番外編3 港町の少年剣士
*ゼツイとティグレの出会いについての過去話です。
武闘大会が終わった日の夜の思い出語り。
ナギリ一家は東方の小さな島国に暮らす剣闘士の民だった。両親がさらなる強き相手を求めて武闘都市と名高い南国コットリアへ訪れたことも、ゼツイは幼いころに聞いていた。
父母共に剣聖として島を騒がせたナギリの一家に生まれたゼツイが、剣の道をその幼いころから叩きこまれていたのは考えるまでもない。
10になる頃には既にロロターナの街の闘技場に出場し、15になったその日もゼツイは天才少年剣士として町を賑わせていた。
**
ゼツイ・ナギリは冷静ながら、内面には負けず嫌いで情熱的な精神を抱え込む普通の少年だ。好きなことは、母の作る魚の煮込み料理をお腹いっぱい食べることと剣の稽古。嫌いなことは剣で負けることだった。
まだ闘技場に参加し始めた5年前はしょっちゅう負けて悔し涙を流したが、もうそのときの自分ではないとゼツイ自身感じている。15歳になった今、町の同じ年頃の子供の中では、剣で自分の右に出る者はいないと誇りに思っている。
もちろんそこには血の滲むような稽古と努力があり、決して自分が親譲りの才能を持ち合わせていたわけでなくひたすら能力を叩き上げただけだとも理解している。
だからこそ、ゼツイは頑張る人の姿が大好きだった。今も目の前で、何度ゼツイに負けてもまた立ち上がって貧相な木の槍を構えなおす友人を満足げに見ている。
目の前の同じ年頃の少年は、浅黒い肌に汗を浮かべ、短く刈り上げている金髪をガシガシ掻きながらハァーッと大きく息をつく。
「あぁー、ダメだァ!もうちょっとなのによぉ、あとちょっとでいけたと思うんだわ!何だよぉ、今日も容赦ねェな、ゼツイ!」
「違うって。ラグリマがますます強くなってるから焦ってんだ」
「ぐっ…、上から目線だなァ!さすがロロターナで一番強い少年剣士様だぜ。けど俺は…諦めの悪さはロロターナで一番だァッ!」
「甘い」
―――ガキンッ!
少年の棒きれ同然の木槍がゼツイの木刀に弾き飛ばされ、ぽっきりと折れてクルクルと宙を数回舞ってカラリと地に転がる。あァー!と上がる少年の叫び声に、あははとゼツイは笑ってみせる。
「ラグリマは正直すぎるんだろうな。次の行動がすぐ読めちまうんだ」
「行動が読めるったって…うーん。難しいなァ…、やっぱすげェよゼツイ!けど俺ァ、絶対勝ってみせっからなァ!」
ラグリマ・フーゴというこの友人は太陽のように眩しくニカッと笑う。数年前に知り合った彼はロロターナの漁師の息子だが、同じ年頃のゼツイが闘技場で戦う姿を見て自分もまた武の道を歩んでみたいと言い出したのだ。
以来、ラグリマは両親の漁を手伝う時間に暇ができるとゼツイの元を訪れ、町の小さな広場の端で訓練を始めるようになった。漁師故に銛などの長物の扱いを得意としていたので、剣ばかりを見てきたゼツイには新鮮だった。
何度倒れようと、何度敗北しようともラグリマは諦めることを知らない。時々闘技場で負けて落ち込んだ時も、ゼツイはそんなラグリマを見ているとまた稽古に励めるのだ。
さァどうすっかな、とラグリマが折れた木槍を拾い上げて肩をすくめるのを見て笑っていると、ふと広場の別の場所でこちらを誰かが見ていることにゼツイは気付いた。父母の厳しい剣の稽古のおかげで気配には敏感だったのである。
ちら、とそっちを見ると、広場の中央の噴水に隠れるようにこちらを遠慮がちに見ている子供がいるのに気付く。長く淡い金の髪はまっすぐで、白の上等な服を着ている…恐らく、幾つか自分より年下だろう少女。
あまりに淡く儚く綺麗な姿に思わずゼツイは言葉を失った。剣技ばかりを磨いてきたが、剣の戦い以外で心臓が跳ねたのはこの時が初めてだった。
