Ⅲ 黒の小勇者
彼女と見上げる空はいつも綺麗だった。
「なあ、ミユキ。今日は駄目だったよ」
彼女は僕の声に答えることはなく、杉林の方を鋭い目で見つめていた。何かに気付いているらしい。彼女は僕の気付かないものを感じ取ることができる。僕よりもそちらの方が一大事とばかりに、頭を向けた。
「冷たいなあ、少しは聞いてくれよ」
そう言って頭を撫でても、彼女は一向にこちらを見る様子はない。しかし、気にすることはない。いつもこうなのだから。
***
彼女と出会ったのは、ちょうど一年前。群青色の空に薄い雲がたなびく、そんな日のことだった。
僕は最寄り駅から一駅離れた、見渡す限り畑が広がる場所を歩いていた。
ただ歩いていたわけではない。そろそろ進路を決めろ、と周りの大人たちに追い立てられ、少なからずプレッシャーを感じていたのである。決めろ決めろと僕の道を惑わし、隠そうとするのは大人たちのくせに。僕はそんな反抗心から、なかなか家路につけずにいたのだ。
ふと見ると、足下にはシソ畑が広がっていた。大葉を挟んだ寿司や梅干しに使われている赤ジソを目にしたことはあったが、こうして実際に栽培されているのを見るのは初めてだった。思った以上に鮮やかな赤に目を奪われる。僕はしばし足を止め、風に揺れ、仄かに香るシソを楽しんだ。
そのとき、葉の奥の方がガザガザと音を立てた。何やら大きいものが潜んでいるらしい。獣だろうか。
目を凝らし、音のする方を見ていると、その正体が掴めた。
犬である。一、二歳くらいのレトリーバーが尻尾を振りながら近づいてきた。
「可愛いなあ、飼い犬か? どっからか逃げてきたのか?」
よほど人懐こいらしく、こちらに擦り寄ろうとするが、あいにく制服であるため、そうはいかない。
すっと身をかわすと、シソ畑から離れて、歩みを続けた。犬はついてくることはなかった。
ここで働く人か、地元の人しか使わないような道だ。夕方だからか、誰もいない。
砂利道をそのまま固めたような荒っぽい道を、思いっきり腕を振って歩いた。
視界の先には、ミカン畑があった。家一軒分ほどの広さだろうか。残念ながら旬ではないらしく、青い葉がきらきらと輝くのみだった。そういえば、ここはミカン農家が多い地域だった気がする。少し離れた場所に、二十を越えるほどのミカン畑があるらしい。
僕が住んでいるのは、電子工業によって栄えた町だ。国内でも有名な企業や外国の企業を誘致することによって、現在も発展を続けている。
しかし、ここは違う。一駅離れた場所がこんなにも違うとは思いもしなかった。
僕は胸を震わせる何かを感じながら、光沢の美しい葉に手を伸ばした。
と同時に、後ろを猛スピードで何かが駆け抜けていった。なにか黒いものである。
またあの犬か。そう思いながら振り返ると、そこにいたのは犬ではなかった。
猫である。一歳にも満たない小さな猫が、僕を見上げ、立っていた。
尻尾はぴんと張り、毛が逆立っている。そして一心に、僕の向こうを見つめている。
そこに何がいるか、見なくとも分かる気がした。
先ほどの犬がこちらを見つめ、相も変わらず尻尾を振っている。猫にとっては一大事でも、犬にとってはじゃれ合いの一つらしい。愛くるしい瞳をこちらに向けると、じわりじわりと近寄ってきた。猫はしゃーと威嚇をすると、僕の後ろにさらに隠れた。
しかし、この猫は凄い。普通の猫なら一目散に逃げて、近くの車の上や家の影に隠れるというのに。弱腰になりながらも戦う姿勢を崩そうとはしない。強いのか、それともただ愚かなのか。小さい身体を揺らしながら、必死に立ち向かおうとしていた。
「助けてほしいか?」
猫にそう問いかける。答えなんて返ってくるはずはない。だが、猫の目は僕を捉え、確かに答えたのだ。助けてくれ、と。
僕は心を決めると、周りを見渡した。手頃な棒を、と思ったのだが、ちょうど誰かに打ち捨てられたようなビニール傘が目に入った。僕はそれを拾うと、ぶんと音を立て、振り回した。
もちろん犬から遠いところで振ったのだが、その勢いに驚いたのか、犬は尻尾を巻いて逃げていった。
僕は傘を下ろすと、猫を振り返った。そのとき初めて、その瞳が美しい青だということに気がついた。それはそれは綺麗な、澄み切った青だった。
「お前、行くとこないなら、うちに来るか」
また戯れのように尋ねる。しかし、猫はしっかりと答えた。瞳は決して揺らぐことはなかった。
「そうか、分かった。……じゃあ、またな」
僕はそう言うと、来た道を戻り始めた。
荷物は増えたが、心は随分と軽くなったような気がした。
空は次第に熟れたミカンの色に染まり、彼方に一番星が光っている。
僕は彼女の視線を感じながら、歩き続けた。
***
「お前はなんだかんだで答えてくれるよな。冷たいんだか、優しいんだか」
彼女は、失礼ね、とばかりに睨みつける。その瞳は今も変わらず美しい。僕はその瞳を見に、この一駅離れたミカン畑まで足を運んでいた。いつもいるとは限らない、この猫に会いに。それを知ってか知らずか、彼女はいつもここで空を見上げていた。
ミユキ、と名づけたこの猫は、僕のペットではない。ただの猫である。
しかし、実は猫の皮を被った少女ではないのか。そう思わずにはいられないのだ。
「ミユキ、明日はもっと上手くやるよ。プレゼンも頑張るから」
彼女は身体をくねらせ、近寄ると、僕の足に寄りかかる。
頑張れ、そう言われた気がした。ともに座って見上げる夜空は、今日も綺麗だ。