Ⅱ いろはは語る
「春霞たなびく山の、」
遠方に見えるはずの木々がぼんやりと霞む。日中は二十五度近くあった気温が急激に下がっているからだ。通い慣れた部屋より下を見ながら、美津子はひとり嘆息をもらした。その息すらも微かに冷たい。
通い慣れた、とはいっても部屋の様子は随分変わっていた。壁一面にあったはずの書籍類は処分されて、数冊を残すのみ。海外からの土産だと、珍しく自分で茶を淹れたあのカップも今はない。
あの人がいた日々は遠く遠く消えてしまった。
そう、立花先生はまさに霞のような人だった。
何とはなしに呟いた歌の続きが思い出せず、回れ右をして部屋の隅の手洗い場まで向かう。美津子の大学の研究室には必ず鏡と洗面台があった。一年目には驚いたものだったが、四年にもなると使い古された姿に愛着さえ湧いてくる。台に両の手を置いて鏡を覗くと、目元にどす黒い隈のある女と白いワイシャツに黄色のネクタイをぶら下げた男が映り込んだ。
「春霞たなびく山の桜花うつろはむとや色かはりゆく。この歌を知らぬ者もいるだろう。そこの君、どの歌集に載っているか答えてみなさい」
あまりに突然の問い。
当てられた学生は肩を大きく揺らすと、遠慮がちな声で答えを述べた。
「古今和歌集です」
「ほう、知っていたか。ちなみに、意味は分かるかな」
「春霞がたなびく山に咲く桜の花は散ろうとしているのだろうか、色褪せていく」
「その通りだ、素晴らしい。私は桜が好きでね、花が散る様子を見るとよくこの歌を思い出す。今年も漫然と散っていく花を前に、口ずさまずにはいられなかった。もちろん、もう桜は咲いていないが、花を咲かせたばかりの君たちが有意義な四年を過ごすよう期待しているところだ。では、講義に入る」
渋みのない、快活な声。
美津子はそのときになって、向こうに立つ教授を見た。ひょろりとした体つきは他の先生と同様だが、やけに派手なネクタイと同じ色をしたスニーカーが若々しさを演出する。引き締まった目元にはまだ輝きがあり、口元には余裕ともとれる微笑み。おそらく美津子より頭一つ分大きいだろうその姿は、講義室の壇上では小さく見えた。
後に彼の研究室に入り、想いを告げることになろうとは。そのときの美津子は夢にも思わなかった。
もう一度鏡に目を凝らす。望んだ姿はやはりない。
そこに映るのは、虚ろな目をして自分を見つめる女だけ。これだけと思い、唇にのせた紅がいやに浮いている。艶のあった黒髪も先の方が逆巻いて、まとまりがない。
数ヶ月前までは二十代後半向けの女性雑誌を読みあさり、少しでも落ち着いた服装と化粧を心がけていた。その結果がこれとは、恋というのは全く馬鹿馬鹿しいものである。
「馬鹿は私、か」
美津子はため息まじりにそう独り言ちた。
そのときである。視界の隅で何かがきらりと光った。ちょうど先程まで外を見ていたあたりだ。振り返り、その場まで恐る恐る近づいていくと、窓に何かが貼りついている。風景に気を取られ、気づかなかったのだろう。
それはシールだった。黒猫が描かれたプリズムシール。
そういえば、先生はこんなシールをよく学生にあげていたっけ。問題に正解した学生に頑張ったご褒美だと言いながら配り歩き、貰った学生はノートやファイルに面白そうに貼りつける。その表情はまるで子どものようだった。
大学の教授らしからぬこんな行動も人気の秘訣だったのか。先生の講義は出席率が高かった気がする。そんなことを思い出しつつ、美津子はシールをゆるりと撫でた。
どうしてこんなところに、どんな意図があって?
浮かんだ疑問は、隣の汚れによって解決された。いや、正しくは汚れていない部分によってだ。
「なにこれ、文字?」
全体的に埃をまとったガラスだが、ある部分だけが汚れておらず、奇妙な模様を描いている。
これは一体……?
