1 濡れ衣
カラカラーン、と間抜けたベルがドアを開いたときに鳴り響いた。
俺はけだるーく通いなれた薬草屋に入る。入った途端、薬草屋ならではの青臭い匂いが鼻を突いた。
まだ朝日が昇ったばかりだし客はいない。カウンターの後ろにたくさんの棚が並ぶこの店は俺のバイト先だ。
ぴょこ、とカウンターから小柄な金髪の女の子が飛び出してくる。
「あっ、スティだ!」
「おーう、おは。アリシア」
俺が手を振ると嬉しそうにニコニコするこのちっちゃい女の子はアリシア。この薬草屋の店主の妹。とにかくちっさくて可愛い。
本当は店主と血縁関係ではない。この子が小さいとき、捨てられたところを店主が拾ったんだ。
アリシア、お前もいい人に拾われたよなぁ。アリシアが天使なら、店主のヨーウェンさんは素敵な神父だ。いや、薬草屋なんだけど。
「スティ君おはよう。今日も早いね」
ちょうど店の奥の扉が開き、メガネをかけた穏やかなお兄さんが出てくる。この人がヨーウェンさん。まだ20代の若さだが、町中の人からの信頼を得ている薬草屋。
そして誰にでも優しく慈悲深い。俺みたいな、世間をお騒がせした元盗賊でも雇ってくれる。
ヨーウェンさんが俺を雇ってくれると言い出さなかったら、俺は今も城の牢屋にポツーンだろう。
あ、俺。俺はステイト。およそ17歳のバリバリの少年。チビガキの時に捨てられ、俺を拾ったのが盗賊だった。俺を稼ぎ手にするためな。んで、俺は盗みの英才教育を受けた。
それからつい2年前まで、世間でいうところの天才盗賊としてこの王都の町を騒がせまくった。…悪い意味で騒がせたんだけど。
でも別に誰かを殺したとかじゃない。単純に、物を盗みまくっていたのであーる。
それでも貴族の家に侵入したり、ひどいときは城にも入ったし、もうやんちゃ極めれり?とか言うの?
まぁ結局捕まって、数年牢屋に入ってろってことだったのを何故かヨーウェンさんがうちで働かせますって引き取ってくれた。
ヨーウェンさんはそのお人好しで温厚な性格で町中の皆から絶大な支持を誇っている。ヨーウェンさんが引き取るなら、ということで俺は解放され、今に至るんだ。
俺も生活のために盗みをやってただけ。それに俺に盗みの指示をしてた、俺の幼少の拾い主である盗賊団も俺が捕まってからトンズラしたらしく。
生活が保障されるなら盗みをやらなくてもいいんだし、俺も晴れて盗みから足を洗えたのである。
わーい。もうこれでアホ騎士から睨まれなくて済むわけだ。
…って感じで2年、俺はまっとうな町人生活を送っている。俺にとって、ヨーウェンさんは恩人、アリシアは妹みたいな存在。かなり平和だ。
「スティ、アリシアね、きらきらできるようになったの」
「きらきら?」
アリシアは今年で11歳になる。でもちょっと幼さが抜けきらないし、小柄だしで年齢より低く見られがちだ。
それでも俺みたいな目つきちょっと悪い系男子にも分け隔てなく接する天使である。じゃなくて。きらきらってなんだ?
