その時
―――魔法と超能力と近未来科学が蔓延る世界。
世界の破滅を成さんと、巨大な悪が蠢く。
そして、何故か狙われる愛しい妹の命。
銃か、剣か、それとも我が身か、はたまた超兵器か? 力を得る。
いつの間にか傍らには美しく、頼もしいヒロインが並び立つ。
手にした力をもって妹の危機に馳せ参じ、華麗に悪鬼退散。
「目立つためにやったわけではない」と周囲の目を避ける。
戦い終えて、悠々自適の隠居生活。
ヒロインのウェディングドレスの、なんと眩しいことか。
そして始まる我が子のストーリー、師匠ポジション、レジェンドと化した力、本気出せばラスト・ボスも瞬殺。だが、敢えて我が子の成長を願い、一歩引いた立ち位置でその冒険を陰ながら――――
『ユウキぃ、お前、いい加減にしろよな?』
<SCENE-1:断じて彼は勇者などではない>
梅雨明けのジメジメ感が拭われた、気持ちの良い昼時であった。
染みついた芯の鉛臭と、自分独特の香り。硬い机の木板と額に挟まれた右腕が痺れている。ざわざわと学友が奏でる談笑、睨み顔の少年……。
気持ちの良い昼時に、心地よい日差しが背中を温めている。【高山 ユウキ】はうたた寝の中から呼び覚まされた事実をまだ認識できず、朦朧と微笑んだ。
「うわぁ、気持ち悪い……なにニヤニヤしてんだよぉ、食欲なくなるわ」
誰かがしゃべっている。幸福な夢は泡沫として消えた。徐々に現実への回帰を認識して、ユウキは大変に面倒くさそうな表情をした。
教室の一角。隅っこの方にまるで隔離されたかのようにあるユウキの座席。その隣の席。机に頬杖を付いている少年、【佐山 実(以下:ミノル)】は心底うんざりした表情である。
「なんだってんだよ、その顔ぉ。笑ってたと思ったら……クシャミでもでるのか? だったらあっち向けよ」
「…………ふぅ。ミノルくん、解らないかね? 君は大罪を犯したのだよ」
ユウキは大きなタメを作ってから、粘り気のある溜息を吐き出した。
いきなり「大罪を犯した」などと言わたミノルは、そもそも怒っていたことに合わせて息も臭かったので、当然として気分がよくない。
「解らないよ。何言ってんだお前は」
「あのね……俺ってば、寝付くのに時間かかるの、知ってる?」
「知ってるけど? 神経質過ぎんだよ、お前は」
高山ユウキという少年は、寝つきが悪い。布団に入ってからが長いタイプで、バスや電車の中でもあまり深く眠れないのである。
「ならばさ、どうしてボクの眠りを妨げたの? ……ほら、時計見て。もう絶対、昼休み中には眠れないよ?」
「知らんがなぁ。授業中からスヤスヤしてたんだから、もういいだろぉ。……ていうか、そんなんどうでもいいのよ。お前な、お前が寝ている間にな、俺ってば怒られちまったんよ、世界史の畑中に」
ユウキは「知らんがなとは何事だ」と思ったが、黙っていた。どうやらミノルが授業中に怒られたらしいので、そのことに興味が行ったらしい。ちなみに、世界史の畑中とは、今年45才になった独身の男性教諭である。
「お前から借りたの読んでたんだよ、この下で。そしたら見つかってよぉ……黄金騎士の8巻持ってかれちまったぃ……どうしてくれんだよ、お前のせいだ。評価に響くわ」
ミノルは頬杖をやめて、天を仰ぐように肩を竦めた。
「はっはは、バッカお前。畑中はちょくちょく黒板見ないと怒るって解ってたろ? どうせ読んでることはバレてんだから……って、ちょっと?? え、なに、持ってかれた?」
「うん。黄金騎士の8巻、持ってかれた」
彼らの言う「黄金騎士」とは、界隈で若干流行っている漫画の題名である。現在54巻まで発行されている長期作品であり、特に20巻くらいまで人気が高い。
「ええ~っ、何してんの、ほんと。信じられない……ていうかそれで俺が恨まれる意味が特に信じられないっすよ」
ユウキは深い悲しみに包まれ、両手で顔を覆って項垂れた。どちらかというと、悲しいというか「面倒だなぁ」という感情ではあるが。
「だって面白かったんだもの。続き気になってしょうがねぇよぉ、なぁ、どうしてくれんだユウキぃ」
「ええい、うるさいッ、気になって不眠症になれ! ……ああ、どうしよ。返してもらいに行くの面倒くさい。でも金ないしなぁ、買い替えるのは……つか弁償してくださいよ、ミノルさん」
「あ、そうだ。この前昼食奢ったけなぁ、あれって丁度漫画一冊くらいじゃねぇ?」
「お前……お前ふざけんなし。ミノルマジおバカさん……」
高山ユウキは割と「押しに弱い」生き物である。自信満々に調子に乗っていることが多いが、強がっていないとすぐにへし折れてしまうという性故、仕方がないという面もある。
