61 訪ねてきた人
昼飯を食べに宿に戻ると、ベルータさんもニコラもいなかった。鍵もかけずに物騒な、と俺が言えたことでもないようなことを考えながら部屋に戻り、とりあえず塔守の婆さんに貰った土産を置く。
それにしてもちょうど昼なのに、ベルータさんはどこに行ったんだろう?他の部屋にもキッチンにもどこにもいなかったんだよなぁ。
暇だから婆さんに貰った『薬草調合ノート』でも見ようか、と思った時。ガチャ、と部屋の扉が開いて水色の髪が見えた。
「あれ、ミンミ?」
「ステイト君、聞いたよ!明日にはいなくなっちゃうなんて…急すぎるじゃないの」
ミンミがちょっと怒ってますって感じで腰に手をあてながら現れた。この宿出入り自由すぎだろ、と思いながら俺も手を合わせてすぐに謝る。
「ご、ごめんな。ちょっと急がねぇといけない用ができちまって…」
「もう、おかげで皆今、大変なのよー?ギルドのお仕事は今日は皆お休みして、シフィルハイドさんとステイト君の送別会やるって皆張り切っちゃってるの!昨日は出張だったマスターたちも帰ってきたし、忙しくて忙しくて」
「そ、送別会!?なんで、」
「シフィルハイドさんはもうギルドの一員だし、もちろんステイト君もギルドには署名してなくても…もうエルマノスの一人だよ!フーゴさんとナギリさんが、上手い料理を食わせる!って言ってお魚釣りに張り切って出かけちゃったの」
…、また俺の知らないところで何かが進んでるっ!え、送別会だと!?な、何を…そんな、俺たちはエルマノスに世話かけてもらってんのに、これ以上何かしてもらうなんて!しかも、数日しかいなかったのに…。
「そ、そんなの大丈夫だって!寧ろ、いきなり押しかけて迷惑かけたのは俺たちだし…俺たちがお礼しないといけないのに、」
「いーいーのー!エルマノスの皆はお祭り好きだから、昨日の夜も武闘大会お疲れ様パーティーだったけど今日もガンガン張り切って送別会を盛り上げると思うよ?主役のいない送別会なんてナシでしょ?」
「…本当に、いいのか?」
俺はベッドに腰掛けたまま、部屋の入り口で堂々と立っているミンミにちら、と視線を送った。ミンミは強気な表情で大きく頷き、にっこりと笑う。
「もちろんよ!今更キャンセルなんて聞かないんだから!…ってわけで!奥さんはギルド拠点でもう夜の送別会の準備をしてるからここにはいないの。お昼ご飯は私が作るから食堂で待ってて」
「材料があれば俺が作るから!ミンミは休んでたらいいのに」
「ロロターナの味はロロターナ民が作るっ!私だって、皆と少し違うけど、立派なロロターナ民なんだから!シフィルハイドさんも昼には戻ってくるって朝に出会ったときに言ってたから、待っててね」
み、ミンミさん今日はなんだか強いぞ!?有無を言わさぬ、というか…!旅人も多くとどまるロロターナでも目立つ空色の三つ編みが、ミンミが踵を返したときに揺れた。ロロターナでは浮いて見える、日焼けしない白い肌も俺の目に映る。
そっか、…ミンミはご両親がネーディヤ帝国出身なんだっけ。ミンミが生まれたのはこのコットリア共和国の港町ロロターナだけど、その血はこの町に流れるものじゃなくて遥か北の国の人たちのものなんだ。
ミンミの言う『少し違うけど』は、きっとミンミにしかわからない苦悩があるはず。…それに触れるのは、俺が『人間でも魔族でもない者』ってことに触れられるのと似た感情を生むんだろう。
俺は何も言わず、ミンミがキッチンへ歩いて行くのを見送るしかできなかった。
…ミンミ。数日しか一緒にいなかったけど仲良くしてくれた、芯が強くて優しくてしっかりした女の子。シルみたいに一生懸命で、夢のために必死に頑張るミンミ。好きだな、って思うんだ。…でもそれはなんつーか、甘い気持ちじゃない。
俺がシルを好きなように、ユハの双子たちを、ヨーウェンさんを、出会った大事な人たちを好きなように。爽やかでハッキリとした、温かくて優しい『好き』がそこにある…そんな気がする。
「ステイト君、海鮮パスタと魚の塩焼きとどっちがいいー?」
「待ってくれ!俺も手伝うから!…海鮮パスタで!」
だん、と床に足をつけて俺も部屋を飛び出す!ミンミの軽やかで心地いい声が宿の中に響くと、俺もどうしてかわくわくとしちまうんだよな。
**
ミンミの料理は美味かった。…え?どうしてそんなことに注目するのかって?…思い出せ!いや思い出したくはないけど!俺の周りの人間の料理の腕はどうだー?…ハイッ、エントリーナンバー1、ニコラさん!壊滅!アウト!
