには戻ってるのよ」
「そうなんですか」
情報収集のため、子どものために乗っていたのか。それも、こんなに古い高校生の自転車に。
それならば、と俺はペダルに足をかけ、ぐっと強く踏み込んだ。ゆっくりと走りだす自転車。
マスターに与えられた時間は少ない。だから、俺はできる限り走らなければ。
もしかしたら、その子どもとすれ違うかもしれない。もしかしたら、子どもの話がどこかで耳に入るかもしれない。マスターが幽霊猫としてここに来たのは何かヒントがあるからかもしれない。きっとそうに違いない。