有言不実行の化身が如く存在であるユウキを、「鬱陶しい」「うるさいヤツ」と敬遠している人はそれなりにある。しかし、大半のクラスメイトは「ユウキなら仕方ないか」と諦めてくれており、微笑んで許してくれる場合が多い。
佐山ミノルは昔、小学生の頃。ユウキに対して「調子に乗ったウザいヤツ」という認識で当たっていた。しかし、「調子に乗ってはいるが天狗になっているわけではない」……微妙な違いだが、つまりユウキに“嫌味がない”と感じて以来、いつの間にかよく行動を共にするようになっていた。
高山ユウキと反して、佐山ミノルは大言壮語を吐かないものの、人知れず事を成しているような人物である。
ごく一般的な家庭に育ったミノルは、表立ってみるとやや素行が危うく、準不良のような振る舞いが目立つ。しかし、後に自分が進む道を定めており、また能力からして「可能」と思われる範囲のことを積極的に試す度胸を持ち合わせていた。
必要な科目の授業では、ユウキにちょっかいを出しながらもきっちりとノートをまとめ上げ、該当科目の成績は県内トップクラス。家庭においても相当な努力をしている。
また、学生でありながら雑誌のモデルとしてちょくちょく紙面に登場しており、嗜んでいるバンド活動のこともあって、地域では稀にサインや写真をせがまれる存在。ペンネームを用いて商業誌のコラムに連載も持っている。
こういった活躍を、ミノルが自ら誇ることはない。それは彼が謙虚だからではなく、「やったら出来た」程度にしか思っていないからだ。彼は本当に自分が成し遂げたい、相応の夢を成就した時、初めて胸を張って誇るのだろう。
――ユウキにとって、「ミノル」という少年は。
仲の良い友であると同時に、「自分の未来の姿の願望」であったのかもしれない。ユウキは仲が良い分、ミノルの活躍・能力を十分に知っている。どうしてか埋まらない、未だ来ない「自分の世界」と違い、ミノルは既に「自分の世界」で生きているように思えた。
ユウキは、決してありありと実感はしていないが、その心の奥底では「ミノルは主人公のようだ」と感じていたのだろう。だから、羨ましいという思いをどこかに抱いていた。自然と、その深層心理は彼の行動原理に融合されて「人柄」を構成する。
彼はミノルの生き方に、感銘と影響を受けていたのである。
学校帰りに、ユウキとミノルはレンタルビデオ屋という名の何でも屋に寄った。便利なものだ、ここでは本も文房具も、お菓子も買える。
「えっと、黄金、黄金……おっ、8巻あるじゃぁ~ん! すげぇ飛び飛びだわ、さすがに人気あるんだなぁ。でも、ポツンと8巻残ってて笑えるっ」
ミノルはそう言うと、黄金騎士の8巻を手に取った。
「え、マジ買ってくれんの?」
「ちげーって、俺が気になるから買うんだよ。んで、一度読んだらたぶん読み返さないし、邪魔だからお前にパスする。つか、俺の他にお前から借りてる奴が困るだろぅ?」
「あー……だったら、たぶん53巻読み終えたらまた気になるだろうな」
「ん? ――54巻持ってねぇのかよ! ったく、ずぅずぅしー」
ミノルは、2冊の漫画本を持ってレジへと向かった。
ユウキの財布には現在、352円が入っている。店を出て、自動販売機で500mlのコーラを2つ買ったらハイ、終わり。頑張れば駄菓子を2つくらい買えるだろう。
レンタルビデオ屋を出て、二人はそれぞれ飲み物を購入した。ユウキはコーラに、ミノルはミネラルウォーターだ。
少し、話をした。本当に、他愛のない、普段通りの会話だった。
バス停に近づくバスを見て、ユウキは慌てて駆け出した。
「ユウキぃ、コレどうすんだぁ?」
「明日! 明日読んだらちょーだいっ!」
「解ったぁ。お前、9巻から先、忘れんなよぉ」
「あいよー!」
バスのステップの上で、ユウキは手を挙げて振った。ミノルは軽くミネラルウォーターのボトルを上げて、答えていた。
バスが走り出す。ユウキはいつもと変わらない。変わらず、彼は席に座って酔わないように窓の外を見ていた。
――「黄金騎士」という漫画は、中世北欧をモチーフにしたファンタジーである。
なんの取り得もない少年が、天使の祝福を受けて聖なる鎧を得る。彼は乱世の中で成長し、やがて真の勇気ある者として大陸で名を馳せていく……そんな変身ヒーロー物だ。第8巻は後にヒロインとなる悪役が初めて死亡する、この漫画を代表する名シーンの1つが収録されている。
主人公の騎士は最新54巻現在、大体5回目くらいの大きな挫折を迎えているところだ――。