んじゃ次、エントリーナンバー2、シル君!破滅!絶望!………。悪いジンクスでもあるのかよ、と思ってましたよ俺は。違いました。ミンミの料理はすっごく美味かったんだなコレが!
貝と魚、素材の味を殺さない見事な調味料の具合も、パスタの茹で加減も!俺もそこそこ料理には自信があったけど、これには負ける。うっまーい!
「どうよ、ステイト君!私の腕前はっ!」
「さすがですミンミお嬢様ー!うっま!何だよコレの美味さ、…うおおっこのハーブ!香るー!」
「ステイト君ってば料理評論家志望なのー?」
ミンミ、笑うな!俺は食にはこだわってるんだ!ミンミ…お前、いい嫁さんになるぜ…!この隠し味の木の実もスパイシーでいいし、こんなに美味い海鮮パスタは初めてだ!ヨーウェンさんと同じくらいの料理の腕前…っ、見事だ!
俺がウオオオとフォークに絡めたパスタに声を上げてると、ニコラがちょうど食堂に入ってきた。お、と小さく声が上がる。
「パスタか。…ミンミ嬢が?」
「うん!シフィルハイドさんの分も今から作るから、座って待ってて!」
すぐにミンミがキッチンに入る。ニコラはそれを見送ってから俺の向かいの席に座った。…あれ、書類持ってる。なんだそれ?
「それ、何だ?」
「あぁ、明日の馬車の予約だ。が、ここに来るまでにテラントの町に寄れなかっただろう?お前が寄りたいなら、そこにも向かうシエゼ・ルキス行きの馬車を予約するが」
「…いや、いいよ。もうシエゼ・ルキスに直行で。…悪いな、予定を何度も変更しちまって」
…ニコラ、俺がテラントの町に行きたがってたのを覚えてたのか。けど…俺はできるだけ早く王都に戻りたかった。早く王都に戻ってノイモントについて調べたいし、シルたちにも連絡を取りたかった。聖剣がどうなったのかも情報が欲しい。
そりゃもちろんテラントには行きたい!けど、俺がテラントで遊んでる間にも魔物で困ってる人たちが大陸中にいるんだ。…俺だけワガママもできない、だろ。
それでも俺のことを考えてくれたニコラには、素直に申し訳ない。この頃ちゃんとニコラに謝れるようになったのは、自分でも大きな成長じゃねーかと思ってるんだけど。
俺が両手を合わせたのを見て、ニコラはふっと笑った。
「そうか。…テラントにまた行ける機会が来れば、俺も行ってやる。テラントでは珍しい武器がたくさん売られているらしいからな」
「ほんとぶれないなお前」
…気遣ってくれてんのかってしんみりした俺がバカでしたね…!
