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Ⅳ 午後三時のコントラ②

後編です。


 数十分後に戻ってきた光永さん。表情は明るく、大腕を振っている。


「行くぞ、賢介。柚葉さんも」


 向日葵の影に立ち、両腰に手を当てると、そう言い放った。唖然(あぜん)とする私。賢介くんはにっこりすると光永さんの手をきゅっと握った。二人の間には説明も理由も必要ないらしい。

 光永さんは先程と同じように公園を出ると、今度は左手へと曲がる。私は賢介くんの繋がれていない方の手に導かれ、二人の後を追った。


「何か分かったんですか?」

「ああ、俺の推測通りだった」


 横で大きく振られる腕。その速度に合わせ、住宅街を大股で通り過ぎていく。

 薄桃色の壁。猫の額ほどの庭には色とりどりの花が咲いている。あれは鳳仙花(ほうせんか)だろうか。向こうが透けて見えるほど薄い花びらは赤や紫、桃に色づき、戸建て住宅での優雅な暮らしを想像させる。しかし同じパステル、同じ型の建物が並ぶと、不思議と退屈に感じてしまうものだ。

 そんな風景を眺めながらも、また汗を拭う。着古して襟も立たないシャツワンピースは、じっとりと汗を吸い、葵色が微かに濃くなっていた。


「最初に向日葵を見たときから気になってた。坂の上の日あたりのいい公園だ。あれだけの見事な花を咲かせるには定期的に世話をしてる人間がいるはずだ。向日葵は乾燥には強い方だが、朝夕水やりしなければ、よれよれになってしまう」


 興奮気味に話す光永さん。賢介くんを連れ、さらに足を速める。

 公園に面した大きな通りを左に入ると、この辺りに住む人しか使わないような小道が続く。乱雑に置かれた自転車、頬の割れた庭小人。時折見える貸物件の赤い看板が、何かを警告しているように見えた。


「それで、この辺りの住民に花壇を管理している人を聞いて回ったんだ。そしたら近くに住むじいさんが毎日世話をしてるらしく、今度はその人が住む家に行ったんだ」

「そんなに聞き込みして回っていたんですね」

「聞き込みは調査の鉄則だからな。んで、じいさんに聞いたら、その黒猫、よく公園にいるらしくて。あのフェンスの穴も猫がよく使ってるんだと。だから最初は穴から抜けた方向に聞き込みに行ったんだよ」


 何の意味も無しに向日葵を見つめているのだと思っていた。私は黒猫であることと猫が去った方向しか分からなかったのに。


「でも、今向かってるのは……」


 光永さんが向かったのとは全く逆の方向。しかも住宅地の奥の奥へと入ろうとしている。右へ、左へ。土地勘のある人間でも迷ってしまいそうだ。それにも関わらず、何の躊躇(ためら)いもなく小路を進んでいく光永さん。もしかして――――


「ここに住んでいた……?」



 すっと瞬時に変わる雰囲気。光永さんは歩みを止め、その背に小さな身体がぶつかって揺れた。

 もしかして、私は余計なこと言ってしまったのか。

 車一台がやっと通れる路地の真ん中で立ち(すく)む。額は汗に濡れ、下がった眉にその雫が垂れた。


「住んでいた、と言えばそうかもしれない。居候(いそうろう)していたんだ、兄夫婦の家に」

「じゃあ、お兄さんがこの近くに住んでいるんですね」


 さらに重くなる空気。

 光永さんは唇を歪めると、顔を背けた。賢介くんは痛い、痛いと小さな(うめ)き声を洩らす。


「ごめん、賢介。早くしないと日が暮れる。急ごうか」


 気がつけば、日は随分傾いている。いくら日が長いとはいえ、このままでは遅くまで賢介くんを連れ回すことになってしまうだろう。私は小さく頷くと、また静かな地を進み始めた。




***




「ここ、ですか?」

「ああ、ここだ」

「本当にここなんですか?」

「本当にここだ」


 辿り着いたのは、小さな(ほこら)だった。

 しかも、祠の先には先が見えないほどの高木が立ち並んでいる。そういえばこの住宅地、以前は森に抱かれた緑のベッドタウンとして売り出していた気がする。祠はその森を押さえ込むように立っていた。鳥居もなく、お供え物もない。誰からも忘れ去られたかのように、屋根には枯れ葉が積もっていた。


「じいさん(いわ)く、祠でその黒猫に餌をやる人がいるらしいんだ」

「地元の方ですか?」

「ああ、たまに生の魚だの鶏肉だの置いてあるらしい。猫が食べるところも見たそうだ。猫って奴は一度味を覚えると、何度でもやってくるからな。今日もきっと来るだろう」

「はあ……」


 それにしても小さな祠だ。こうした祠は集落の入口や辻に置かれることが多く、どちらも人の出会いと別れの要所である。しかし、この祠があるのはそういった場所からは掛け離れている。考えられる理由は一つしかない。多くの人々によって森が切り裂かれ、木がなぎ倒される光景が目に浮かんだ。