ふと、ユウキは考える。
望む未来を待つ自分が、ファンタジーに没頭するのは自然なことなのだろう。それも自分の可能性の1つだと希望を持てるのだから。
だが、ミノルは……彼はファンタジーの世界に何を見るのだろうか。ユウキから見て、正直ミノルは既にある程度「成している」人に思える。ぼんやりとだが、拒絶しているのかもしれないが……実際、憧れもある。「こいつは勇者なんじゃないか?」ミノルを見て、そう思うことがある。
勇者ってなんだ? それはユウキにとっての「主人公」を指すのだろう。
定期テストで三割の点数を出し、周囲の失笑をかうこともあった。
「勇者に数学は必要ないな!」
そう言ってテスト用紙をクシャクシャに丸めるユウキを、皆は笑ってくれていた。もちろんミノルも、その手に99点の用紙を携えて笑っていた。
文化祭の実行委員に自ら立候補し、得意げに仕切ろうとしたが……予定がそもそもぬるすぎて、クラスの出し物が間に合わない見通しとなった。
「奇跡は起きるものではない、起こすものだ!」
期日直前にそう言っているだけのユウキに、皆は「へぼ実行委員」などの文句を言いながらも、半ばガッカリした気分で笑っていた。
その時に、「こんなこともあろうかと……」誰かがそう言って代わりの案とセッティングを間に合わせてくれた。ミノルが突発的にこしらえてくれた、理科教室のライブハウスは、当初の出店も規模を縮小して交え、結果として学外からの来訪者があるほどの反響となった。
――いつでも余裕と自信がある。それは、「今は違うだけ」「いつか叶うはず」そんな考えが生み出した張りぼての精神武装。
本当は、十分に実感できるほど。ユウキ少年は、いつでもどこでも……不安を感じていた。
何かの思考の切れ間に、考え込むように不安を抑え込むことがあった。それは、歳を経るごとに頻度を増していく。
(もしかしたら、このままなのかもしれない。“いつか”なんて、来ないのかもしれない)
怖かった。誰だって未来には不安も抱くだろう。ただ、それ以上に……。
人は、見えないものに恐怖する。「今」から目を逸らしている人間が、視界にない「今」に恐怖することは当然であった。
不安で押しつぶされそうになる。ユウキは独りになると、特にそうだ。だから、「神経質」だなんて言われるが……そんなんだから、寝つきが悪いのだ。眠りの導入、意識の中。人は誰しも独りである。
しかし、幼い心に覚えている。
母親の言葉もあるが、それ以前に、覚えている。
自分は確かに、遠いところにいたはずだ。
そこでは、何かこの現実的ではないものを見た気がする。
あやふやな記憶の中の景色。それが、本当は……。
そこにこそ「自分の世界」があるのでは?
きっと、そこに行けば自分は特別なはずだ。
無敵になれる――だって、物語の主人公には寵愛がある。
護るべき対象がある自分には、その資格があってもいいじゃないか。
大切な人を護れる力くらい、ポンと授けてくれたって・・・・・
『・・・・・何してるの、お兄ちゃん??』
<SCENE-2:彼にとっての最優先>
黄昏が迫る空。青色が徐々に朱色に侵食されていく。
カードで機械的な支払いを済ませたユウキはバス停に降り立ち、風防の壁に寄りかかって考え込んでいた。こうも深く思うことは珍しい。“一言目に反応できないほど”ともなると、異様とも言える。
「ねー、お兄ちゃんてばっ!」
「ン……おっ?」
二回目の呼びかけにて、ようやくユウキ少年は彼女に気が付いた。いつもなら、接近しただけで兄妹センサーが反応、気が付くはずなのだが……。
ユウキを見上げている少女の姿がある。サラサラのブロンド髪を後ろにまとめて、栗色の瞳で不思議そうに見上げている。ちょっと丸顔の愛らしい彼女は、「大丈夫? 具合悪いの?」と首を傾げた。
少女の名は【高山ナユミ】。ユウキの“大切な”妹である。
「わぁお、ナユミぃ! どうしたってこんなところにいるんだぁい??」
ミノルはユウキの笑顔を「うわぁ、気持ち悪い……」と評したが、それは生ぬるい。ユウキが妹であるナユに向ける笑顔のそれは、思わず鼻目がけて拳を叩き込んで消し去ってしまいたいほど、幸福に満ち溢れたものである。声色まで甘ったるくて酷いものだ。
「どうしてって。だって公園行ったらここ通るでしょ?」
ナユはこれまた訝しげな表情。兄ユウキの笑顔についてはこれが普通だと思っているのでなんともないが、どうにも考えが飛んでいるらしい彼に幼いながらも疑問を覚えているのであろう。
