Ⅰ 語りと味わう珈琲
ほろ苦い独特の芳香が鼻をくすぐる。
主のないカウンターには空虚な寂しさが漂っていた。端の席に座り、俯せになると、その空気に呑まれてしまう気がする。早く、早くと思えば思うほど、時間は緩徐に進んでいくのであった。
突然、前方の扉が開く。待ち望んでいたものは、僕の鼓膜を震わせながらやって来た。
「お待たせ。マスター特製ふわふわしっとりレモンケーキ! ゆっくり召し上がれ」
右手にはトレンチ、左手には二本のフォーク。縹色のストライブのスカートを翻しながら、店主は弾み足で近づいてきた。その顔はいつになく明るい。
「祥子さん、また作ったんですか? 客はいないのに」
「いいの! ふたりで食べるんだから」
祥子さんはふんと鼻息を荒くすると、向かいの席に腰を下ろした。そしてケーキを白い取り皿に分けると、エプロンの紐を解いて脱ぐ。皿の上には一切れのケーキとたっぷりのメレンゲが乗っていた。
「それと、何度も言ってるけど、マスターよ! 名前で呼ばないで欲しいわ」
祥子さんが座る席はバースツールのように高く、カウンター席から頭部がすっかり見えるようになっている。夏を前に切られた黒髪は、皿の上で清々しく揺れていた。そんな様子に目をやりながら、フォークを手に取り、メレンゲを掬う。それをケーキに塗り付けると、一口頬張った。祥子さんの瞳はらんらんと、痛いほど輝いている。
「う、わ。祥子さん、これ、かなり酸っぱいですよ」
「え、本当?」
「一体レモンをどれくらい入れたんですか?」
「うーん。基本目分量だから分からないのよねぇ」
相変わらずの適当さ。以前も塩を瓶一つ近く入れてしまい、唇が痺れるほどしょっぱいオムレツができあがったっけ。おおよそこれもレモン汁を浴びせるように入れたのだろう。笑顔でケーキを口に運ぶ祥子さん。僕は舌を刺す味に瞳を潤ませつつ、懐かしさに微笑んだ。
「そういえば、このケーキ食べるの、二度目です」
「二度目? いつ食べたの?」
祥子さんは怪訝な顔で僕を見つめる。自信に満ち溢れた顔も、眉を寄せて考える顔も全く変わらない。変わったのは、スカートの厚さと目尻の皺くらいだ。こんなこと、本人には口が裂けても言えないけど。
「初めてこの店に来たときですよ」
フォークについた欠片を舐めとる。鋭い酸味が僕の大脳皮質を刺激した。
***
少し暖まりたい。
そう思って立ち止まったのは、白い扉の前だった。
開店前の居酒屋や洒落たバーが立ち並ぶ中、その建物は控えめに、しかし異様な雰囲気を漂わせながら存在していた。扉は木製で、店名が分かる看板も何もない。ひどく錆びた取っ手があるのみだ。
僕はその扉に手を伸ばすことができなかった。この辺りの店ならば何軒か入ったことがある。学生向けのプランやメニューばかりの安っぽい店ばかりだ。もちろんまだ酒が飲めない僕は、やたら味の濃いつまみやサラダをソフトドリンクで流し込むしかないのだが。それでも大学に入って、一見の店に入ることに躊躇いはなくなっていたはずだった。
それなのに何故だろう。この取っ手を握ることはできなかった。
僕は右手を握り締めると、足を反対方向へと向けた。他の店へ行こう。暖がとれるところは他にもある。そう思って、扉から目を離し、進み始めた矢先のことだった。
突如開かれた扉。そこには、クリーム色のエプロンを身につけた女性が立っていた。
三十代半ばというところだろうか。眩しそうに目を細め、左手で太陽を隠す。無造作にまとめられた黒髪が、頭の後ろでゆらゆらと揺れていた。女性はしばらくして目の前の存在に気がつくと、手を下ろしてこう言った。
「少年よ、ちょっと大人な体験をしてみる?」
そのまま女性は身を翻すと、建物の中へと消えてしまった。呆然と立ちすくむ僕。
「大人な体験?」
そのフレーズが頭で何度も繰り返される。僕は誘われているのだろうか。それともからかわれているのだろうか。いずれにしろ、もう扉は開かれてしまった。僕は迷うことなく、冷たい金属に触れることにした。
「はい、マスター特製爽やか青春レモンケーキ! たっぷり召し上がれ」
