90 それぞれの戦い
シン、と静まり返る。俺はただ、目の前の黒の瞳をじっと見つめた。呼吸さえ止まったような静寂。…パネルはまだ、上昇し続けている。
俺を押し倒し、俺の顔のすぐそばに包丁を突き立てた少年は…悲しみと怒り、孤独をその大きな目に映していた。俺も忘れたわけじゃない。…こいつを、シェンユゥを裏切るようにして魔王城から逃げたことを。
ゾイにも釘は刺されてた。伝え聞いた話だったけど、シェンユゥがとても寂しい思いをして過ごしてきたこと。なのに俺に心を開いてくれたシェンユゥは、仕方なかったとはいえ俺に裏切られたんだ。
もちろん俺は何も言えないし、できない。言葉を紡げないまま、まっすぐシェンユゥを見つめ返すしかできない。
…あのまま魔王城にいたら、ノイモントによる破滅を防ぐこともできなかったし…王都やいろんな国で出会った大切な人たちと二度と会えなくなるところだった。
俺にとっては…捨てられないものなんだ。きっと何度過去をやり直しても、あの状況なら俺はやっぱり魔王城を出て行ってた。
そんなことが、シェンユゥに伝わるはずないよな。短い間しか一緒に居なかったのに、シェンユゥは俺を慕ってくれた。俺がこんな状況じゃなくて、シェンユゥが魔族じゃなかったら…俺たち、何か変わってたのかな。
言い訳はできないし、俺はシェンユゥに怒りをぶつけられても仕方ない。殺されるのは困る、けど…。俺はもう一度シェンユゥを見上げる。いつも大きく開かれていた黒の目は、ギッと俺を鋭く睨んでいた。
「……ッ」
「…シェンユゥ、久しぶり。元気そうだな」
シェンユゥが俺の肩をグッとパネルの床に押し付ける。…体が曲がっちまいそうな痛さに思わず顔が歪む。それでも俺は、シェンユゥの前で穏やかな表情を変えたくなかった。
―――反撃なんて、俺にはできるはずもなかった。
ギギ、と体の骨が軋む。なんとか表情を作って、俺はまた笑ってみせた。
「…お前は、俺に怒っていいんだ。…そりゃ、そうだよな…勝手にいきなり、居なくなったんだから。…裏切られた、って…、思うよな」
「…」
シェンユゥが言葉を紡ぐことはない。けど、今まで会ってきた誰よりも豊かにその感情を目で表現する。悲しみと憤りに溢れる瞳から俺が目を背けるのは簡単だけど、それじゃもっとシェンユゥを傷つけてしまう。
俺はシェンユゥを傷つけたいんじゃない。できることなら、あの時みたいにのほほんとまた時間を過ごしたかった。…こんな再会は、きっと俺とシェンユゥの両方が予想していて、そして望んじゃいなかったものなんだ。
―――だから俺は、シェンユゥを受け止める。
キラ、と視界の端で鈍く光る何かがあった。シェンユゥが片手でどこからともなく取り出した新しいナイフを、小さく震えながらかざす。俺は場違いに、それがすごく綺麗に思えた。
ここで殺されちまっても文句は言えないよな。…元より、ゾイ以外の魔族は基本的に俺を殺すつもりでいたんだから、本当に今更だ。
…当然、文句は言えないってだけで俺が死にたいわけじゃない。だからちゃんと、今生きてる間に伝えなきゃいけないことは伝えねぇと。
俺は最後に、震える手でナイフを握り今にも俺の喉元にそれを突き立てようとするシェンユゥをそっと見上げた。さっきまで押さえつけられてた肩が痛み、馬乗りにされてる腹も圧迫されている。
それでもなんとか…。
俺は両手を伸ばし、シェンユゥの背に腕を回した。びく、とシェンユゥの体がはねる。…小さな体なのに背がごつごつしてるのは、服に武器をたくさん隠し込んでいるからなんだろう。