**
午後は結局、本当に買い物に出かけた。ヨーウェンさんにはもう塔守の婆さんから貰った薬草があるからいいけど、アリシアには気に入ってもらえそうな土産を買わないといけないしな。アリシア、何をあげたら喜ぶかなー…。
ミンミに昼飯の時に相談したら、やっぱり飾りがいいんじゃないかって言われたんだよな。美味しい食べ物を買って帰りたいけど、馬車でシエゼ・ルキスに戻るまでに傷むと困るし…んじゃ、飾りだ。
アリシアの綺麗な金の髪に似合う、貝殻の小さな髪飾りを屋台で探して買ったときには…もう自分でもナイス!って思ったな。うん。
その市場からエルマノスの拠点に帰る途中で、ジョエルとレリアさんのいる『サークルム』にも行ってみようか悩んでたんだ。ジョエルがちゃんと馴染めてるか心配だったし、一応別れの挨拶ぐらい、と思って。
けどちょうど古本市場をしてる区画を通りがかった時、その市場の中にジョエルとレリアさんを見かけた。二人とも仲良さそうだしちゃんとやれてるみたいだ…それを見てると邪魔したくないと思って結局何も言えずじまいだった。
そんなわけで。俺がぶらぶらとロロターナの市場で放浪して夕方になる頃にのんびりと帰ってくると…。
――――ガッシャーン!
『ギャー!割れたー!』『何やってんだいラグリマ!それおやっさんのグラスコレクションだよ!』『えーっと、これどこに運ぶんだー!?』『どけ、邪魔だ!』
………。俺は今、エルマノスの拠点の前に立ち尽くしてるんだけど。…なんだか扉越しに賑やかな声がワァワァと聞こえてきます。……。
『マルチアねーさん助けてくれよォ!』『知らないよ、とりあえず隠しときな』『えっ?奥の部屋?鍵かかってるぞ?』『どわーっ、邪魔だっつの!』
―――ガラガラドッシャーンッ!
……。今この扉を開けてはいけない気がする。俺の冴えわたる勘が冷静に語る。今はまだ時ではない、もう少し町でふらふらしていても大丈夫だ、…と。
『ゼツイが小麦粉に見舞われたぞー!』『白い煙い!ゲホッ』『…』『げっ、ゼツイ大丈夫か!?』『おーい紅茶はどこだー?』『バンフィールドさんのんびりしてないで手伝って!』
……。だ、大丈夫なのか?ほんとに今この扉を開けても…。なんか…ラグリマが何かを割ったり、ゼツイさんが小麦粉に見舞われたり…?どういうことだ…?
『ミンミー!ヘルプだヘルプ!』『分かった、すぐ行くね…って、きゃああああーっ!?』
―――ドガッザバンッ!
『ミンミがバケツに躓いてこけたー!』『うわわわ水!水が!』『さすがミンミちゃん今日も可愛い』『お前らそんなこと言ってる場合じゃねーだろうがァ!』
…。俺、どうしよう。だいたいこの物音だけで建物内の大惨事が予想できちゃうんだけど、…奮い立てろ、俺の中の正義の心!今俺が手伝わなくてどうすんだ!よぉし俺も参戦…!
と、俺が心を決めて一歩前へ踏み出したとき。もしもし、と涼やかな声が背後からかけられた。
「ちょっとごめんなさい。君はここのギルドの?」
鈴の鳴るようなその声は聞き覚えがあった。振りかえると……おぉ!?こ、この人は。長い綺麗な金髪が風に少し揺れ、切れ長の綺麗な目が俺を見つめてる。動きやすそうなのにどこか高貴さを感じる白い服…、この人…!
「ティグレ・リラさん…!?」
「あぁ、はい。突然驚かせてすみません」
にこ、と微笑んだのはあのライデンシャフトの美しい剣士、ティグレ・リラさんだった。突然の登場に驚いたのは俺だけじゃない…と思いたかったけど、夕方のこの通りには人もいなくて俺とティグレさんだけがここにいた。
物腰が柔らかいティグレさんは、とてもあんなすごい戦いを見せた剣士には見えない。思わず俺は返事を返すのも忘れてぼーっと魅入ってしまった。ほ、ほんとに女の人みたいだ。美人…!