「ああ、そうか。公園で遊んできたんだね! 元気でよろしい! お兄ちゃん嬉しいっ!」
ユウキはそう言うと、鞄からコーラのボトルを取り出した。いつものようにお土産を「これはお母さんには内緒だぞっ☆」と彼女に手渡そうとした時……ようやく、彼は気が付いた。
ナユは1人で公園に行っていたのではない。二人だ。二人で、公園に遊びに行っていたのである。
「あ、ど、どうも……ユウキ兄ちゃん」
ナユの隣でちょっと引き気味にしているのは、彼女が小学校に入って初めての友達……つまりは人生の友達一号にしてファーストボーイフレンド(FB)である【赤鷲 勇次(以下:ユウくん)】である。二人は手を繋いでいた。
「おやおや、これはこれは……勇次君ではありませんか。ご機嫌麗しゅう?」
途端にユウキの笑みは幸福から威嚇のものへと変化し、敢えて胸を張ってずいとユウくんを見下ろした。
「二人で遊んで来たんだね?」
「は、はい……」
「うん! 途中までユウちゃんの他にもいたけどね!」
「そうか、それは僥倖……お兄さん、てっきりずっと二人きりだったのかと思っちゃったよ」
「は、はぁ……」
「私はユウちゃんと二人でいいよ!」
「こぉら、ナユミっ☆ 男の子と二人きりで遊ぶのはダメって言ってるだろ? いつも!」
「ユウちゃんならいいでしょ?」
「んん~~、そうだね。特にダメかなっ♪」
さりげなく、少年と少女の手を分かち、間に入るユウキ。左右に振り分ける笑顔の質は、あまりにも違い過ぎた。
――箱入り娘に育ったナユは、小学校という人の群れにいきなり入り、当初孤立しかけていた。そこに真っ先に声を掛けたのがこの赤鷲勇次という少年であり、彼の生まれ持ったコミュニケーション能力によってナユは上手く周囲に溶け込むことができた。
それは親切心でもあったのだろうが……ユウくんは年齢にしてはちょっとおマセサンしており、ナユを「カワイイ子だ」と直感して近寄った感はある。別段、どうこうする年齢でもないが、本能的に「仲良くしていたい」と思ったのだろう。
ナユとしては初めての家族以外の話し相手。自然と二人は仲好くすることが多くなった。もっとも、照れがあるのでどことなくユウくんは距離を置く傾向がある。手を繋ぐのも、ナユの方からだ。
本能が働いたのは何もユウくんだけではない。それはユウキ少年も直感するところがあり、「初めて家に連れてきたお友達」の瞬間から小学校低学年の子供に対し、警戒モードへと突入したのである。
「勇次君はそっちが家だよね? この兄が来たからには、ナユミは大丈夫! さぁ、向こうへと行きなさい」
「そ、そうすね……」
「えー、なんで? ユウちゃん一緒に私ん家までいこうよぉ」
「ノンノン☆ ナユミ、もうすぐ夕焼けだよ? 暗くなったら勇次君も帰る時危ないからね、寂しいけどここでお別れさっ! ……そうだろう?」
「わ、わかりました……じゃぁね、ナユちゃん。また明日」
「う~ん、そっかぁ。またね、ユウちゃん!」
「ああ、サラバだ、勇次君よ。気を付けてお帰り……」
年齢の差もあって、ユウくんはユウキ少年に対して無暗に突っかかることはない。どことなく、彼から威圧感を覚えることもあり、大人しく引き下がって家へと向かった。……とは言え、高山家と赤鷲家はそれほど離れてはいないのだが。
「さぁさ、帰ろう、ナユミ! 今日の晩御飯はなんだろね?」
「カレーライスだよ。朝、お母さんがいってた」
「ほほぅ、そいつぁイイ! ようぅし、お家まで競争だぞっ☆」
「あ、お兄ちゃんまってよー!」
日の沈みゆく時頃。背の違う影が二つ、道路に伸びている。少し走れば、確かに香って来る、カレーの匂い。
住宅の玄関に響いた二つの「ただいま」。食器を並べる音がリビングから聞こえてくる。
ドタドタとした足音。リビングに顔を出した少女と少年。
少女は改めて言った。
「ねぇねぇ、お母さん、帰ったよー」
台所に立つ一人の女性。長い黒髪の背中。彼女が少女の声に反応して振り返る。
穏やかな表情。髪の色は異なるが、そこには娘と同じ愛らしさとおっとりとした柔らかい雰囲気を湛えている。
『――お帰りなさい、二人とも。手は洗ったの? もうすぐご飯にしますよ』
<SCENE-3:その時>
高山ユウキの母親は、少し変わっている。
料理が上手で、子供たちは毎日の食事を楽しみにするように育った。掃除や洗濯も手際よく、時折鼻歌を交えながら優雅にこなす。