歩く武器庫だな、と思いながら俺はシェンユゥを抱きしめた。抵抗すると思っていたシェンユゥは、ぶるぶる震えたまま動かない。足掻きとでもいうように、そして脅すように、俺の首元にナイフをあてがうだけ。
せめて、行動で俺の気持ちが少しでも伝わればいい。そう思ったのに、俺の声も少し震えていた。
「シェンユゥ、ごめん。本当に、ごめん。けど…俺にはやらなきゃいけないことがあるんだ。…本当に、ごめんな。お前の期待に沿えなくてごめん」
「…………、…」
「俺にも他に大事な人たちがいる。一つを選ぶなんて、俺にはできない。…ずるくてごめん、いきなり居なくなって…何も言わなくてごめんな」
「……!」
びく、とまたシェンユゥが震えた。カタン、と俺の顔のすぐそばにナイフが力なく落ちる。次の瞬間、俺はシェンユゥにぎゅっと抱きつかれていた。……そうか。シェンユゥが俺に本当に怒っていた理由は…。
それが分かると俺はもうたまらなくなった。魔族とか、本当はちょっと怖かったとか、気まずかったとか、そんなのが全部吹き飛んだ。…ありがとう、シェンユゥ。やっぱり…お前は優しくていい奴だよ。
しばらくぎゅっとされた後、今度は解放されて胸のあたりをポコポコ叩かれた。い、痛いです…。泣きそうになってるシェンユゥを見て、俺は冗談っぽく笑ってみせた。
「ありがとな、シェンユゥ。お前は…俺が何の相談もせずに居なくなったことを怒ってたんだよな。けど、もし俺がお前に相談してたらどうしてたんだよ?結局逃がさないつもりだったんだろ?」
あはは、と笑う俺にシェンユゥは頬を膨らませた。いつもより表情が凄く豊かだ。目だけで全部を表現してたシェンユゥがまるで別人みたいだ…。シェンユゥは俺の手をぎゅっと握ってぶんぶんと振る。
もどかしそうに音の出ない口をぱくぱくさせて、また頬をぷくっと膨らませる。うわ、可愛い…。不覚にもまた笑った俺に、シェンユゥがまた殴りかかってくる。
『ちがう。いっしょについていってた』
シェンユゥはそう言いたかったんじゃないか、なんて思うのは都合がよすぎるか?覗き込んだ大きな黒の目は、もう怒ってないみたいで俺も安心する。…ほ、本気で殺されるかと思った…。
最後にまたシェンユゥが俺にぎゅーっとした後、頬をつねってくる。痛いってば!夢じゃないから!あと俺じゃなくて自分の頬をつねってくれ!ようやく落ち着いてくれたシェンユゥが俺の腹の上からどいてくれた…その時だった。
―――カシュン……
パネルの上昇が、止まった。俺とシェンユゥは同時に、パネルが停止した先にある部屋への道を見つめる。…いや、もうすぐそこが部屋だった。溢れるような光がその部屋からこぼれ出していた。…ま、眩しい…!
ゆっくりと俺たちは立ち上がって、呆然と部屋を見つめる。…なんだろう、何か計り知れない不思議な気配を感じる。シェンユゥも同じことを考えたのか、そっと俺の服を引っ張った。
「…行ってみるか」
小さな頷きと共に歩き出す。光の部屋…ここがもしかして、聖剣のコアがある部屋なのか?カタン、カタンと二人分の足音が響く。眩しい光の零れる、その部屋へ。
ふらふらと導かれるように辿り着いた部屋では、大きな水晶の塊が壁と一体化するように埋まっていた。丸く美しい水晶は、キラキラといろんな色の光を放ちながら輝いている。その荘厳さに、思わず俺は言葉を失った。…なんだ、これ…。
隣を見る余裕はなかったけど、シェンユゥも微動だにしないようだった。二人並んで、唖然としたまま光を放つ水晶を見つめる。…これが、…聖剣のコアなのか…?