ぽかん、と黙り込むゼツイにラグリマがそっと歩み寄ってユサユサと肩をゆする。漸く現実に戻ってきたゼツイはすぐに困ったような笑いを友人に向けた。
「あ、いや!悪い悪い、ちょっと…綺麗な子が見えて」
「お?美人?可愛い子?…あれ、もしかしてこっちに歩いてきてる子かァ?」
「えっ?」
ラグリマが自分の背後を指さす。慌てて振り返ると、しゃんとした雰囲気だがどこか恥ずかしそうで遠慮がちな少女がゆっくりと歩いてきているのが見えた。おぉーとラグリマが小さく声を上げる横で、ゼツイは何か落ち着かない気持ちになる。
何だろう、こっちに用でもあるのか?いや、でもあんな子見たことがないぞ?…腕、細いな。剣なんか持てそうにもない…。
探るようにじろじろと女の子を見てしまったことにゼツイが心の中で恥じていると、その少女は長い金の髪を揺らしてゼツイとラグリマの傍で立ち止まった。じ、と見上げる視線は期待と憧れに満ちていて、また落ち着かない気持ちになる。
あの、と少女の声が聞こえた。自分よりも低い目線が、ちら、ちら、と自分と友人の間を行ったり来たりするのを眺めながら、どうしたんだ?とゼツイは声をかける。ラグリマも隣で人の好い笑みを浮かべていた。
少女がぱっと顔を上げる。ふわっと潮風になびいた金の髪がしなやかに視界に映った。
「私に!け、剣を教えてくださいっ!」
「剣?…だけど、君、…戦えるのか?」
「戦えませんけど、私、笛しか吹けないんですけど…、あの、闘技場であなたが戦うのを見て私も剣を学びたくなって!ふぁ、ファンなんです!」
あまりに必死に言う少女にぽかんとした後、思わずゼツイは吹き出した。闘技場で勝ち続けていると確かに観客に話しかけられる機会は増えたが、こんな風に言われるのは初めてだ。ラグリマも似たようなものだったが、それとこれは違う。
ラグリマは知り合ってから闘技場に誘ったのだし、初対面でこんなことを言われるのは実質初めてだった。少女は驚いたように顔色を変えたが、すぐにゼツイは笑って頷いた。
「俺でよければ教えるよ。俺はゼツイ・ナギリ。君は?」
おぉーっと冷やかすように隣で歓声を上げるラグリマに蹴りを入れながらゼツイは少女に聞いた。少女はぱぁ、と表情を明るくして元気よく答える。
「…リラです!よろしくお願いします、ゼツイせんぱい!」
思えばこれが、ゼツイのその後の運命を大きく変えてしまう出会いだったのだ。だが、そのときのゼツイはただ、か弱い後輩ができてしまったと小さな胸の高鳴りがあるだけだった。
**
「…はぁ、…はぁっ!…せんぱい、強い…」
剣を地面に突き立て、肩で息をする細い少女。戦う間はその長い髪をくくれ、とゼツイが指示してもリラは譲らなかった。邪魔そうな長く美しい金の髪が、リラが動くたびにさらさらと揺れて舞う。
リラに剣術の指南を頼まれたあの日から一週間が過ぎたが、まだ少女は本物の剣を上手く扱えないでいる。木刀ですらやっと、という頼りない姿にゼツイは優しく笑った。
決してリラは成長の遅い子ではなかった。きっと自分よりも呑み込みは早いだろうし、努力している。本当に頑張っている。本物の剣なんて振り回せないだろうと思っていたら、なんとかかんとか剣を構えてみせる。
リラの努力家加減はラグリマといい勝負で、漁師の親を手伝うためにときどきしか会わないラグリマと違って毎日飽きもせずゼツイを訪ねるリラはめきめきと成長していた。
「今日はもう休憩だ。リラ、座って休んでくれ」
「…はい…。…。…私、絶対にせんぱいより強くなりますね」
「あぁ、なってくれ是非。でも俺も負けないからな」
にこ、と笑いながら広場に出ている屋台で南国果実のジュースを買う。リラに差し出すと、当初は奢ってもらうことに抵抗があった様子のリラも最近は遠慮せずに頭を下げてすぐに受け取るようになった。