美津子は少し胸を反らせると、温かな息を窓に吹きかけた。かかった部分は瞬く間に白くなっていく。そこに現れた文字に、思わず首を傾げた。
「これは、数字?」
窓ガラスには五つの数字が書かれていた。左から、29、20、45、28、22。見たところ、規則性もなく、偶数・奇数が入り混じっている。残念ながら数字が得意ではなかったが、美津子には思い当たることがあった。以前こんな風に並べられた数字を見たことがあったのだ。
「44、37、14、16、26、……何だろう、これ」
渡された一枚の紙を手に、美津子は固まってしまった。頭の中には幾つもの疑問符が浮かぶ。端に座る学生に残りを配りながら、先生はにやりと唇を引き上げた。
「研究ばかりではつまらないだろうから、私からのプレゼントだ。簡単だから、大学生の君たちなら即座に解いてしまうかもしれない。まずは、三分間時間をやろう」
久しぶりにゼミを開いたと思えばこれだ。この一コマのために大学まで重い足を運んだというのに。
五つの数字を前に、汗の滲む下まぶたを優しく、優しく拭った。悪態をつきながらも身支度はしっかりと整えてきたのだ。いつもより二十分も早く目を覚まし、薄くメイクを施し、お気に入りの花柄のスカートを着てきた。気合いは十分だ。
「一分経ったぞ。どうした、分からないのか」
不意に上から声が降ってきた。グレイのスーツが視界に入る。
美津子は慌ててシャープペンシルを取り出すと、紙を握りしめて眉根を寄せた。途端に響く笑い声。声の主は後ろを向いて、堪らず声を上げていた。何がそんなに可笑しいのか。
考えても考えても解く糸口さえ見つからず、三分の合図のとともに美津子は大きく肩を落とした。先生は口元に笑みを湛えたまま、ヒントを出し始める。その途端、一斉に走り出すシャープペンシル。
あのとき、先生はどうして笑ったのだろう。どうして、あんなに温かな声で。
今となってはもう分からないことだった。
美津子はいつかのようにペン先を滑らせた。ちょうど部屋の右側に講義で使用したホワイトボードが置いてあったのだ。思い出し、思い出し書くために滲む黒いインク。時々垂れた部分を指先で拭き取りながら、ボード一面に大胆に書きあげた。
いろはは語る。それが先生のヒントだった。
目の前に広がるいろは歌。その文字の横に一つ一つ数字を振っていく。一仕事終えると、美津子は勢いよく目元を擦った。次は数字と文字を対応させて……
「29、20、45、28、22、と」
五つの文字に丸をつけた。あとはこれが意味するものを調べるだけだ。
「……やね、もくら?」
やねもくら、やねもくらとは何だ。
屋根も蔵? いやいや、そんなものは聞いたこともない。じゃあ、屋根モグラとか? 新種の生物か。
数字と文字をもう一度確かめる。しかし、誤りはない。では、これが意味するのは何だというのだ。まさか、お前、屋根モグラにそっくりだな、と遠く離れた地で嘲っているわけではあるまい。
額に汗に似た何かが流れ出す。これは先生が残したメッセージではないのか。こんな問題を出すのは、あの人ぐらいなのだから。それなのに、解くこともできないとは。
数分間、いろはを睨み続けた。それでも、解は出てこなかった。
嘆息をもらして、ホワイトボードに背を向ける。履き潰したスニーカーが床と擦れて、小さく鳴いた。
「あーあ、これじゃシールは貰えないなあ」
きらりと輝く黒猫を視界に捉える。最後に一目だけ。そしたら、帰ろう。そう思ったのだ。そのつもりだった。
「……何だろう? マーク?」
猫の足の部分に、汚れとも言えない何かが書いてあるのが見えた。美津子ははっと息を呑んで、窓に駆け寄る。プリズムが光った先には油性ペンで二つの矢印が書いてあった。
「このマーク、どこかで見たような……」
寄り添いながらも顔を背ける黒い矢印。それに既視感を覚えた美津子は、急いでマークをホワイトボードに写した。
一体どこで見たのだろう。友人に送った絵文字だろうか。それとも通りに立つ標識だろうか。考えを巡らせど巡らせど何も出てこない。頭の中では多くの矢印がぐるぐると泳いでいた。それが何周目かのトルネードを描いたとき、美津子は一つの答えにたどり着いた。
「リバースだ!」
幼い頃、姉たちと興じた懐かしのゲームに、これと似たマークがプリントされたカードを見た気がする。手順が反対回りになるカード。糸口を見つけた美津子は、軽やかにステップを踏んで窓まで戻ると、愛らしい黒猫をまた撫でた。
さて、ここからだ。何を反対にすればよいのか、今の時点では分からない。
しかし、五つの数字を逆に読めということではないだろう。らくもねや、なんて言葉は聞いたことがない。
「……ということは、」
黒猫から手を離し、周りを見渡す。探していたものはすぐ見つかった。
ざっと数字を消すと、そこに新たに文字を入れていく。あっという間に、「す」から「い」までに、一から四十七までの数字が当てはめられていった。
「29、20、45、28、22、と」
……これで解けた、はず。
丸をつけた平仮名を口の中で読み上げる。
十分にも満たない時間、問題を解くために躍起になっていた。その緊張が一気にほぐれていく。
と同時に、身体を突き抜ける甘美で、憂いに満ちた衝撃。手から零れ落ちたペンは、床の上で乾いた音を立てた。
「恋ぞ積もりて淵となり、ぬる」
これが先生の残したメッセージ、遅すぎる返事だった。
色恋よりも研究に集中しろ、なんて言ったくせに。こんな言葉だけ、こんな想いだけ残していくなんて。
「……馬鹿だなあ、先生も」
もう一度、窓から外を眺める。相も変わらず、世界は霞んでいる。
雪国の春にあのスニーカーはさぞ浮いて見えることだろう。
美津子は目元を優しく拭うと、ガラスからご褒美をゆっくりと剥がした。