他には何もない部屋を一度見まわしてから、俺はそっと水晶に歩み寄る。水晶には文字が刻まれていた。…えっと…。
「…聖剣の継承者は、星よりも強く陽の光よりも眩しい意志を持ち…、神に託された力を持つ代償は…その魂を剣に捧げること…、我が名はルキス・クランツ………?」
王都で見慣れた共通語の文字。小難しい形式的な言葉の後に、よく知った名前が彫られている。まさか、と思った時、水晶の方から突然声が聞こえた。
『あぁ。よくここまで来てくれたな、トルメルの少年…そして魔族、シェンジンの民か?』
「えっ、何!?」「……!」
ジャキ、とシェンユゥが服の袖からナイフを取り出して両手に構える。さりげなく俺を庇うように立つシェンユゥ…ほんとできる子…って感動してる場合じゃない!こ、この展開は…!
瞬間、ぴかーんと水晶が輝く!激しいフラッシュの後、恐る恐る目を開くと……うお!?水晶の前に、ところどころノイズが入ったようにぶれた『姿』が…!映像魔法で映してるようなその『姿』は、一人の青年だった。
黒の髪と優しげな表情。質素なローブに身を包んでるけど、威風堂々とした様はとてもただの青年には思えない。…もう俺でも分かる。この人は…。
ピリピリしてるシェンユゥの肩に手を置いてなだめながら、俺は恐る恐る目の前の青年に震える声で問いかけた。……そう、多分、…この人は…!
「勇者、ルキス…?」
青年が、少し恥ずかしそうに頬をかいて笑った。
『勇者なんてたいそうな者じゃない。だがきっと、君の想像通りのルキスだ』
*
ルキスの物語はさまざまな形で語り継がれている。俺が知っている幾つかの絵本でも、彼の姿は微妙に違っていた。勇ましい印象だったり、ヘタレな姿で書かれているときもあった。
けど実際にこうして見てみると、ルキスはとても落ち着いていて穏やかな人に見えた。目の前のルキスの姿はときどきぶれたり消えかけたりしながら、それでも俺たちに優しく微笑んでいる。
ジギスさんは金髪だけど、初代王のルキスはニコラと同じ綺麗な黒髪だ。まじまじと見つめる俺とは反対に、ルキスがそっと目を閉じた。
『この世界の現状、そして行く末…全ては察している。もうすぐ大きな災いが訪れ、この世界は呑み込まれるだろう。それに対抗できうるのがこの聖剣だったが…もうほとんど力を使い果たしてしまった』
ゆるゆるとルキスが首を振るのを、俺はしばらく黙って見つめていた。シェンユゥに服をくいくいと引っ張られ、ようやく正気に戻って真意を訊ねる。
「それって…じゃあ、もうノイモントは…。…って、なんで大昔の勇者であるルキスが今、この世界に…?」
『ノイモントは間もなく現れるだろうな…残りの聖剣の力を使っても、少しの間しか凌げないだろう。俺が意識だけこの世界にまだ存在しているのは、聖剣の継承者となったからだ。
神の力を持つ聖剣は、魔力や君の持つトルメルの力よりも強大だ。しかしその力を得る代わりに、次の継承者が現れるまで使用者の魂は聖剣に閉じ込められてしまう。
聖剣が完全に破壊されない限り、俺の魂はここに居続ける。…といっても、俺も最近までは眠っていたんだが』
くぁ、とルキスが背伸びをする。落ち着きすぎだろ、この状況を知っておいて…。俺もシェンユゥも困ったように顔を見合わせた。シェンユゥはノイモントのことは知らないのか、事情もよくつかめてない様子だ。
だったら俺がこの場で、なんとか道を見つけ出すしかないよな。んーと、ルキスは聖剣の正式な持ち主となる代わりに、次の継承者が現れるまで聖剣に魂を縛られてる…と。
つまりルキスと聖剣はまさに一体なわけだな。そのルキスが、もうノイモントに対抗できそうにないなんて言ってるわけで。…ど、どうしよう…。
「あのさ…俺じゃダメかな?俺が聖剣の継承者となって、ルキスの代わりに…ノイモントを退ける、とか」