ぷはー、と勢いよくジュースを飲みほしたリラは、隣の日陰で涼むゼツイを見た。ゼツイもその視線に気づき目を合わせると、リラは白い服のポケットを探って小さな笛を出す。
「せんぱい、聴いてください!今日はあのクースダハトの名曲、『遠い海の美しい島』を演奏します!」
「リラ、ゆっくり休んでいいんだぞ?毎日笛を聞かせてくれるのは嬉しいけど、」
「いいんです!笛ならせんぱいに勝てますから!」
最近は生意気になっちゃって、とゼツイが黙ったまま笑うと、すぐにリラが目を閉じて小さな笛を吹く。そこから流れ出した澄んだ笛の音は自分の知らない物悲しい旋律を奏でる。
演奏中のリラは絶対に目を開かない、それはこの数日間でゼツイの気付いたことだ。きっと瞼の裏で、音の奏でる世界が色鮮やかにリラには見えているのだろう。
ゼツイは剣が好きだ。何よりも剣技が好きだが、最近それに並ぶほど好きな別のものができた。それは、リラの奏でる笛の音だった。リラが一生懸命に剣を振るう姿も好きだが、何よりゼツイはリラの笛を吹く姿が好きだった。
**
リラは日に日に強くなっていった。きっとラグリマよりも強くなってしまっただろう、とゼツイは彼女の剣を受け止めながら思う。
あの当初のか弱さはどこへ消えたのか、今ではいい目をして迷いもなくゼツイに技を叩きこむ。ほぼまだ防いできたが、ときどきリラの鋭い攻撃をゼツイが防ぎ損ねることも出始めた。
恐ろしい成長だな、と純粋にゼツイはリラを称賛した。相変わらず美しく細く儚い印象のリラだが、剣の技術は確実に向上していた。もう訓練を初めて一か月になるのか、とふと考えたとき、ガキンと目の前で火花が散った。
「せんぱい!考え事しないでください、危ないです!」
「あ、あぁ、悪い」
まさかこの後輩に怒られる日が来るとは、とゼツイは目を丸くしながら剣を持つ手に力を込めた。ばさ、と風に麻布の鉢巻があおられるのを感じたとき、またリラが鋭く剣を打ちこんできた。
今度はしっかり集中してはじくと、素早く動いてステップを踏みリラとの間合いを詰める。リラが一瞬身を引いたとき、リラの美しい金髪はゼツイの麻布の鉢巻と共に風にあおられた。
―――ガキンッ!
「…強くなったけど、まだまだだな。リラ」
「うっ…。…けど、今日はせんぱいもちょっと余裕なさそうでしたよね?」
「あー?気のせいだ!」
リラの降参を示す片手の合図を見ながらゼツイは剣を離した。シュル、と小気味いい音をたてながら剣を柄にしまい、リラを見る。リラは悔しそうだったが、ゼツイは僅かな焦りを感じていた。
―――ここまでリラが成長するなんてな…―――。
『先輩』としてのプレッシャーもある。だが、やはり一番に愛弟子がここまで成長したのは嬉しい。たったの一か月だというのに、リラはゼツイをヒヤッとさせるほどの技を使えるようになりつつあった。
今日もリラが笛を片手に、いつもの休憩場所にすっかり慣れた様子で座りこむ。いつものように売店でジュースを買ってリラに渡すと、リラがにこっと笑った。
「せんぱい!今日は何の曲が聴きたいですかっ?」
「…んー、そうだな。イグラディアの『東の剣舞』がいいな」
「はーい」
リラはすぐに笛を構える。全く音楽の知識はなかったゼツイだが、こうやって毎日リラの演奏を聴いていると自然と音楽に詳しくなった。リラは十分、一人前の楽士としてやっていけそうだったが、リラ本人はまだ剣を極めるらしい。
思えばリラのことはゼツイも知らないことばかりだ。この一か月でリラについて分かったことは、リラの家はそこそこの名家であることとリラが笛の世界では名手として名高いこと、それぐらいだ。
街のどのあたりに住んでいるとか、他にどんな趣味があるのか、そんなことも全く知らない。
リラの美しい笛の演奏を聴きながら、ぼーっとする。ゼツイは珍しく物思いにふけり、無意識にぽつりとつぶやいていた。
「すげーよな…」
「はい?」