すぐに俺もハッとなって、失礼だったかなとちょっと焦る。けどティグレさんは何も気にしてないように笑って髪を揺らした。
「そういえば君は見かけない顔ですね。…もしかしてこの町の人ではないんですか?」
「あ、あぁ。俺はシエゼ・ルキスから…」
「なのに僕のことを知ってくれてるなんて…嬉しいです。ライデンシャフトのファンだったりします?」
冗談っぽく笑ったティグレさんはすごく綺麗だった。俺も安心して、すぐに同じように笑みを浮かべて見せる。
「いや、俺はエルマノス派で」
「なるほどー。僕もエルマノスに大好きな先輩がいるんです。…ちょっとその先輩に会いたくて来たんですよ」
「…ゼツイ・ナギリさん」
「!そうなんです。ゼツイ先輩に会いたくて」
俺が思わずぽつりと零した名前に、ティグレさんは無邪気に笑った。俺はその笑顔を見て少し首をかしげる。…だってさ、ミンミは、ゼツイさんとティグレさんはすごく仲が悪いって言ってただろ?
なのにこの表情。ティグレさんはゼツイさんを嫌ってるようには見えないんだよな…。心の底からゼツイさんに好意的、だけどどこかに複雑そうな影が見えないわけでもない…。
やっぱり何かが二人の間にあるんだ、とは無関係の俺でも察してしまえるほどに、このティグレさんの表情は分かりやすかった。
「ゼツイ先輩を知ってるんですね。君の名前は?」
「俺はシエゼ・ルキスから来たステイト。…あのエルマノスのチームに黒髪の剣士がいただろ?あいつの連れだよ」
「ニコラ・シフィルハイドさんの!彼のことも気になっていたんですが…シエゼ・ルキスからだとは。彼とも話がしてみたいんですが、今いますか?」
「うーん…。実はニコラと俺は明日にはもうシエゼ・ルキスに帰るから…ニコラは今、出国の手続きで忙しくていないかも」
「うー、残念です…。是非戦ってみたかったんだけれど…」
ティグレさんは、俺が思ってたよりも無邪気な人だった。丁寧なのに明るくて、楽しそうに表情を変える人…に見えるんだよなぁ。ニコラの話をするとティグレさんが目を輝かせて食いつき、しばらく俺とティグレさんは話していた。
やっぱりティグレさんも剣の道での『最強』をめざし、また町の人たちの助けになるべくライデンシャフトで仕事をしてるんだとか。画面の向こうから見ていたティグレさんはすごく遠い存在に思えたけど、今は親近感さえある。
こんな人だったんだな…。やっぱり人って、実際に会って話してみないと分からないモンだな。
俺の中ですっかりティグレさんへの印象が変わった頃、ティグレさんがちら、とエルマノスの拠点のドアを見ながら呟いた。
「…ゼツイ先輩、やっぱり…」
「…あの。俺が聞いていいか分からないけど…ゼツイさんとティグレさんってどんな関係なんだ?」
「あぁ、僕の剣の師匠がゼツイ先輩なんです。けど僕が先輩に何度も勝ったことで…先輩は剣を辞めてしまうんです。…僕も先輩に勝てて嬉しかったけど、先輩のプライドに傷をつけることは分かってたんです」
俺が聞いた無遠慮な質問にも、ティグレさんは答えてくれた。その表情に影が映り、寂しそうにうつむく。俺よりも高い身長、しなやかな体のティグレさんの影が夕方の町の石畳にのびた。
「だけど僕は勝ちたかったんです。どうしても…それで先輩がどうなっても。…だけど僕も先輩のことを本気で尊敬していたし、この人しかいないと思っていたから…離れた後はやっぱり寂しかったです」
「ゼツイさん、そんなに剣が強かったのか…」
「はい。僕の憧れです。先輩、あまり体格ガッシリしてないでしょ?だからこそ素早くてしなやかで鮮やか、相手の隙を見逃さないし、何よりまっすぐな目で相手を見るんです。
先輩は剣で勝つことの喜びと剣技の楽しさ、いろんなことを僕に教えてくれたんです。あと毎日ジュース奢ってくれました」
ティグレさん、…楽しそうだ。俺が見上げた先の表情は夕焼け空に向いていたけどとても爽やかで、長い金の髪がふわっとときどき風に揺れるのがすごく綺麗で…。思わず見つめてしまう。