アリシアがにっこりと微笑んで人差し指を少し前に突き出した。すると、そこからきらきらの光があふれだした。
「うおおおっ、アリシアすげええぇ!」
「でしょっ、でしょっ、これね、ケガ治せるの!」
「アリシアすげええぇぇ!治癒術とか!神官になれるじゃんか」
「でもアリシアはヨー兄と一緒にお店するの!」
「ですってよ、ヨーウェンさん」
なんて健気な妹なんだ。しかも、この町でも治癒術を使える人なんて数少ないしすぐ神官になって城仕えできるってのに。貴重なんだぞ、治癒術は普通の魔法よりも素質選ぶし。
俺はこんな感じの素質は全くない。びっくりするほど魔法の素質はゼロ。ちなみにヨーウェンさんは、魔法の素質あるらしいけどやってないんだとか。
俺の言葉に、薬草の入った棚をいじっていたヨーウェンさんが振り返ってアリシアに微笑んだ。
「そうかぁ、お兄ちゃん幸せだなぁ」
「えへへ」
うーん、平和だ。俺はこんな感じの兄妹をいつも見守る係である。うーむ、ヨーウェンさんは町の人気者、アリシアは将来有望、一方俺は元盗賊。シュールだな。
そんなことを考えていると、外からガランガランと大きな鐘の音が聞こえてきた。これは町の中央市場が店開きした音だ。
ヨーウェンさんがその音を聞いて、俺を振り返った。
「そうだ、スティ君、買い出し頼まれてくれないかな。市場に売ってる薬草なんだけど」
「はーい」
お安い御用。てか、俺は普段から買い出しと接客要員だし。盗みから足を洗ったばかりの頃は市場の人からの視線が痛かったけど、もうすっかり今は慣れている。
俺も市場の人も慣れて、今では普通に世間話をする仲だ。
さぁて、市場が混む前にさっさと買い出しするかぁ。ヨーウェンさんから買い物リストメモと財布を受け取り、俺はふらふらっと店を出た。
今日はいい天気だ。ぽかぽか日差しが気持ちよく、風が通り抜けていく。市場はにぎわい、あちこちから客引きの声がする。
町の中央の時計塔のすぐ下にある広場、そのすぐ隣に市場のテントが立ち並んでいるんだ。まだ店開きしたばかりだけど人がいっぱい。
俺はといえばさっさと買い物を済ませ、今はふらふらーっと用もなく市場のテントの間を歩いている。
『あっ、盗賊小僧』
「元だよ、もう今はやってねーっての!」
『ステイト、俺の店からも何か買ってけよー』
「今日はヨーウェンさんのお使い!また今度遊びに行くからさー」
『ステイトー、リンゴあげるわよー』
「おっ、ありがとなーっ」
―――うん。俺ってば有名人。じゃなくて。
これもヨーウェンさんの人望あってこその態度なんだよなぁ…。うう、感動。盗賊団以外と話することなんて、小さいころにはなかったし。
そういえば、市場近くには大きな掲示板がある。ここに町のニュースが書いてある紙を掲示していて、町の皆はこの掲示板で情報を得ているんだ。
俺も市場に来るたびにチェックしている。
…でも、なんか今日は騒がしくね?
掲示板に人がたかっているのはいつもだけど、今日はなんか多いし皆の表情が変だ。殺人事件でも起きたか?
なんか、みんなざわざわっとして顔を見合わせたり首を傾げたり、不安そうにしてたり…。
人波をよけてすーっと寄って行って掲示板を見ると、…あれ?…俺も驚きに目をガッツリ見開くことになってしまった。
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『城の宝剣セインレム、盗まれる!』
境界戦争の勇者、ルキスの剣セインレムが昨晩盗まれた。
未だ犯人は特定できず、さらにセインレムの魔力で封じていた魔物や魔族が封印から放たれて活動開始。
各地で魔物や魔族が活発に動き始める可能性大、セインレム盗難の有力情報には城から褒美が与えられる。
お近くの駐屯騎士、または城まで、情報求む!
シエゼ・ルキス城
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な、なんてこったい。
いや、これって本気でダメなやつじゃん。
まず、昔に人間と魔族が戦って、魔族のあまりの悪さに怒った神様が人間へ剣を授けて、人間が勝って魔族や魔物を封印したりしたんだろ。
んでそのときに鍵となったのがその聖剣で、城の台座にドッシーンと刺さってて。
えっ…盗まれたとか。いや、バカじゃん、魔族解放とか…うーん。現実味ないな。
元盗賊やってた俺からの意見。えらそーに語ってやるぜ。
その一、今は別に王国はどの国ともどの種族とも戦争とかしてないし、すっかり平和ボケして城もザル警備。
俺でも盗みに入っちゃおうとか考えちゃったぐらい。
その二、だけどその剣は盗んじゃいかんよ。つか重いんだろうし、台座から抜いたら魔族の封印とか解けるんだろ?って、まず普通に抜けちゃうものなの?