すぐにリラが演奏を止めてゼツイを見る。いつでも細かくゼツイの行動に反応するリラは、ゼツイにとってただの剣の教え子以上の存在となっていた。あのさ、とゼツイがそのまま小声でぼやく。
「リラってさ。女の子なのに剣、すぐ上達するし。笛上手いし。俺、すぐに追い越されそう」
「…あの……、…はい!すぐに追い越します」
「いや、俺もそう易々と追い越される気はないけどな?」
少し返事に躊躇った様子のリラだったが、すぐに明るい顔で自信満々に頷いた。その儚い第一印象とは変わり、最近ではずいぶん余裕で強気な態度をリラは見せることが多くなっていた。
ゼツイも笑いながら言ったが、少しの間リラは返事をしなかった。ん、と不思議に思ってゼツイが顔を上げると、リラが背を伸ばしてゼツイを見ていた。優しい表情で、少し切れ長の目が美しい。
「リラ?」
「…あの…多分、いつか言わなきゃいけないことなので…、言いにくいんですけど…言いますね」
いつになく真剣な様子のリラにゼツイは戸惑った。何だ、突然何かリラの秘密の扉を開いてしまったのか?不安で表情を曇らせたゼツイにリラは少し困ったように微笑んで、サラリと言った。
「私、男の子です」
「…え?」
「せんぱいと一緒です」
「……え?」
「一人称は両親から『私』になさいと教えられたんですけど、もう14なのでそろそろ『僕』か『俺』にしようと思うんです。せんぱい、どっちがいいと思いますか?」
「………『僕』、かな」
「じゃあ僕にしますね!」
「…あぁ」
「…せんぱい?」
「あの、やっぱり嘘ですとかじゃないよな?」
「嘘です」
「あ、やっぱり…?」
「っていうのが嘘です」
ゼツイ・ナギリ、15歳。初恋によく似た淡い想いが、イタズラ好きそうなにっこりとした『少年』の笑みの前で潮風に運ばれていった。いつもと変わらないのどかなある午後のことであった。
**
恐ろしいほどの成長を遂げたリラは、やがてゼツイに勝つ回数が増えていった。ゼツイが手を抜いているわけではない。ゼツイはいつでも本気でリラと戦っていたが純粋に力の差が見え始めたのだ。
リラは素直に喜び、ゼツイもリラの成長に感心する中で敗北を重ねる自分が嫌になった。
―――俺、俺だって一番にならなきゃいけないのにな。
勝ちました、と剣を掲げてにっこりと微笑むリラは息の一つも乱れず、涼しげに姿勢よく広場の隅で立つ。いつもの練習場で以前と違うのは、余裕で笑みを作るのがゼツイではなくリラになっただけだった。
ただそれだけなのに。ゼツイは膝をつき肩で息をしながらギリ、と下を向いて歯を食いしばる。今週に入ってもう10回負けた。俺が勝てたのは5日間でたった一度だ。
リラが立ち上がれないゼツイの傍に腰をおろし、そっと背中を撫でる。
「ゼツイ先輩、大丈夫ですか」
出会った当初よりもだいぶしっかりとし、自信にも満ち溢れている様子のリラを弟子と見るなら自慢の弟子だ。だがもうリラは自分を超えてしまった。ゼツイがそれに気付かないわけがなく、複雑な表情で頷く。
表情に輝きが増していくリラとは反対に、ゼツイの表情には影が重なった。
―――リラはもう、自分よりも強い。俺はもう、一番ではない。
―――だったら。
ゼツイは顔を上げ、体勢を変える。座り込んでリラの方を向くと、首を小さく傾げて微笑むリラに言った。
「リラ。もう…お前は俺より強いよ。だからもう、俺は教えることなんてない。…お疲れ様」
「それって…もう、先輩は僕と戦ってくれないんですか?」
笑顔を作っていつものように爽やかに言ったつもりだったが、顔がひきつってしまったのが自分でも分かった。そんなゼツイにリラは、寂しそうな目で詰め寄る。捨てられる犬みたいだ、とさえ思えてしまう。
「あぁ。もう稽古は終わりだ。お前がもっと上を目指すなら…俺なんかよりも、もっといい人がたくさんいる。ギルドを探せばお前なら、」