そんな人を惹きつけてしまうようなティグレさんは、やっぱり俺からは遠くにあるような存在だ。美しく強いロロターナの美青年剣士。…そんな彼が憧れるゼツイさんって、どんな少年だったんだろう。
「だけど先輩は剣を辞めてしまいました。僕のせいだと分かっていましたが、僕が手を抜けばもっと先輩は怒ってたでしょう。…だから最後の先輩との試合の時、僕、酷いことを言って別れたんです。
それ以来何度か顔を合わせてもろくにまともな会話もできなくて…僕も気まずかったんです。気づけば周りからは『仲が悪い』って言われるようになっちゃって…僕も素直になれなくて。女々しいでしょ?」
「喧嘩別れした先輩後輩だったんだな…。…それで、武闘大会で話ができたから…」
「はい。今日改めてゆっくりお話ししようと決めて来たんです。…あの、本当に僕、先輩のことは尊敬してるんですよ!先輩には分かってもらえないんですけどね」
ティグレさんは慌てたように手を振りながら、それでも寂しそうに言う。…うーん。俺が深入りできる話じゃないけど…ティグレさんもゼツイさんも、過去のわだかまりに決着をつけたいんだな…。
…よぉし。なら俺も勇気を出そうじゃねーか!例え今現在エルマノスの拠点がどんな大惨事になっていようと…俺にはゼツイさんをお呼びだしする義務がある!
俺がそれを言おうと口を開いたとき。ギィ、と後ろで建物の扉が開いた。ゲホッ、と苦しそうな咳が聞こえ、はぁー、と深いため息も次いで聞こえる。…誰か出てきたのか?
俺が振り返る前に、ティグレさんの表情が一瞬こわばったのを見て誰が出て来たかを俺はすぐ理解した。理解したうえで俺はゆっくりと振り返り…。
―――爆笑した。
「ぶっは!ちょ、え!?ゼ、ゼツイさん…!白…!何があったんだよソレ!」
「笑うなよステイト…。ちょっと小麦粉が降ってきて」
ゲホッ、ともう一度咳をしながら外にふらふらと出てきたのは、全身白い粉まみれで真っ白白になってるゼツイさんだった!小麦粉に見舞われたってそういうことだったのか!
大方誰かが荷物を運んでぶちまけたんだろう、その先にゼツイさんがいたんだな…。いや、あの、お疲れ様です…!ぶはっ!
ゼツイさんはふらふらと数段の階段を下りて、俺の前で水浴びをした犬みたいにぶるぶるっと身を震わせてまたため息をついた。あの、まだ粉全然とれてませんけど。
「ったくフィリップの馬鹿…。俺が目の前にいたこと確認もしないで小麦粉ぶちまけてくれて…」
「ゼツイさんそれ目、見えてんの?」
「あまり」
顔まで真っ白でなんというか新手の化粧みたいになってる…っ!また笑いの波が俺の中に押しよせてグッとこらえてると、俺の横から白くて細い手がスッと伸びた。刺繍の施されたハンカチを持つ手が、ゼツイさんの顔に近づく。
ぱ、と見るとティグレさんがハンカチを出して、ゼツイさんの顔を遠慮がちに拭いていた。ゼツイさんもおとなしくされるがままになってる。
「あぁ、ありがとう……って、…ティグレ」
「先輩、こんにちは。来ちゃいました」
顔を拭いてもらってたゼツイさんが顔を上げると、ティグレさんがにっこり微笑んでテヘッと言った。…けど、俺にはティグレさんがちょっと緊張してるのが分かった。ちょっとだけハンカチを持つ手が震えてたから…。
俺の中でのティグレさんは、余裕をもって涼やかに事を進めるような人だったけど…なんかやっぱりホッとしたぜ。ティグレさんも普通の人なんだ。
対してゼツイさんは、一瞬何と返していいか分からないような複雑な表情を浮かべた。けど、俺が心配することもない。すぐにゼツイさんは目を閉じて首を横に振り、はぁ、とまたため息をついて見せた。
「後輩にかっこ悪いところ見られたな」
「本当ですね。自慢の橙の髪も真っ白ですよ」
「自慢ってほどじゃないけどな。…ステイト、お前はどうしたんだ?」