要約。何故盗んだし。
あんなもん、すぐに特定されるからヤバくて闇市場にもかけれねーよ。
さすがに、普段は俺に元天才盗賊だーって冗談を飛ばしまくる奴らも俺に何も言わない。冷静に考えたらこれ、しゃれにならねーじゃん。
騎士団とか大変なんだろーな…。今から剣と犯人捜したり、各地の魔物討伐が激しくなったり。
あ、魔物とか魔族は今も普通にいるらしい。昔の戦争で負けて、魔族の国と人間の世界はクッキリ別れたから会うこともないだけで。
魔物は町から出たら普通にいるけど俺は町から出たことねーし。
剣に封印されてたってのは、昔大暴れしてた問題児的なやつ。あとは剣の魔力が魔物の出現を抑えたり、魔族の力を抑制してたらしい。
さすがにこれは一般常識だ。学校に通ってない俺でも知っている。
あーあ、騎士団お疲れ。でも町から出ない俺には関係ない。さっさと店に帰ってヨーウェンさんに伝えるか…。
「帰ろ」
「よぅ、悪ガキステイト」
「…ん?…んげっ、てめーは」
市場からクルリしようとした俺に声をかけてきたのは、簡易鎧を身にまとうデカい騎士。
げー。俺が多分一番嫌だと思っているやつじゃねーか。
忘れもしない二年前。城に忍び込んだ俺をボコボコにしてお縄につかせた張本人。
悔しいぐらいに整った男らしい凛々しい表情、涼しげな黒髪に藍色の目、好戦的なんだか真面目なんだか分からない爽やかな笑み。
シエゼ・ルキス騎士団第3小隊隊長、ニコラ・シフィルハイド!
「ニコラ!あっち向いてホイッ!」
俺より頭一つ分高い、この小隊長様に渾身のあっち向いてホイ。右だ!向いた!やーい引っかかったバーカバーカ!…の隙に逃げ
「ん?なんでお前は逃げるんだ?」
ガシィッ。あらっ。明らかに俺から注意をそらしたのになんでアナタのがっしりした腕は俺の肩を掴んでるんですかね。
見上げるとニヤァッと笑みを浮かべられた。畜生。騎士は好きじゃねーけどてめーは特別嫌いだ。
「何の用だよっ、俺別に何もしてねーぞ!」
「そういうセリフは何かをやったやつが言うモンだな」
「くっそ、ほんとに何の用だよ。俺ヨーウェンさんにお使い頼まれてんだけど」
ニコラなんて可愛い名前のくせにこのクソ騎士は不釣り合いなガッシリ体型と馬鹿力。はよ肩離せ。おっ、離れた。よしっ。
俺の全力の睨みもフンッと一笑いに吹き飛ばし、ニコラが言う。
「聖剣セインレムが盗まれたことは知ってるな?」
「さっき掲示板で見た」
「掲示板で見た、じゃねーだろ。あれ、お前が盗んだんだろ?」
「…はぁ?俺がぁ?」
ちょっとー、この騎士様ったら真顔じゃないですかぁー。…えっ?…えっ?
お、俺?なんで?