「嫌です。僕は先輩がいいんです。先輩じゃなきゃ嫌です。…僕がどうして剣を始めたのか、教えましょうか」
がし、と必死の形相でリラがゼツイの手を掴む。風に吹かれる長い髪と、真摯に見上げる透き通った眼に、胸が切なくなった。綺麗な奴だ。だけど鋭くて、強くなってしまう。
リラの気迫に押されて少し頷くと、リラは手に力を入れて語り始めた。
「僕の本当の名前はティグレ・リランシュ。ロロターナではなく、テラントの町の領主家になります。ロロターナには笛を学ぶために来ていましたが、ある日闘技場をこっそり一人で見に行ったんです。
そのときに見たのがゼツイ先輩でした。力強くて繊細、素早くて純粋に戦いを楽しんでいるその姿に…僕は一目で憧れました。先輩みたいにかっこよくなりたかったんです」
「リ、…リランシュ家…そんなお金持ちの息子が…か、勝手に剣なんて学んだら、」
「はい。リランシュ家は武よりも音楽や絵画を嗜む家柄です。どうして武なんて学ぶのかと親には言われました。だけど僕にはどうしても忘れられなかったんです…。戦う先輩の姿が、とてもきれいで」
かぁ、と顔が赤くなる。名家のお坊ちゃんを知らない間に誑かしてしまったのかと顔を青くするべきだが、心の底で自分に憧れてくれたリラに嬉しくなり、慌てて首を振る。
「だけど!もう俺はお前より弱くて、お前の憧れてた『ゼツイ』はいないんだ!その、き、きっかけが俺だとしても…お、お前が剣の道に進みたいなら俺じゃもうダメで、」
「僕は誰よりも強くなりたいんです。両親にも、誰にも文句を言わせないほどに強くなりたい。…だけど、先輩がいいんです。一緒に過ごしてわかりました。やっぱり先輩といて正解だったんです」
どうしてそこまで言うんだろう。俺が絶対無敗の王者なら多少はふんぞり返ってもいいかもしれないが、もう俺は負け続けているのに。
ゼツイは言葉を失くした。リラにそう言ってもらえるのは嬉しくないわけではないが、それももう過去のことなのだ。今からリラと居ても、自分は失望させることしかできない。
例え闘技場で何度勝てたとしても、自分より強い弟子を従えていくのは自分の剣士としてのプライドが許さない。
リラとこのまま居たら、リラをさらに失望させ、剣技に秀でた両親も眉をひそめる。何より自分自身が自分を許せそうにない。
自分のためでも、リラのためでもあるんだ。俺はリラと何をしてでも別れなければならない。次に会うときは敵同士になってもいい。リラのことを思うなら、自分のことを思うなら…ここで断ち切らなければいけない。
ゼツイは一瞬の間に考えた。リラを傷つけないようにしたい、自分のことも守りたい、いや、そんな方法はない。
ゼツイの考えは不完全なまま、ふら、と口をついて出た。
「…俺はお前にあと百回負けたら剣を辞める」
「な、何を言ってるんですか!?ダメです!じゃあ僕は二度と先輩には勝たな、」
「違う!そんなこと言わせたいんじゃない!お前が本気でやらないなら、俺は二度とお前と戦わないしお前にも会うことはない」
わがままだと分かっていた。リラを一番困らせ、自分にも一番損なことだとすぐに理解していた。それでもゼツイにはこれしか思いつかず、そしてその覚悟もできてしまう性格だった。
思っていた通り、リラは泣きそうな顔をした。本当に、その目が潤みそうで、美しい顔が崩れそうで、細い腕は震えていた。
だが、リラは持ちこたえた。演技くさく、その顔が笑みに歪む。その微笑みが冷たく、恐ろしく、そして今にも泣きだしそうなことにゼツイは気付いて息をのむ。リラが、アハハッと高い声で笑った。
「…分かりました!本当はね、待っていたんですよ。先輩をどうやって負かすか、どうしたら僕に一生懸命教えてくれた先輩が悔しそうにするか、先輩が絶望するかをいつも考えていたんです。ちょうど好機ですね!