「え、俺?俺はやることなくて帰ってきたら、ちょうどティグレさんがいて」
「はい。話をしてたんです。ニコラさんの話や、先輩の話を」
「ティグレ。ステイトに俺の変な話してないだろうな、お客人なんだぞ」
「別に、ね?先輩が実は僕に初恋してた話なんてしてませんよね」
「詳しくどうぞ」
「ティグレ、ステイト。…殴られたいか?」
きゃー!ゼツイさんもバカニコラに負けず劣らずこわーい!なんて思いながら俺とティグレさんが揃って身を寄せてるのを見て、ゼツイさんはようやく笑ってみせた。
「…はぁ。もうその話は忘れていいからな」
「ステイトさん、聞いてください。先輩ってば僕のことを女の子と勘違いしてた時があって」
「俺も最初見たときティグレさんって女の人かと。美人だよな」
「あはは。先輩がね、その髪綺麗だな、って言ってくれてから僕は髪を切るの止めたんです」
「さっさと切れティグレ」
今度はゼツイさんがティグレさんの長い髪をガシッと掴んでグイグイと引っ張る。ゼツイさんのクールなイメージもなんだか違って見えるぞ?きゃー、と笑いながら声をあげるティグレさんも楽しそうだ。
それで、とゼツイさんが続けた。
「用はなんだ?俺も早くこの小麦粉を落として、また掃除を手伝わないと。…今拠点の中は大惨事だからな」
「僕の用の前に、…その、エルマノスの皆さんは何をしてるんですか」
「ステイトたちがシエゼ・ルキスに帰るから、武闘大会の総合優勝祝いも兼ねてパーティーを今夜、な。その準備だ」
結局エルマノスの奴らが騒ぎたいだけなんだが、と付け足しながら髪の小麦粉をはたくゼツイさんに、ティグレさんが声を上げた。
「あ、じゃあ僕も行きます!お花とお菓子持っていくので」
「お前な…」
にこにこして全く反省してない様子のティグレさんは、もうすっかり緊張も解けたようだ。最初は困惑を見せていたゼツイさんも、どうやらちゃんとティグレさんと話ができて嬉しいみたいだし…。
わぁわぁと二人が漫才みたいに話す様子は、本当に仲のいい先輩と後輩って感じだ。その輪に入れないのは寂しくないわけじゃないけど、…それよりも嬉しい。ミンミが、この二人は仲が悪いって言ってた時は心配だった。
でももう大丈夫、だろうな。
少しの沈黙が降りると、海から波の音が聞こえてくる。ふわっと潮風の中に、町の人たちの夕食準備の匂いがしてお腹がなりそうになる。
改まった空気に変わると、ティグレさんが穏やかな表情のままゼツイさんに言った。
「…先輩、すみませんでした。やっぱり僕、あなたを尊敬しています。例えあなたが剣を捨てても、僕を避けるようになっても…僕はライデンシャフトで剣を振るう度に先輩のことを思い出してました」
「…俺も、意地張ってたな。素直に後輩が強くなったこと、喜べなかったんだし…。…ティグレ、お前は俺より強くなったんだ。もう俺のことはいいから好きなように生きてくれ」
…俺、ここにいていいのかな。ちょっと不安なんだけど今更抜け出すこともできないから、とりあえず気配を薄くして雑草になろう。そうだ、あの石畳の隙間から咲く花のように。
俺がそんな風に冗談でも飛ばしたくなるのは、もう二人を放っておいてもちゃんと和解しそうだからだ。だったら俺は雑草になって二人を見守ろう。…事情はあまりよくわかってないんだけどな。
ゼツイさんの言葉にティグレさんはゆっくりと首を振って顔を上げた。さら、と金の髪が風になびく。
「もう僕は好きなように生きています。…だから、僕は先輩と戦いたいんです。でももう先輩の後輩としてじゃありません…。僕と…戦士として戦ってくれませんか。
戦い方は先輩に任せます。久しぶりの剣でも、篭手で固めた拳でも。…僕の憧れだった戦士のゼツイ・ナギリさんと戦いたいんです」
真摯な言葉だった。…憧れの人と戦いたい、か。ふとニコラのことを思い出して、心の中で苦笑いする。俺の憧れはきっと、ティグレさんがゼツイさんに抱いてるものとは少し違うんだろうけど…。けど、戦ってみたい気持ちは分かる。