「ちょ、待てよニコラ。なんで俺?」
「すっとぼけてんじゃねーよクソガキ。前科あり、盗みの技術あり、王族へのうらみありなんてお前ぐらいだろうが」
「ストーップ。前科はある。技術もまぁ認める。でも王族へのうらみなんてないし、ほんとに俺じゃない。冗談じゃない」
「前回捕まって、王族を恨んでるだろ」
「お前を恨んでる」
俺、これ以上ない真顔。あんときのことは忘れねーぞ。壁に隠れて後ろへの警戒を怠ってた俺を、後ろから羽交い絞めにして完全ホールドしたあの日を。
あんときに俺の耳元で『思ったよりガキだしちっせーな(笑)』とか囁きやがったてめぇは許さん。
俺のあふれ出る殺気に逆にニコラは呆れたらしい。はぁー、とため息をついた。
「…。お前な。…まぁそれはどうでもいい。城の占い師が盗難現場の当時を占ったらお前が盗んだって結果になったんだ」
「…?占い師?」
「魔法使いの一種だ。政治とかにも関わっている。水盆に過去を映す占いで剣が盗まれた時の様子を映したら、このピンピン茶髪チビガキが映ってたわけだ」
「誰がチビだと、あぁん?…じゃなくて、……その占い、俺にそっくり、とか。俺に変装した誰か、とか」
「仮にそうでも、お前の無駄に天才的な盗みの技術に他がかなうのか?お前ぐらいの年頃でこんな芸当をやらかすのはお前ぐらいだ」
「でも俺じゃねーんだって…。ほんとに。神に誓う。昨日とか思い切り寝てたし」
昨日の夜に起きたらしい事件。俺は薬草屋の向かいの建物の一部屋を借りて暮らし、昨日は爆睡。当然一人暮らしだ。残念ながらアリバイなんてない。
「アリバイはねーよ。けど俺じゃない。ほんとーに俺じゃない」
ハッキリ言ってやる。ニコラの絵具より深い藍色の目をまっすぐ見て、俺は言い切った。だがニコラは聞いてない。
「じゃなくてもまずは俺と来い。話は城で聞く」
こんの、石頭!城まで行ったらなんだかんだ言い分つけて俺に容疑がケッテイじゃねーか!
悪いけど俺を拷問しても剣の在り処なんてわからねーぞ!ひとまずこの場を何とかしねぇと。
ずっ、とニコラの腕が伸びる。こんな緊張感、久しぶりだ。
ニコラの右腕が、俺の左肩を掴もうとする。視界にはちらちらと俺たちを見ている何人かの町の人が見えた。ああ、もう知らねーぞ。
「っ、は!」
指先が俺の肩に触れる寸前。俺は身を沈め、左側に素早く転がり、身を起こし、地面を蹴り、…今だ!
路地に転がる空き瓶やデカい樽を盛大に崩しながら、細路地に滑り込んだ!
振り返る暇はない。後ろからニコラの怒号や町の人の悲鳴が聞こえたけど、気にしてる場合じゃない。
さて、このまま路地にいるのはよくない。とは言え、この細路地に直接ニコラは入ってこれないはずだ、だってデカいもん。
でもニコラ一人が俺を探していたわけじゃないはずだ。…あの様子だと他にも隠れてる。
と思った瞬間。火球が突然俺の頬を後ろから掠めていった。
「、魔法使いいるのかよ!」
やっべ、魔法とか!俺は魔法を直接食らったことまだないけど、こんなの一度だって食らいたくねーよ!
『いました、こっちです!』『捕まえろーっ!』
ギャーン。誤解だって!俺じゃないんだって!ええい、火の玉うっとうしい!
このあたりの細路地は俺にとっては庭である。逃げるのは余裕、だけど逃げ続けられるかは不安。
これはほとぼりが冷めるまで騎士には見つかりたくねーな…。
占い師の占いが間違ってたかもしれないし、剣を盗んだのほんとに俺じゃないし…。
でも、のこのこと城に行っても都合よく俺に罪が回ってくるんだろう。実際、ニコラや騎士は俺が犯人だって思い込んでる。
あー、もう。どうしよう。
細路地を走り回りながら途方に暮れる俺だが、やっぱり頭にヨーウェンさんとアリシアが真っ先に浮かんできた。彼らには分かってほしい、信じてほしい。
でもこの様子じゃ店に騎士が行ってるかもしれない。正面玄関から入るのは無理、裏口もナシ、とくれば…。
「…っ、地下か」
この町の地下通路を通って床下からこっそりオジャマするしかない。どうせ騎士は店に俺がいないのを知ってるんだから、外からの入り口しか張ってないだろ。
それにこの町の地下通路は町がデカいだけに死ぬほど複雑。でもガキの頃からこの町で盗みを働いてきた俺にとって、地理を覚えるのは計算を覚えるより簡単だ。
あと少し行けば井戸がある。井戸には実は地下通路への入り口が隠してある、そこから行くしかないな。
動け俺の脚!もう風より早くなれ、いざ井戸ダイブじゃぁああ!