「……」
皿の上には一切れのパウンドケーキ。そこにふんわりとした白いメレンゲとミントが乗っている。
女性は建物内に入ると、どこか奥に引っ込んで、少しの間出てこなかった。薄暗い室内には八十年代のジャズが流れている。二つのテーブルに、五人ほどが座れるカウンター席。そこからは、仄かに珈琲の香りを感じた。どうやらここは喫茶店らしい。
誰もいないので、とりあえずカウンター席に着いた。傍らには、ラミネート加工されたメニューが置いてある。それには数種類の珈琲と紅茶しか書かれていなかった。本当に素朴な喫茶店だ。そうこうしているうちに、女性はおそらく裏に通じているだろう扉からケーキを片手に出てきた。そして、この状況に至ったのである。
ちょっと大人な体験とは、このケーキのことだったのだろうか。一口サイズに分け、丁寧に口に運ぶ。酸味と同時にメレンゲの甘さがじわっと染み渡った。美味しい。とても美味しいが、これが大人な体験だというのだろうか。
頭を捻りつつ、今度はミントを乗せて味わおうとした時だった。
「少年、どうしてここに?」
カウンターから女性が話しかける。悪意など全くない瞳。僕は何の躊躇いもなく答えた。
「寒かったので」
「ふーん、寒かったのかぁ。うんうん、寒いよねぇ。まだ春先だからねぇ」
「……」
同情なのか、哀れみなのか。
普通寒いだけなら、こんな街中の、看板もないような喫茶店には入らない。家に帰って暖房をつけてもいいし、友人と温かいものを食べに行ってもいい。少なくとも一人で入ったこともない店の前に立ちすくむようなことはしないだろう。しかし、僕は現にそうしたのだ。
この人はそれを分かっていて聞いたのだろうか。僕のこの愚かさを。
「ときに少年、君は大学生か?」
「はい」
「アルバイトはやっているかい?」
「……やってませんけど」
それにしても変わった人だ。目の前の男にいきなり声をかけたかと思えば、職業や生活のプライベートなことまで聞き出そうとする。そのうえ、僕のことを少年呼ばわりする。たいして年が離れているようには見えないのだが。もしかして本当に僕を誘っているのか。それとも何かの調査なのか。まさか、このまま誘拐でもするつもりなのだろうか。
様々なことが頭を過る。その間にも女性は頰に手を当て、唸り声を上げると、急に表情を変えた。
「うちで働いてみない?」
「はい?」
「だから、うちで働いてみない? 給料は高いとは言えないけど、交通費は出す。それに希望休も取っていい。仕事内容はごく簡単。カップ洗いと接客、レジ、以上」
驚きに口を閉じることができない。
会って五分と経たない初対面の、それも喫茶店のおそらくマスターと言える人に働かないかと誘われてしまったのだ。ヘッドハンティングをされている気分だ。
しかも条件は悪くない。給料は分からないが、ちょうど働こうかと思っていたところだったし、交通費が出て、希望休も取らせてもらえる。そもそも客入りも少なそうだから、接客といっても辛くはなさそうだ。しかし、いきなり誘うというのはやはりおかしい。一度探りでも入れてみたいところだが。
「いいですけど、あまり使えないと思いますよ」
「いいのいいの。特別な技術を求めてはいないから、伸び伸びと働いて」
伸び伸びと、か。
柔らかく弧を描く瞳と唇。その微笑みは、まさに日溜まり。
女性は優しげな表情のまま、すっとカップを差し出した。白い磁器のカップからは、ゆらゆらと湯気が立ち上っている。僕はそれを受け取ると、火傷をしないように静かに啜った。口の中にゆっくりと広がる苦味とまろやかな味わい。雑味がなく、滑らかな舌触りだ。自分の中で渦巻いていた疑問が瞬く間に消えていく。
ああ、これが大人な体験か。
僕の心はもう決まっていた。見上げると、珈琲色の瞳が温かく輝いていた。
***
気がつけば、祥子さんは下を向いて何かの作業をしていた。メニューに女の子やケーキ、猫のイラストを描いたり、店で流すBGMを選んだり。祥子さんは普段そうして過ごしている。休憩と言って、店を空けることもあるくらいだ。アルバイトを始めて間もない頃はそういう態度にも戸惑いを感じていた。なにしろ接客業は初めてだったのだ。薄暗い店に一人、現れない客に緊張したことは言うまでもない。