負かせてあげます。僕は、本気ですから。百戦全て本気です。先輩は百回泣いてください。泣かせてあげます。剣を捨てさせてあげます。僕が一番だと証明します。それで負けず嫌いの先輩が悩むところを笑ってあげます!」
リラが短く言葉を区切りながら笑い、金髪を翻してゼツイに背を向けた。背は震えていた。ぽつり、とリラが続ける。
「毎日、この広場で戦いましょう。早ければ一週間で、先輩をその苦しさから解放します。…僕から、解放してあげます」
リラが去っていく。青く高く晴れた空の下、厳しい日差しが広場を照らし出す。広場には他にも人がいたのに、その誰もが声を出さずに自分たちを見ていた。リラのまっすぐ伸びた美しい後姿が遠ざかり、影だけが引きずられていく。
そのあとはもう覚えていない。きっと走って家に帰り、そのまま部屋に引きこもって寝てしまったんだと後で考えた。
**
リラは強かった。百戦目でちょうど、ゼツイの百度目の敗北が訪れる。結局本気になったリラに一勝もできないまま、本当に一週間で決着をつけられてしまった。
さらに重くなってしまったような鉄の剣を地面にガラン、と投げ捨てる。何年か前の誕生日に両親が贈ってくれた思い出の剣だったが、もうボロボロで刃こぼれし、使い物にならないのは一目瞭然だ。
だが、今ぴかぴかに磨かれた新しい剣が手元にあったとしても、ゼツイは手放しただろう。
「……先輩、ありがとうございました」
リラが笑いながら、泣きそうに震えるのを押し隠して歩み寄る。天才少年剣士とその弟子である美貌の新しい天才との戦いのうわさはすぐに町中に広がり、80戦目を超える頃には闘技場に招待されて戦っていた。
観客の数は増し、新たなる美しい天才の剣技に歓声を上げ、やがて影を増していく元・天才少年剣士の引退をまだかまだかと好奇の目で見届けようとしていた。そして訪れた百戦目で、ゼツイは最後まで足掻いた。百戦すべて、本気だった。
海の波の音よりも大きな歓声が響いているはずだったが、ゼツイには聞こえなかった。いろんなものが頭の中を巡る。両親に剣を学んだ幼い頃、闘技場に初出場した頃、勝利を重ねた頃。
ラグリマに出会ったこと、リラに出会ったこと、敗戦を続けたこと。この『剣の道を辞める』ことを賭けた戦いを始めたことが両親にばれて、酷く叱られたこと。それでもゼツイの覚悟を知った両親が黙って理解してくれたこと。
全て、剣技の繋いだことだったが。もうその重荷を背負うことも、剣で負ける自分を見ることも最後だ。
―――俺は、リラを超えることはできない。
叩きつけられた現実だった。リラに剣技を教え、楽しかった時を思い出す。あのときは勝ち負けなんて気にしなかったのに、どうしてここまで執着してしまったのだろう。
リラがゼツイの足元に転がる鉄の剣を拾い上げた。
「この剣は、いただきますね。先輩の剣の引退試合、そして僕の卒業試合を記念して。…勝者である僕が、奪わせていただきます」
「…あぁ。持ってけ。……短い間だったけど、よく頑張ったな。あとは最強を目指して頑張れよ」
「はい。……先輩、僕の笛をまた聴いてください。あなたに聴いてほしい歌があるんです」
「…いつかな」
リラの表情はちょうど影になり、見えなかった。呆然と立ち尽くすゼツイを置いて観客席から人がなだれこみ、あっという間に期待の新人剣士を囲んでいく。リラの姿が人ごみに消えてしまった頃、ゼツイはそっと姿を消した。
**
「その後ラグリマが闘技場の外で待っててくれててな。剣を捨てても戦いたいんだろ、って言われて、俺、泣いちまったんだ」
「へぇー、ナギリさんが。なんだか想像がつかないなぁ」
「すげェもんだったんだわー、これが。足から崩れ落ちるようにさァ、それであまりに泣くから俺が引きずって、エルマノスに連れてったんだわ。もう俺はエルマノスにいたし、おやっさんにも相談してなァ。