追っ手をまいて井戸ダイブ、からの隠し扉コンニチハで地下通路なう。うおぉドブ臭っ、この匂いも久しぶりだなー。
暗いところでも俺は割と目が見える。苔とネズミ、虫のパラダイスと化している真っ暗闇をかっつんかっつんと足音響かせて走り抜ける。道順は頭に入ってるから自然に足が進む。
あー、アリシア、騎士に怖がってねーかなぁ。あの子人見知りだしシャイだし…。ヨーウェンさん、俺のこともう信じてくれないかも…。
もしヨーウェンさんが俺を騎士に突き出せば終わり。誤解が解けるまで、真っ向からの涙の毎日になるだろう。
やだやだやだ。
でももし、ヨーウェンさんが力になってくれるなら…?うーん、どうなるんだ俺。
つまり、なんにせよヨーウェンさんに会わないとな。足元をネズミがキィキィ怖がって鳴いてたけど、うるせぇ蹴っ飛ばすぞと思う間もなく走り続けた。
―――カツンカツンカツン、ピタッ。俺、止まる。
俺の記憶が正しければ、この壁の梯子を上ってノブを回してパカッと開けば薬草屋の奥のヨーウェンさんの居住スペースの台所に出るはずだ。梯子を上り、地上に近づく。
すると、上からアリシアの澄んだ歌い声が聞こえた。ビンゴ!
アリシアはすぐ近くにいるようだ。いきなりここが開いたらびっくりするだろう。俺は控えめにこんこんと上を叩いてみた。するとアリシアの歌い声が止んだ。
上から声が聞こえた。
『ヨー兄ィ!マックロネズミさんだよぅやだぁぁぁっ!』
…えっ?違います。俺です、ステイト君です…とは言えない。
マックロネズミってのは地下に住んでるデカくて怖いネズミだけど…いや、まぁ誤解されてもしゃーないか。
たまにこのネズミ、どこからともなく民家に忍び込んで食料を食い荒らす。しかもデカいし強いし、特別な薬を使うか刃物でグッサリいくしか退治できない。
マックロネズミに効く香を焚いて追い返すのが常だが、この香とにかくキツい。薬草系に耐性のあるヨーウェンさんとアリシアは平然としてるけど、俺にはかなりこれがきつかった。
えっ、香焚くの?それはやめたほうがいいかなーって…あっヨーウェンさんの声が…。
『それは困ったな、アリシアは二階にいなさい。すみません、マックロネズミを妹は酷く怖がるんです…騎士の皆さんは少しの間外へ。うちの香は特にキツくて。
ああ、私たちは普段から薬草を扱いなれてるので平気です。すみません、30分ほどお時間を…』
やっぱ騎士来てるのか…。って待てよ。さっき香焚くって…あれ、俺ヤバくね?