昔は黒いフードですっぽりと頭部を覆っている代わり映えの無いファッションだった。しかし、今はそれなりに服装を楽しんでいるようで、贅沢ではなく、少なくともPTAの会合に出て「まぁ、奥様今日もお綺麗です事ッ!」と言われるくらいには見栄えが良い。
そう言った、外での反応は上々な彼女だが……家庭内では不審な点も多い。
必要が無い限り積極的に外出することは少なく、よく自室に籠っており、独り言がブツブツと、居室から零れていることもある。
そもそも彼女らはナユミが産まれた直後に他国から引っ越してきたらしいが、具体的に何処かは解らない。別れたらしい夫の正体も不明。
世間知らずな様子で、ご近所との会話でも今一噛み合わない。天然の抜けたところもあるのだが、それ以前に「知っていて当然のことを知らない」風なのである。異国の人だから……とも思えるが、会話自体に問題はなく、時たまさも当然のように「ありえないことを事実であるかのように」話す。
異国の人とは思いにくいが、同じ国の人間とも思い難い。何か、「別の世界」の人間なのでは? そんなことをふと、思い抱かせる謎めいた女性……。
変わった人である。しかし、ユウキとナユにとっては、何よりも信頼できる母親だ。
だからこそ、ユウキは“突然の彼女の言葉”に対して勇気を示せた。
信じ続けてきた彼女の言葉があったからこそ、彼は折れずにいれた。
――――――――――――――――――――――――――――――――
その男は弱々しく、子犬のような性分ながら、大した志を内包している―――
特別、優れた取り柄が考え付かない。
深く洞察せずとも、一言挨拶を交わすだけで欠点を並べ立てられるだろう。
また、長く関わるほどに、不満を募らせる人に違いない。
――――――――――――――――――――――――――――――――
・・・その日の夕食はカレーだった。何事が起きたわけでもない、ごくごくいつも通りの、平穏な一日が終わろうとしていた。ちょっと普段よりも考え込んだ場面もあったが、それくらいだ。ああ、そう言えば漫画を奪われたこともあったか。
高山ユウキの……この【俺】にとっての誤算は、珍しく母さんに“居室へと呼ばれた”ことである。
家の母親は自分の部屋を見せたがらない。これは俺が小さな頃からの事で、一度だけいたずらに入った記憶があるものの、どこから察したかあっという間に駆けつけられてつまみ出されてしまった。
母が自室を見せたがらないのは、そりゃ家族と言えどもプライベートがある。当然、といったものだろう。俺だって勝手に入られたら嫌だが……母さんはしょっちゅう勝手に入って掃除している。理不尽だ。
一度のイタズラ以来、彼女の部屋には鍵が掛かったようで、どうにも開けられなかった。というか開けようとしただけで凄い怒ってくる。
そんなにマズイものかな。別に普通にしていれば俺だってそんな気にしないが、こうも躍起になられると、「むしろ見てみたい」という感じになる。封印されている扉の先には、何らかの進展を呼び込むギミックが隠されているものだ。伝説の武器とか、ワープゾーンとか。
ただ、一度きりのイタズラで見た母の部屋は、特段変わっているようには思えなかった。本がいっぱいあったので「母さんは頭良さそう」と思ったが、それくらい。後は、机の横にあるやたらと大きな鏡くらい。きっと、化粧に使うんでしょう。
そんな俺にとっての「レベルが足りずに開けられない」類の扉が、今日、突拍子もなく、主自らの手によって開かれたのである。
――思えば、母さんは夕食の時から変だった。いつもなら一発で気が付くナユミの「ただいま」に気が付かなかった。掃除機をかけていても気が付く程敏感にしているのに。
食事中も俺とナユミを交互に見て、何か涙ぐんでいたようにも思える。ああ、いや、これは稀にあることなのだが、今日はどうもしみじみとして……特に俺へと視線をやる時間が多いのが困った。さすがに照れるだろう。
そんな夕食の後。後片付けも半端にして、母は俺を呼んだ。ソワソワしていて、コップも2つくらい割っている有様だったので、むしろこちらから声を掛けようとしていたくらいだが。
母は「本当は、こんな急になるはずじゃなかったんだけど……」と呟きながら、すんなりと部屋の扉を開いた。鍵を使っている様子もないのだが――俺がやっても全然開かないんだけど、それ、どうやってんの?
戸惑いながら彼女の後に続く。中は、幼い頃に見た光景と大差ない。やはり俺の記憶力は優れている。本が一杯あって、後は――そう、机の横に大きな鏡。いや、改めて見るとちょい大きすぎるな。姿見というには幅に余裕がありすぎるだろう。スレンダーな母親にこれが必要なのか?