『残念だが、できない。聖剣は人間しか継承できないんだ。それも、強い意志を貫ける強い人間でないといけない。…何百年も何千年も、剣に閉じ込められてしまうかもしれないからな。
君はトルメルだ。そして隣のシェンジンの民の彼も、種族としては魔族の一部に置かれる以上、聖剣と契約は結べない』
…おぉ…。聖剣の継承者、とか響きがかっこいいと思ったのに…ってそんな気持ちで継承するなんてダメだよな。下手すりゃ、恐ろしく永い間を孤独に縛られなきゃいけなくなるんだ。…俺のメンタルじゃ、きっと途中で壊れちまう。
つかシェンユゥってそんな民族なのか。聞きたいけどシェンユゥも険しい顔で首を傾げてるからやめとこ。
けど、俺の考えの一部はいい線いってたらしい。ルキスは口元に手を当てて考え込む様子を見せる。
『…確かに、新しい継承者ができれば…仮契約でもいい、新しい継承者が現れたなら多少の力を聖剣に補充できるはずだ。俺の魂はもう古くてぼろぼろだからな…。
それでも恐ろしい規模の災いをすべて消し去るなど、考えられない。…残念だが、世界は…』
…。…まぁ、予想通りだ。
ルキスの表情は暗い。…でも俺には秘策がある。最後の最後になるまではあまりやりたくないことだったし、聖剣確保が優先だと思ってたからあまり考えないようにしてた。
それに俺やルキス以外は、これから起こる災いをまだ知らない。シルやニコラも。ゾイは知ってるくせに気軽に考えすぎだからあてにならない。…俺がやるしかないんだ。
そのためにも、まずは何から始めるべきか。…そりゃ聖剣の確保だよな。俺は首を振ってから、しっかり顔を上げてルキスを見つめた。
「世界のことは後回しだ。まず、聖剣を王国に持って帰りたい。この塔化はどうすれば元に戻せるんだ?」
『…実はそれも、次の継承者に関わることなんだ。塔化とは、残りの力が僅かになった聖剣の最後の防衛システムだと思ってくれればいい。後は力が失われるまで、ここにただ立っているだけ…。
だが新しい継承をすれば、再び聖剣に力が補充されて塔化は解除される。…剣の形に戻すには、それしか方法がない』
ルキスの苦い表情は諦めの色を含んでいる。そうだよなぁ…いきなりこの状況で継承者を探す、なんて不可能だ。誰かに継承してくれと頼めるものじゃないし…あまりに代償が大きい。
どうしようも、ないのか。ここまで来て、聖剣を持って帰ることも叶わず…。そして聖剣の力も残りわずか。このままだと力を失い次第、ルキスの魂は消滅して聖剣も失われる。
どうすりゃいい?本当にそれだけしか道はないのか?あぁ、俺が別の誰かならいい案を思いつくかもしれないのに!ギリ、と痛いほど歯を食いしばった時、カツン、と足音が聞こえた。…何だ?
見ると、ルキスがあの大きな水晶に歩み寄り、表面に触れていた。さまざまな色に輝く水晶は、ルキスが触れた瞬間またほわほわと光をあふれさせる。
『このままじゃ俺も何もできず消えていくだけだ。塔化した聖剣はもう何もできない。なら…俺の魂を最後まで使ってくれ。
今からこの水晶…聖剣のコアを圧縮して宝玉化させる。俺の魂を物質化するから、君が持っていてくれ。ノイモントが迫っても俺がここにいたままじゃ何もできないからな。
せめて俺の魂だけでも宝玉化させておけば、何かの力の足しになるかもしれない』
「へっ!?でも、そんなことが…」
水晶がギラッと輝く。次第に点滅の間隔が短くなって…ルキスの姿が薄れていく!俺が言いきる前に激しい光が部屋に溢れ、収まる頃にはあの大きな結晶は消えて床に小石のような宝玉が転がっていた。
激しい光に驚いたシェンユゥがふらふらしてるのを支えながら、俺はそっと宝玉を拾い上げた。…温かい。それに、ルキスの気配がする。掌に収まる小さな宝玉が、今の希望…なんだろうか。
…このことをシルやニコラに伝えなきゃ。それにここにシェンユゥがいるってことは、きっとゾイ達が下の階にいる…。…戦ってるなら止めさせないと!あいつらのことだから絶対にファイティングしてそう…!