ゼツイがまだ、剣は捨てても戦いたいって言うから、おやっさんがゼツイの体とか動きの癖をしばらく見て、格闘家を勧めたってワケ」
夜のロロターナ、エルマノスの拠点では酒に潰れたギルドメンバーたちが机に突っ伏している。ようやく終わった武闘大会で、応援に来ていたメンバーたちもすっかり昼間の日差しに参っていたのだ。
それにも関わらず、参加していた当人たちは元気だった。ミンミも興奮冷めやらず、という感じで、豪華な夕食を終えた今ではゼツイの思い出話を聞いていた。
本当は今回の優勝に貢献した客人、ニコラも呼ぶはずだったのだが、彼は連れであるステイトが先に宿で寝てしまったと聞くと「世話の焼けるやつだ」と言いながら宿に戻っていった。
ミンミ達が見舞いに行こうかと聞くと、どうせ爆睡しているだろうから、と言われ、また回復すれば明日にギルドに寄ると約束はしていったのだが。
それにしても、とゼツイはため息をつく。ミンミの好奇心にあふれる目にやられて、後輩のティグレとの思い出話を語り始めて一時間になる。すっかり夜は深まってしまっただろう。
ラグリマが途中で話を付け足しながら、ミンミに語って聞かせると彼女は表情豊かに話に聞き入っていた。それを見ながら、ちょうどティグレのことを思い出す。
風の噂では、あの闘技場での『百戦目』の後にティグレは名高いギルド、ライデンシャフトにスカウトされてどんどん実績を残し、ギルドマスターにも認められてリランシュ家の両親を説得したらしい。
元々ティグレは次男坊だったらしく、家を継ぐ継がないの問題からは外れて今はライデンシャフトの一員としてロロターナで暮らしている。だが、ゼツイはしばらく落ち着いた話はしていなかった。
出会うこそあれど、本当に敵になったような気分だった。実際、『リラ』はまだ怒っているのだとも思う。
ゼツイも剣を諦めたことを両親に話し、少しごたついたもののギルドに入って人のために働くと話すと両親はやっとゼツイに頷いてくれた。今も両親とともに暮らしているが、両親が剣を握らなくなって久しくなっていた。
「…あーあ。俺、言っちまったな」
「リラさんと戦うってこと?そんな悲しいお別れをした後だから、きっとリラさんもどうしても再戦したかったんでしょうね」
「言ってくれるな、ミンミ。…けど、それでいいな。俺も体術は磨いたし、あのすまし顔にパンチ入れられるならそれでいいかもしれない」
「あまりやり過ぎるとライデンシャフトのファンの女の子が怒るよー?」
ミンミが困ったように笑うのを見ながらゼツイも表情を緩めた。
再戦の予定は具体的にはまだだが、いつか近い内にティグレがエルマノスを訪ねてくるような気がしていた。それまで自分はまた技を磨き、いつでもあの成長した後輩を見てやる準備をしておこうと思う。
それから今度こそ、ゆっくりと話ができればいい。また小さな広場の隅に出された屋台に行って、果実のジュースでも奢ってみようか。
「…ちょっと俺も酔ってきた。風に当たってくるよ…、ラグリマ、ミンミに何か面白い話を聞かせてやってくれ」
「あァ!お前の恥ずかしーい話でも聞かせてやろうかなァ」
「え!?ほんと!?ナギリさんごめんね、楽しみに聞かせてもらう!」
明るい二人がぶんぶんと手を振って、また話に戻るのを見ながらゼツイは席を立った。そっと扉を開けて外に出たとき、もう空は星が輝いていた。
「…こんな夜は、琴でも弾きたくなるな」
そう呟いたとき、涼しい夜風がどこからか澄んだ笛の音を運んできた気がしてゼツイはふとティグレの言葉を思い出す。
―――『あなたに聴いてほしい歌があるんです』
あの『百戦目』の終わりで言われた言葉はまだ、実行できずにいた。