ざんざん、と足音が聞こえた。店に来ていた騎士が外に出たのだろう。かつかつと台所へ足音が近づく。やべぇぇぇあの香焚かれる…!逃げ
―――パカッ
「ようやく帰ってきたね、スティ君」
口元に『静かに』のジェスチャーをしたヨーウェンさんが、地下への扉を開けて俺に小声で話しかけた。
「よ、ヨーウェンさん、なんで」
「騎士の人が来て、君が聖剣を盗んだって言ったんだ。でも僕には信じられなくて。
もし君がこっそり逃げ帰ってくるなら地下だと思って、アリシアに一芝居うってもらったんだ」
ウインクするヨーウェンさんに、台所へ這い出した俺はぽかんとした。二階からぱたぱたとアリシアが降りてきて、小さい声で俺に言った。
「スティ、もう悪いことしないって言ったもん」
「うん、ほんとだアリシア。俺は何もしてないんだ」
「だろうね…スティ君が聖剣を盗む理由はないし」
アリシアの言葉に俺は強くうなずき、考え込むヨーウェンさんを見つめた。ヨーウェンさんは店の入り口を気にしながら小声で続ける。
「とにかく、時間がないんだ。僕とアリシアは君が犯人でないと信じてる。そしてスティ君が正直に騎士に無罪を言っても、前科のせいで拘束されてしまうだろう。
そうなったら後が怖い。でもスティ君の無実を証明する強い武器がないんだ」
「…はい」
ヨーウェンさんの説明に俺は深くうなずく。アリシアはまた二階へ上がり、わざわざ外へ聞こえるぐらいの大声で『ネズミいやあぁぁ』と叫び始めた。
あぁ、二人に迷惑かけてる。俺にとっての、本当の意味での大切な人たち。申し訳なさでいっぱいだけど、俺が一番困惑している。
ヨーウェンさんは台所の机の上の背負うカバンを俺に渡した。
重い。…これって。
「これ、…食料と、お金?」
「ああ。しばらく君はここから離れたほうがいい。君の無実を証明するには、城の占い師より強力な占い師に真実を確かめてもらうしかないんだ。
本当に犯人が君でないなら、君の助けになるだろう。この町を地下通路から抜け出て、まずはこの王都を出て西へ行くんだ。地図はカバンに入ってる。
西に行くと神官と占い師の集まる聖王国セレネがある。そこで誰かに事情を話して協力してもらうんだ。
聖剣には特殊な守りがあって、占い師は聖剣の行方ははっきりとは分からない。だけどセレネの大神官ぐらいの実力者なら探れるだろう」
…ヨーウェンさん。
「なんで、…俺にそこまでしてくれるんですか?」
俺は荷物を見つめたまま、少しだけ震える声で言った。ふふ、といつものように笑むヨーウェンさんが、俺の頭をアリシアにするように撫でる。
「君は悪い子じゃない。今回だって、君は何もしてない。むしろ、これだけしかしてあげられなくてごめんね…」
「…俺、絶対無実を証明して帰ってきます。道中の魔物、追っ手の騎士なんて屁でもねぇし!…だから、その」
言葉に詰まる俺を見て、ヨーウェンさんがまた俺の頭を撫でた。くすぐったい。
「ああ、わかってる。いつになっても、僕とアリシアは君の帰りを待ってるよ」
「…すみません…!俺、俺、…ありがとうございました…!」
なんだこれ。なんだこれ?
顔が熱い。目が熱い。俺、もうしばらくここに帰ってこられないんだって思ったらなんかおかしくなってきた。
二年って大きかったんだな。人を疑ってばかりの目つきギラギラな俺を笑って受け入れてくれたヨーウェンさん。恥ずかしがり屋だけど優しいアリシア。
だんだん慣れてきた町、普通の生活。あったかくて、誰かがいつも傍にいてくれた。
嬉しかったんだ。俺。
でも行かなきゃ。長話してたら、ヨーウェンさんまで捕まってしまう。
「ヨーウェンさん、俺行きます。アリシアにも伝えてください、…お元気で!」
「君の成功を祈ってるよ、ステイト君」
あー、そういや。
ステイトって名前をくれたのもヨーウェンさんだ。スティって愛称をつけたのはアリシア。
大事にしよう。本当に。また呼んでもらえるように。
俺はまた地下へ潜り込んだ。うえっ臭っ。荷物を背負って俺は振り返らずにまた暗い地下通路を走り出した。下水の匂いは昔を思い出させる。
遠く遠く進んだころに、遠く遠くからマックロネズミを退治する香の匂いがかすかに漂ってきた、そんな気がした。