「シェンユゥ、急いで悪いけどすぐに戻るぞ!…って、大丈夫か…?」
「…………」
「…分かった!手!ふらふらするなら手つなぐから!」
視覚に優れてる魔族ってのも大変だな…。まだふらついてるシェンユゥの手を慌てて握り、俺はまたパネルの方へ向かう。俺たちが乗り込むと、パネルはすぐに下降しはじめる。…スローペース!じれったい!
速く下りてくれ…と願わずにはいられない。片手の少しひんやりしたシェンユゥの手、そしてもう片手の温かな宝玉を俺は思わず強く握った。
**
「…どうして攻撃してこない…?」
睨み合いが続いてどれほどになるだろう。シルヴェスタは、目の前でただじっとこちらの様子をうかがっている不気味な黒い頭巾の青年を見つめ返した。シルヴェスタの問いに、うーん、と間の抜けた声が返される。
「無駄に体力消費したくないし…。…おっと」
ヒュン、とシルヴェスタの杖が振り下ろされるのを青年がふらりと避ける。次の追撃も、読まれているようにかわされてシルヴェスタは思わず眉間にしわを寄せた。
なんでこんなにのんびりしてるのに、攻撃を避けられるんだろう。本当に時間稼ぎをされている。さっきからずっとこの調子で、ときどき欠伸交じりに動く青年にいらだちを感じ始めた。
「…あなたたちの目的は何なんですか」
「ん?んーと、…聖剣を壊すことと、スティ少年を連れ戻すこと?」
「…聖剣は破壊させませんし、ステイトを渡す気もありません。…僕たちの邪魔を…するなッ!!」
その赤い目が輝き、瞳と同じ赤の髪がなびく。シルヴェスタの渾身の一振りが、黒い頭巾の青年にまっすぐ伸びる。お、と小さく声を上げて青年が再びよけようとした…その時だった。
―――ガキィンッ!
シルヴェスタの杖に何かが強く当たった。その衝撃に思わず手を離すと、自分の杖と同時に刃こぼれした包丁が地面に落ちる。気付くと、青年と自分の間に武器を構えた小柄な魔族の少年がいた。
その大きな黒の目はただシルヴェスタを映している。感情の見えないそれにシルヴェスタは少し動揺した。
―――さっき、壁を登って行った…!
援護に戻って来たのか、とシルヴェスタが顔をしかめた時。場違いに大きな声が、遠い頭上から響いた。
「両者攻撃やめーーーッ!ストーップ!!それから俺のする話を聞けーーーッ!」
「す、ステイト!?」
降りてくるパネル。そこから身を乗り出して叫んでいたのは、よく見慣れた茶髪の少年だった。
**
魔王の剣の腕前は決して付け焼刃などではないとニコラも理解している。当然、自分も血の滲むような鍛錬と努力を重ねてきたのだ。騎士団の中でも誇れる強さであったはずだ。
しかし、手強い。一見めちゃくちゃなようにも見える魔王の剣の軌跡は確かにニコラを追い詰めていった。
今も現前に迫る氷刃の切っ先をすんでのところでかわす。鎧に刻まれた傷は数知れず、深い傷にはなっていないものの既に何度か肌を裂かれている。
―――剣技だけで腹いっぱいだ。
ニコラは顔をしかめながら防御と回避を繰り返す。防戦一方のニコラとは違い、魔王ゾイロスは生き生きとした表情で鮮やかな剣さばきを披露していた。
「ニコラさんよぉ、さっきから逃げてばっかりじゃねぇか!俺様を退屈させんじゃねぇよ」
「ぬかせ。俺の目的はてめぇの足止めだ。時間を稼げばそれでいい」
「…あぁ、そうかい。だが…それじゃつまらねぇな。アンタは所詮その程度っつーわけだな」
ニィ、と牙のような歯を見せて魔王が笑う。カチンとしないわけがないが、ここで挑発に乗れば無駄に体力を消費するだけだ。もとより勝ち目のない相手に真っ向勝負を仕掛けるのは得策ではない。