俺は純粋に、あのバカニコラを見返してやりたいの一心だ。だけどきっと、ティグレさんは違う。
俺の考えたことは、そのまま口に出てしまっていた。
「ティグレさんは、ゼツイさんと戦うことが楽しいんだな」
「…はい。好きなように生きさせてくれるなら、僕は先輩と戦うことを望みます。…楽しいんです、先輩と戦うともっと強くなれる気がして」
「毎度負かされる俺の身にもなれ」
そう言いながらも、ゼツイさんは全く厳しい顔をしていなかった。心の中に固まっていたものがようやく解けていったような、すっきりした顔でゼツイさんが大きく頷く。
「いつでもいい。俺と戦いたいなんて未だに言い続けてるのは、ラグリマとお前ぐらいだ」
「…!ありがとうございます!じゃあ、えっと、今日!今からでもいいです!あっ、武器持ってくるの忘れた……せ、先輩、素手で!」
「落ち着け」
ぱぁっとティグレさんの顔が明るくなった!いや、もともと明るくてにこにこしてるというか、爽やかな人だなと思ってたけど…一気に子供っぽくなった。こんなところをあのファンの女の子軍団が見たらどう思うんだろう?
それでもこの、『美しい』とか『優雅』よりは『無邪気』なのがティグレさんだったんだろう。ゼツイさんが笑いながらティグレさんを押しのけてるのを見て、思わず俺も笑ってしまった。
と、ちょうどそのとき。ギィ、とまた扉が開いて中から誰か出てきた。浅黒い肌に金髪、頬の傷…、あ、ラグリマ。なんか疲れ切った顔で出てきたからどこのオッサンかと。
「おーいゼツイー、そろそろ手伝ってくれよォ………って、おいおい。…ティグレじゃねぇか」
それとステイト、と取ってつけたように俺を見てラグリマがつぶやく。一瞬複雑な表情をラグリマが浮かべたのは、二人の関係をよく知っているからなんだろう。けど今の二人の様子を見てその表情はすぐに消えた。
ぽかん、としたラグリマの顔がゆっくりと安心したようなものになり、わざとらしくため息をついて見せた。
「なんだァ、俺の見てない間に仲直りしたのか。良かったじゃねーかァ、ゼツイ。お前結構気にしてたもんなァ」
「ラグリマ、今は何も言うな」
「先輩…気にしてくれてたんですね…!やっぱり僕、先輩が大好きですよ!」
「やめろ!」
…。俺氏、おいてけぼりです。ラグリマはニヤニヤしながらゼツイさんたちを見守ってるし、ゼツイさんはまだ小麦粉がついたままだし、そんなゼツイさんに大げさに抱きつくティグレさんはもうすっかり最初の印象とは違うし!
あ、小麦粉関係ないか。
俺どうしよう、と思ってたら突然ラグリマが肩を組んできた。うおっ!
「ステイトー、聞いたぜ。なんだよいきなり帰るなんて、もうちょっとここにいればいいのによォ」
「いや、もう用も終えたし!エルマノスには世話になったから、今日の夜のことも…そこまで送別会とかしてもらわなくても良かったのに」
「俺たちはおやっさんも含めて全員騒ぎが好きだからなァ!っつーわけで準備中なんだがよ、…大惨事なんだわ!」
そんな明るく言われても困る!ちら、とラグリマがゼツイさんとティグレさんを見て、うんうんと頷いた後にくるりっと俺の体を拠点の方に回転させた。……あら、イヤな予感が…。
「まぁ人手も足りねェし?俺たちのゼツイさんは今から仲直りした後輩君と積もる話もあるだろうし?ゼツイの代わりにステイト、準備…手伝え、なァ?」
「ちょーっと待った!ゼツイさんがティグレさんと話をするために準備を抜けてもいいってのはいい気の遣い方だ!けど代わりに俺を投入するのはどうかなーって!」
「ハイハイ行こうかァ、ステイトー」
「ぎゃーっ!」
凄まじい速さで服の首根っこ部分を掴まれた、と思ったらズルズルズルとラグリマに引きずられて俺の体は拠点の方へ…!ちょ、ちょい待てよこんな風に捕まえられた時の対処法は何だっけ!?つかラグリマ、力持ちだなお前!