「コホン……えー、それではですね……いいですか、ユウキさん?」
母親は扉を閉めると、一つ咳払いをしてから話しを始めた。何か、一言一言の間に若干のタメがあってちょっと怖い。いっつもこんなんじゃないのに。やはり、何か変だ。
「……ユウキさん、これからあなたには、“ここではない世界”へと向かっていただきます。平たく言って異世界です」
「・・・・・」
―――ほほぅ、なるほどなるほど。変だなぁという感覚は間違っていなかった。何言ってんだ、この人?
「母さん、もっと自愛なさいな。言われりゃ掃除くらいするってばよ、俺もナユミも」
「いいえ、ユウキさん。母は正常です。疲れている訳ではありませんよ?」
疲れていない……そうか。ならば、一層心配になるのだが。いきなり『異世界』とかいう単語を吐く母親を見たら、どんな息子だってまず健康を疑うって。
「まぁ、そうですね――本当は、そろそろコレについて醸し出しながら、徐々に貴方に予備知識を授けるハズでしたが……ちょっとこちらの世界の平穏に甘え過ぎちゃいましたね。急なことになってしまいましたが……あちらの世界では今現在、大きなうねりが生じています。ここに乗じるのが得策なのです」
「あのなぁ、母さん。俺は確かに選ばれし者かも知れないがな、だからってこんな一般家屋の一室でそんなこと言われても、ピンときやせんよ……」
別段、特殊な感じもない部屋の中で、そんなことを言われましてもね。ハッキリと起きている自信があるし……これが夢だといいのだが。
「妹に――ナユミに危機が迫っています」
「――――ゑ?」
「正確には、ナユミに危機が迫る時が迫っています。今からで間に合うのか……しかし、もう、行かねばなりません」
彼女の目は、真剣そのものだった。母はちょっとドジなところもあるが、嘘を吐くような人ではない。冗談もそんなに言わない。少なくとも、意図的には。
「ちょっと、母さん、どういうこと!? 昔っから言ってた、ナユミの危機にって……それって、ほら、もっとこう悪い男を排除するとか詐欺に合わないようにするとか……」
「ナユミの危機――それは彼女の生命、存在そのものの成否に関わります。これもここで深く説明している猶予もありませんが……というより、ごめんなさん。たぶん、ユウキさんでは理解できないわ」
「うぉい、なんて言い草!」
「本当にごめんなさい。でも、これはナユミの命だけではない……そう、“世界を護る”ことにもなるの。理解してもらうまで教育する時間はありません。お願い、解って」
「??? なんだってんだ……なんだって……しかし、何、“世界を護る”?」
「そうですよ、ユウキさん。あなたが待ち望んでいた時です」
「え、マジ? こんな感じで俺……勇者になっちゃうの??」
なんてことだ。いつか本気を出す時が来るとは思っていたが……ついに、本当に、俺はああやっぱり特別なんだなと嬉しく思えてきてしまった。母さんが言うのだから、間違いない。
「うん。そうなるように頑張ってください、“向こう”で……って、ああ。ほら、“来ちゃった”……」
母さんは言葉を途中で止めると、大きな鏡を指さした。
正直俺は「ついに俺の時代が来る!」と浮かれていたのだが、指さされた鏡を見て――なんとも、人間とは。「咄嗟の事に身体が硬直するものなのだな」、と実感した。
チリン、リン~♪
ベルの音が鳴り響く。鏡の向こうから鳴り響く。
それは初めて見る存在。いや、自転車――それもママチャリ自体はよく目にするけど。俺も乗っている。
ただ、その自転車のベルを鳴らしているのがイヤに姿勢の良い『猫』であり、大きさは成人男性のそれに匹敵する物であり、燕尾服が微妙に似合っていて腹が立つのである。
茶色の毛並みを靡かせて、ヤツはちゃくちゃくと鏡のこちら側へ……突っ込んでくる。
「え、ちょっ、待って……ここ家ン中だよ!?」
混乱するとどうでも良いことを気にしてしまう。混乱するポイントを間違えるのだ。
鏡の中からこちらに向かってくるその猫は、蛇行運転しながら何事も無いように鏡と現実の境界を越え、普通に人身事故一歩手前の案件として俺の前で急ブレーキをかけた。
「ホオオオオオオオッ!?!?」
甲高いブレーキの音。
上手く身体が動かず、俺は腰を半端に落として手を広げることしかできない。目を瞑ってどう考えても間に合ってない自転車のブレーキとその速度に怯えた。
『……ふぅ、ヤレヤレ。なんだ、この小僧で大丈夫なのか?』
「オオオオオオっ……オ???」