「そろそろいい時間だと……」



「光永さん?」


 初老を迎えた女性の声だった。

 振り向くと、青い小皿を持った女性がこちらを(うかが)わしげに見つめている。そこには一口大に切られた肉が盛られていた。

 間違いなくこの女性だ。それにも関わらず、光永さんは一言も発しようとはしなかった。


「ああ、やっぱり光永さんだったんですね。それに、賢介くんも。元気そうでよかった。」


 数歩ずつ近寄る女性。瞳は哀情(あいじょう)に満ち溢れている。

 風に揺れる木々が光永さんの顔に影を落とした。


「お兄さんと奥さんが亡くなったときには本当に心配したんですよ。小さな賢介くんが残されて、さぞ大変だったことでしょう」


 私は耳を疑った。

 お兄さんと奥さんが、亡くなった? しかも、賢介くんを残して?



「大丈夫ですよ。俺も賢介も上手くやってますから」


 絞り出したような声。光永さんは口角を無理に上げて、女性の視線を押しのけた。

 女性はそれを察したのか、小皿を祠の脇に供え、足早に立ち去ろうとする。とっさに、賢介くんは光永さんの手を強く握り締めた。


「あ、米田よねたさん。聞きたいことが」

「はい」

「この小皿、猫のためなんですよね」

「ええ、ここ最近小さな黒猫が来るようになって。お腹が空いていたようだったから、少し余り物の魚をあげたんです。そしたらすっかり懐いてしまって、この間も、……もしかしてあの鍵は」

「鍵?」


 光永さんは片眉を吊り上げると、すぐさま女性に問い返した。

 紺色のロングスカートを(ひるがえ)し、女性は光永さんに近づく。その手はポケットを探っている。


「ええ、猫ちゃんがね、この間咥(くわ)えて持ってきたんですよ。この鍵なんですけど」


 差し出されたのは小さな鍵。頭部には楕円形の穴が空いている。

 光永さんは驚きながらも、目を細めてこちらを振り返った。


「柚葉さん」

「はい、私の鍵です、私の」


 傾きかけた日の光が鍵に当たる。その光が反射して、光永さんの瞳がきらりと光った。

 温かな、温かな光だった。




***




「結局、それは何の鍵だったの?」


 帰り道に光永さんは問う。その背には寝息を立てる少年の姿があった。


「宝箱の鍵です。亡くなった犬の玩具を入れていたんです」

「ああ、それで公園に」


 柑子(こうじ)色に染まっていく空。私達はまた公園までの道のりを戻っていく。薄桃の壁もほんのり橙に変わっていった。額に浮き出る汗ももう気にならないほど、空気は澄み切っている。


「あまりにも辛くて、蓋をしていたんですけど、うっかり猫に奪われて。でも、おかげで吹っ切れた気がします。楽しかったです、たった数時間でしたけど。あの、相談料はいくらでしょうか?」

「相談料、ね。じゃあ代わりといっては何だけど、くだらない話を聞いてくれる?」

 


 光永さんは賢介くんを背負い直すと、空を見上げ、話し出した。


「兄貴はおおらかな人だった。俺が突然現れたときも二人揃って迎えてくれて、本当にいい奴だったよ。そんな兄貴と義姉さんが死んで、賢介と二人で残されたときに、俺は終わったと思った。肉親も居場所も失くして、おまけに賢介はほとんど喋らなくなって。もう駄目だと思ったんだ」


 高く伸びた向日葵。そのそばには一人の老人が立つ。

 光永さんは公園に着くと、老人に向かって軽く頭を下げた。

 きっと向日葵の世話をしている老人だ。寂れたまちの象徴として見ていたこの公園も、こうして懐かしい風景を保とうとする人がいる。決して忘れられたわけではなかったのだ。

 車止めを避けて公園に入ると、シャツワンピースが向かい風に揺れた。


「でも次の日も次の日も朝は来るし、賢介はどんどん背が大きくなるし、依頼は山のようにやってくるし。おまけに服掴んで喚く女もいるしさ」


 流し目で笑う、その姿にまた胸がくすぐったくなる。

 それは発作のように、私の胸を激しく駆け巡った。


「まあ、そういうことだ」

「どういうことですか」

「とにかく、頑張れってこと」


 光永さんは右手をぐっと差し出すと、顎で私に何かを促した。

 その意味を察した私は両手を広げる。ぽろっと零れ落ちたのは、金色の鍵。求めていたものだった。



「依頼完了、だな」


 優しくカーブを描く瞳。

 もうこの瞳を見ることはないのだろうか。この声を聞くことはないのだろうか。


「ありがとう、ございました」

 返事が(よど)む。私は息を吸い、鍵を強く握り締めた。


「それから、もう一つ」




「また賢介に会ってくれる?」

 男は笑いながら、ずり落ちる少年を片手でまた背負い直した。



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