「レモンケーキは先代マスターから受け継いだものなの」
カウンター越しのこもった声。今日は何かを書いているらしい。ペンが紙の上を滑る音がする。
「先代マスターから?」
「ええ、門外不出のレシピ。決して味を変えることはないの」
「はぁ」
先代のマスターの話は何度か聞いたことがあった。この喫茶店を今のような外装に変えたのも、珈琲に特化したメニューに変えたのも、先代のマスターだという。それなのに、ケーキを作っていたとは。もっとも祥子さんは、時々店では出せない恐ろしいものを作り出してしまうため、メニューに載せること自体難しいだろうが。
「それより祥子さん、何書いてるんですか?」
「はい? ああ、少し書き物を……」
少し腰を上げて手元を覗くと、油性ボールペンが勢いよく、ときに躊躇いながらも動いている。
それに、この紙は————
「書き物、って原稿用紙にですか?」
「ええ、まぁ。これがしっくり来るのよ」
「これ、もしかして、小説ってやつですか?」
「まぁね」
頰をうっすらと染めながら、書き進める。右上がりの激しい特徴的な文字は確かに祥子さんのものだ。右上にはタイトルと思わしき言葉が並んでいる。
「これ、名前? ペンネームってやつですよね? てん、てん、天使?」
「あまつか! 天使リド」
「天使ですか。にしても天使……、祥子さんが天使……」
「失礼ね、どう見ても天使でしょ。こんなに慈悲に満ち溢れた人間、他にはいないでしょ」
またキラキラの瞳でこちらを見つめる。俗にいうドヤ顔というやつだ。
見た目はともかく、慈悲に満ち溢れているとは言い難い性格だろう、と言えるわけもなく。
「……まぁ、そういうことにしておきましょう」
「ひどい!」
祥子さんはペンを持ったまま、両腕を振り回した。この人には時々どうしようもなく幼く見える瞬間がある。例えば、今のように。僕は、危ない、危ないと身を仰け反らせた。白いブラウスとストライプが視界の端に消えていく。
しばらくして、両腕を下ろし、落ち着いた祥子さんにまた問いかけた。
「祥子さんは小説で生計を立てているんですか?」
「否定はできないわね、こっちの稼ぎの方がいいから」
「よくこの店を受け継ごうと思いましたね」
「それが先代の遺志だったからね」
一時の沈黙。眉尻を下げた、その瞳に陰りが見えた。
静かな店内には、女性への熱烈な愛を歌った曲が流れている。祥子さんが選ぶのは、たいてい七十年代から八十年代のジャズばかりだ。この選曲も趣向も、先代の影響なのだろうか。
「大変だったんじゃないですか?」
「そりゃあ、もう大変だった。経営なんてど素人、必要な資格のこともよく分からなくて。保健所に何度も電話して、執筆の傍ら頑張ったわよ。」
「ということは、喫茶店経営が本業なんですか?」
僕の問いに、祥子さんはペンを置いた。頰に手を当て、少し唸ると、僕を見つめて微笑む。あまりにも真っ直ぐなその瞳に、僕は息を呑んだ。
「そうとも限らない。私にとってはどちらも仕事だもの。ただ、喫茶が生き甲斐なら、執筆は夢なだけ。どちらかが欠けても、私は成り立たない」
そうだ。祥子さんはいつだって真っ直ぐだ。あの日、悩みや迷いだらけだった僕に真っ直ぐ手を差し出してくれたじゃないか。友人もなく、楽しみも喜びもまだなかったこの僕に。そのおかげで僕はやっと、暖かく、温かい場所を手に入れたのだ。
「……僕に仕事押しつけているくせに」
「ケーキは美味しい? 結城くん」
「はぐらかしたって無駄ですよ」
そんな憎まれ口を叩きながらも、僕はまたケーキを一口飲み込んだ。
「ところで、どんな話を書いてるんですか?」
「今回は連作短編を書いてるの。見たい?」
「別に興味はないですけど」
「『春霞たなびく山の、』」
「勝手に語り出したし……」
客のいないこじんまりとした喫茶店。今日も白い扉は閉じられたまま。
店内にはマスターの透き通った声が響いていた。