何の痛みも無い。少しだけ風が届いただけだ。俺は美容体操のように腰と膝に負担のかかる姿勢を維持したまま、チラリと目を開いた。
やはり『猫』だった。その猫はドリフトでブレーキを掛けたようで、横向きになって俺の目の前でじぃっと俺を見下ろしている。背が高けぇ……。
「親愛なる彼女の友よ。吾輩には時間が無い。こいつを連れて行って良いのだな?」
「ええ、お願いします」
「ふぅむ、しかし簡単にはこちらには戻れないこと、君もしかと心得てもらいたい。吾輩、こう見えて暇ではない」
「え、なに、え、連れてくって、あなたがボクを……ですか? 何処に??」
只管に怖いだけだ。こんな化け物みたいな猫が、俺を連れていくという。母は「お願いします」とか言っているし……こんなん勇者っぽくない。
「ユウキさん、その方は夢猫という、問答無用の移動術を持つ稀有な召喚精霊です。彼に連れられて、“あの世界”へ向かってください。そこでは、私の友人が力になってくれます」
「我が主だな。そうとも、彼女が君の力となろう。光栄だな」
「それに、とっても美人ですよ」
「・・・・・」
いやいや、それどころではない。なんとも現実的ではない単語がチラチラあったが、俺の脳内は現状を整理するのに精いっぱいだ。
要は、俺はかねてより母の言っていた「ナユミを護る時」を迎えて、どうやらそれは「異世界」に行かなければ成せないということ――らしい。
なるほど、やはり幼い頃に見た/感じたあの光景は幻ではなかったのか……ていうか、ん? 簡単には戻れないって何さ。
「……き、気軽に戻ってはこられないんすか?」
恐る恐る聞いてみた。
「くどいな、君は。吾輩は忙しいのだよ」
猫がちょっとムッとしている。怖い。
しかし、そうなると……いろいろ心残りがあったり、するのですが。
「今すぐに出発?」
「ムムムッ、そろそろいい加減にしてくれたまえ。本来、吾輩の多忙さは尋常ではないのだ。これは特別サービスなのだよ」
「あの、でも、ネコさん……できれば妹に一言言ってから行きたいな……と」
「吾輩っ、【夢猫デアル】と申す!! 断じてネコさんなどとカワイイ有様ではないっ!!」
「ああっ、ご、ごめんなさい……」
猫は凄い怒った。ほんと怖い。怖い、けど……これだけはどうしても、譲りたくなくて。
「デアルさん、私からもお願いします。1分だけ、息子に時間を下さい」
「ム、ふぅぬ……親愛なる人の友たる貴女の頼みならば……仕方がない。しかし本当に1分こっきりだ。あまりの無理には、彼女も持たないからな。じゃ、“スタート”」
そう言い終えるや否や、猫は懐から懐中時計を取り出し、その秒針をじぃっと見つめ始めた。
「え?」
「あ、ユウキさん、ほら、急いで! 1分よ、時間を有効に使っテ!」
「え……エエエっ!?!?」
俺は夢中に駆け出した。いつもがウソみたいにあっさり扉を開けて、妹の部屋を目指した。というか1分て短い。フォローは有り難いけど、そこは「5分ください」くらい言ってよ、母さん……。
幸い自宅内だ。妹の部屋まで5秒。しかし、膝を打ったので10秒かかった。
「あ痛てて……ちっくしょう、足いてぇ」
ケンケン状態で妹の部屋の扉を開く。ノックの時間も惜しい。
「んもう、お兄ちゃん! いきなり開かないでよ……足どうしたの?」
ナユミはゲームのコントローラーを握ったまま、俺の引きずっている右足を注視した。
「足はそこでぶつけた……ほら、あの掃除機入れ……」
「あ~、アレか。よくお兄ちゃん当たるよね、アレに」
アレと呼ばれる掃除機入れだが、それは階段を登り切った先にあり、丁度曲がる時に膝を……いや、そんな場合じゃない。
「そんなんどうでもいい!!」
「わっ、ビックリ」
「……ナユミ、お兄ちゃんな。こんな突然のことだけど……」
「お金無いんでしょ? いいよぉ、無理して“侍ブラザーズ”買ってくれなくても。私、今あるので十分だから」
「そうか。ああ、ごめんよ。兄ちゃん、お小遣い入ったら必ず買ってやるからな……」
侍ブラザーズとは、先月発売された新作のアクションゲームである。総勢30名の個性あふれる侍から操作キャラクターをチョイスして戦う、最大4人までプレイ可能なゲームで定価は……。
「いやいや、だから違うって!! どうして横道に逸れるんだ、妹よ!」
「わぁっ、またビックリ。どうしたの? やっぱりなんか変だよ、お兄ちゃん」
「あのな、ナユミ……落ち着いて聞いてくれ」
「うん」
「実は、お兄ちゃんは別世……いや、ちょっと旅に出ることになった」