しかし、魔王の言うとおりだ。足止めをすれば十分だと考える自分の中に、実力を試したいと燻る別の自分がいることをニコラは必死に押さえつけていた。…つまらないのはこっちもだ。
ジリジリと内面が焦げるような感覚。それを抑えなければいけないのには、もう一つ理由がある。
少しずつ余裕がなくなってくるニコラを見て、魔王は追撃を見舞う。
「まともに勝負しないのは負けるのが怖いからだろ?アンタが負けりゃ、大事な弟分は俺様のモンだ。アイツが泣こうが喚こうが、もうこっちも逃がすつもりはねぇよ。
とっ捕まえたら数百年間は氷の棺に閉じ込めてやるつもりだ。…ニコラさん、そんなにトルメルさんを守りたいってわけか?」
「…うるせぇ、魔王。俺はあの馬鹿を必ず守ると約束した。俺はアイツのやりたいようにさせるだけだ。それを邪魔するなら…相手が魔王と言えど、俺が許さない」
「……立派なこった」
繰り出される追撃を叩き伏せ、ニコラはその勢いのまま魔王の比較的細い剣を思い切り叩き折った。氷と金属がバラバラと砕け、魔王はヒュウと口笛を吹く。
「さすがだな。…と、そろそろ遊びも終わりにするか。アンタほどの実力者を殺しちまうのは惜しいが…、仕方ねぇ。
聖剣に封じられた先代の魔王の力を解放しない限り、俺はいつまでも先代の意志と記憶に影響されちまう。…聖剣の破壊は、俺様にとっても魔族にとっても必要なことだ。
分かってくれとは言わねぇが、不運だったと諦めてくれ」
魔王は折られた剣を投げ捨て、静かに言う。そして、その手の周りに光の帯のような『術式』が現れ始めた。ニコラは目を細め、その『術式』の姿に笑いそうになった。
普通、魔法は円形の魔法陣として現れる。それが術式の一般的な姿だが、術式の規模…つまり、魔法の規模が大きいほど魔法陣は大きくなっていく。それが世間一般の魔法の常識である。
しかし、魔王の片手から編み出されるように伸びていく光の帯状の『術式』…それは、魔法の『姿』が円形では間に合わないほどの規模と力を秘めた魔法の発動を意味する。
ニコラも古文書でしかその魔法の存在は知らなかった。かつて、人と魔族、竜が共存していた時代の資料だったがまさか現実に扱う者がいるとは、と思わず感心する。
ただ、魔王が今準備している術式は、ニコラを葬るための魔法だ。普通の攻撃どころではないだろう。恐らく、体の一部分も残らなければ魂さえも残らないような…人間では考えもつかない規模であるはずだ。
随分準備がいいことだ、と笑わざるを得なかった。もう逃げ場はなく、助かる術もない。死を前にしても、不思議とニコラは落ち着いていた。
――俺の役割は、ここまでだったということか。
少しずつ魔王の手にある光の帯が伸びていく。漂う『術式』がニコラに牙をむくまで、あとどれほど時間が残されているのだろうか。
今、魔王に襲い掛かっても、これほどまで具現化しつつある『術式』なら魔王が仮に戦闘不能になったとしても勝手に発動するだろう。だが、どっちみち助からないというのなら…。
ニコラは最後に魔剣を構えた。先ほどまでの戦闘で、攻撃を防ぐために魔力を消費していたため魔剣から吐き出される黒紫の靄はいつもより薄い。
―――それでも、この魂が消えるまで足掻こう。
余裕の表情で待ち構える魔王を睨む。術式はなお成長していく。ニコラが地を蹴り、魔剣にはめられた宝玉が強く輝いた。彼の思考が最後に辿り着き、思うことは一つ。
あの、屈託なく笑う少年の未来のことだった。
**