ゼツイさんが両手を合わせ、『悪いな』と目で合図してくるのと、ティグレさんが笑顔でぶんぶんと手を振ってるのが見えた。けど遠ざかっていく!
ズルズルズルッ、と俺のささやかな抵抗もむなしくラグリマは俺の体を引きずり…、ガチャ、とエルマノスの拠点入口の扉が開き、…。…。
**
―――ドンガラガッシャーン!
『あ、ステイトがテーブルクロスに引っかかってずっこけたァ!』『何やってんの少年ー、ほら頑張りなさいよ!』『うおー、皿がまた天に召された…』『ステイト君大丈夫!?』
……。
―――ドガッシャーン!
『今度はラグリマがまたやらかしたぞ!』『だから皿洗いの食器を投げるなと何度言えば…』『また買いに行くのか、店のオヤジに笑われるぜ』『ざまぁねーなラグリマ!』
……。え?掃除は進んでるかって?俺が強制的にも準備に参加して状況はよくなったかって?…さぁ見てみよう。もうすっかり空はオレンジと藍色が混ざり始めた頃だってのに、状況はちょっとマシになっただけ!
まぁせいぜい床一面に広がってた小麦と水をなんとかしようとして奮闘中、さらに散らばって割れた皿の破片を捨ててはまた新しいのを割り、ギルドの皆で騒いでるだけ…!
見事に転んだ俺は黙って体勢を立て直す。…こんな状況で夜のパーティーとか言ってる場合じゃねえだろ。床には小麦粉、ぶちまけられた水、汚れたテーブルクロス、割れた皿の破片、自由すぎるギルドメンバーたち。
横に走り寄ってきたミンミが俺の無事を確認して、あぁ、と小さく声を漏らしてた。
「こんなときに買い物に出てるマスターが帰ってきたらどんなことになるか…」
―――ガチャッ
「てめぇーらぁー、準備は進んでるかぁー………って、…こりゃ…」
ピシッ、と空気が凍った。一瞬だった。俺の背筋も伸びた。ミンミも凍った。ラグリマも他のギルドメンバーも、その時していたポーズで時が止まった。
帰ってきたのはギルドマスター、デイゼンさん…!うわぁぁ怒られるぞ!現状、どう見ても準備は捗っていないどころか寧ろ大惨事…ッ!終わった、と誰もの心の声が聞こえてきた。
そうか、と低い声のデイゼンさんが一歩前へ踏み出すと、ギシ、とギルドメンバー全員がデイゼンさんの逆鱗に耐えるべく身を固くした!当然俺も…!そして、デイゼンさんの次の一言!
「…3分で片づけたら一人あたり賞金1000!」
『ウィッス!!』
ダダダダダダッ!
そして時は動き出す。…え?俺?もちろんちゃんと動いてますよ?持ち前の素早さとバランス力生かして、今度は死んでもこけないように全力で掃除に貢献ですよ?
金で釣られるなんて分かりやすい、なんて言うなよ。だって、誰が思っただろうか…本当に3分以内でまさかキッチリと掃除を終えたどころか装飾まで部屋に施したなんて!
当然3分後、本当にやり終えたメンバー全員たちが真っ白に燃え尽きた。俺含め、床に伏せた。…疲れたなんてモンじゃねぇ…!
デイゼンさんは満足げに頷いた後、のしのしと奥のキッチンに食材を運びに行った。それを目だけで見送った俺たちは、ミンミの次の一言に絶望した。
「…さっきマスター、『3分01秒だな』ってつぶやいてたよ…」