「うん?」
「少し遠出になるから、戻るのがいつになるのか解らないけど……ナユミの為なんだ、解ってくれ」
「うんん???」
できる限り心配させないようにしたつもりだが。どうもナユミに上手く伝わっているのか。妹は物凄い困惑した顔で首を傾げている。
チリン、リン~♪
『1分こっきり。さぁ、出発だ、少年よ』
どこからともなく声がする。やっぱり一分は短すぎるって! しかし、一言でも多く言葉を交わして去りたい。
「必ず戻って来るからな。だから、どうか元気で――――ぶぇ!?」
そんな俺の思惑を軽々と、想像の遥か上を跳んで越えてくる――猫と自転車。
何事も無いかのように壁もベッドもすり抜けて、夢猫デアルとかいうヤツは蛇行運転の最中に俺の腕を掴んで持ち上げ、後ろの荷物乗せに投げ置いた。
妹ナユミは、この光景にポカンとして口を開いている。可愛い。
「あ痛てっ! 尻がっ……!!」
「ム、おお、アディオス、“金貨の娘”よ――良き未来になることを祈っているよ」
「し、尻骨が……ああっ、ナユミ!! お兄さんは、お兄さんは――!!!」
「ではでは、レッツ・ゴー! 行くぞ少年、吾輩に掴まりたまえ」
走り始める自転車。蛇行運転に、フワリと、車輪が宙に浮いて……。
俺達は閉じられた窓に一直線。ガラスに見事ぶつかって――いや、すり抜けて??
ただただ暗闇と突風。一本の光の道はあるが、なんとも現実的ではない、まるで宇宙でも駆けているかのような浮遊感。
細い光の道は、果てしなく続いているようで、それは猫の蛇行に合わせてクネクネしている。もしかしたら、猫がこれに合わせているのかもしれない。
――ああ、今俺は異世界へと向かっているのか。
僅か10分前の自分が信じられないだろう、この現状。
まさかこんなにも獣臭い背中に身を任せて、世界の壁を越えようとは……。
そうか。しかし、いつ戻れるのか……解らないか。
参ったな、そう言えば明日、黄金騎士の9巻を心待ちにしているヤツがいるってのに。
あいつなら全巻揃えるのは簡単だろうけど……せめて言い訳でもしてから去りたかったかな。
他にも、クラスの連中、元気でやれよ。寂しくないか?
悪いな、俺はいつも言っていただろう? 「その時が来れば、本気出す」って。
来ちゃったよ、その時。ごめんね、本当に選ばれし者でさ。
まぁ、どうやら妹のみならず世界の危機らしいし……。
ちょっと、俺の力で救っちゃうから。きっと、特別な何かを得て―――
――――――――――――――――――――――――――――――――
「COIN」はあらゆる物の代価になり、その保障は決定的には存在しない。
誰がその価値を決めるのか? 何をもって程度が定まるのか?
小さな約束にも保障を求める割には、存外と気にしないものである。本来なら「COIN」の1枚1枚に保障を得るべきではないか。
保障は、自らの手元にあって初めて効力を発揮するだろう。それが誰の手にあるかも知らないとは、なんて脆い仕組みであろうか……。
――――――――――――――――――――――――――――――――
チリン、リン~♪
「あばっ!?」
蔑ろに自転車から降ろされて、背中も痛む。なんてことだ。せっかくの門出に、膝と尻と背中が痛い。
不思議な空間を抜けた先は、それはもう……ごく普通。よくドラマとかにある「事務所」というところだろう。
特別な感じはしない。「すごい清潔にしてあるなぁ」と、【高山ユウキ】は感じた。物の少なさがそう思わせるのだろうか。正直、ユウキ少年の近所にこんな場所あっても不思議ではない。
少年には信じられなかった。既に自分が異世界に来たということが。特に体に変化もないし、強くなった気もしない。
夢猫のデアルは自転車を降りて一息吐いている。何処から出したかもわからない紅茶を嗜みながら。オフィスの床に倒れこんでいるユウキには一瞥もしない。紅茶に夢中なのだ。
冷たい床を舐めるユウキ少年だが。そんな彼に声を掛けてくれるのは――唯一人。そのオフィスにある、一人の女性。
「ようこそ、高山 ユウキくん。異世界の空気はどうかしら? 新鮮?」
ピカピカに磨かれた金属質な床に、映る女性の笑み。
「私は召喚師フューラー。ヒュウって呼んでくれて構わないわ。よろしくね!」
歩み寄り、手を差し伸べる女性。
やがて青年となる高山勇気の、決して勇者にはなれない物語。
それは、綺麗なお姉さんの下着チラリズムによって幕を開けた―――。
COINS-STORY AGE・ZERO
SECTION「その時」― end