93 光の世界
俺が飛び込んだ光の世界は、何もない不思議な世界だった。
*
頭からまっすぐ下へと落下していく。真っ白に輝く光の世界。こんな景色が続いてもうどれぐらいになる?落ちれば落ちるほど、現実世界が遠くに思えてきた。
俺、ちゃんと生きたのかな。これからどうなっても後悔しないかな。いや、死ぬつもりなんてないけど!…ただ、こんなに落ちて落ちて落ちて、元の世界に戻れるんだろうか。
と。バチャーンッ!と突然俺の体は豪快に水にぶつかって沈む。うおおぉっビックリした!けど…まだだ。まだ俺の体は俺の意思では制御できない。ずぶずぶと下へ、下へ沈んでいく。
俺はできるだけ瞬きをしないように世界を見ていた。真っ白な光の空間から、美しく蒼に輝く海に落ちても、暗く深い底へ沈んで行っても。…まぁ海なのか何なのか知らないけどな。
そういや苦しくない。さっすが『ガイネンの世界』とやらだな。やっぱりここは現実じゃないのかー、夢みたいなもんだよなー、と呑気に顎に手を当てながら頷く。体はなお沈んでいくけど…。
ふと、ぷかぷか浮かぶ泡が見えた。次第に闇を増していく海の底から、光の泡がぷかりぷかりと浮かんでくる。思わずホケーッと見惚れて……、…あっ。
泡に閉じ込められるように映っていた「景色」があった。こっちの泡は、シエゼ・ルキスの城下町。市場で誰かが談笑してる。…いつも通りの、日常。
こっちのは…これは聖セレネの聖都!そうそう、やたらピカピカしててキレーな街なんだよなぁ。お、これは…知らない街だ。そっちは?…あー!コットリア!しかもこれ、ココムの塔じゃん!うわー遊びに行きたい…!
そっちもあっちもこっちも、と次々に浮かんでくる泡を眺め続け、ふと気づく。…何で「景色」が泡に包まれて見えるんだろう。
沈みながらそっと目だけ動かして上を見つめる。水面の上は何もない光の世界。泡沫は昇って行く。きらきら光って、儚く輝いて。手を伸ばしても…届かない。
―――そっか。世界はノイモントに食われてるんだっけ。
暗闇の水底から逃れるように昇って行く泡。それもやがて、水面の上に辿り着くまでに弾けて消えていく。次々に、いつか祭りで見た花火のように。
…。眺めてる場合じゃない。いくら「終わり」が綺麗だからって、この世界は消させやしねぇぞ。…どんなに汚くて歪でゴチャゴチャでも、俺から世界は奪わせねぇぞ。
まだ俺の体にはきっちり刻まれてる。…今も耳の中で鳴り響いてる、優しくて低い声。
『例え俺の魂が縛られようと、大事なものを守れるならなんてことはない。それよりも、大事なものを失うほうが…俺はつらい』
―――…俺だって、大事なものを失うほうがつらいに決まってら…!
深く潜る。沈むんじゃなくて、自分の体を動かして、手を、足を、泳いだことあんまりないけどバタバタ動かして!もっと深く、あの闇の中へ、水底で待つノイモントへ!
疲れを知らない体で泳ぐ。泳いで泳いで泳ぐ!やがてもう闇に視界がとられて、音も何も聞こえなくなった時。
俺の手で掴んだのは、泥のような感覚。次いで、俺の体が泥に沈み込む。…掴んだ!…俺は今、このために生きてきた!
「全てを俺の物にしろ!…エレア・フェン!」
泥の中で叫んだ後。…一瞬心臓が暴れた。体がバラバラになるような痛みの後、体の奥底に眠る「全部」が体の外へ引きずり出された感覚がして…。
一瞬見えた強い光。暗闇の水底に、どんな花火よりも鮮やかな輝き。……あとは、俺の意思がなくたって、おれのからだが…なんとか…して、くれる…よ、な…。
「…きれーな、世界…」
もう、その後は知らない。
**
長い眠りのトンネルを抜けて、彼は目を覚ました。ざら、と柔らかな砂の感覚。眩しい光、それは雲一つない天から射す。
ゆっくりと体を起こし、唖然とした。その雲一つない天に、あの絶望的な闇は欠片もない。夢、だったのだろうか。
ただ、雲と闇のかわりに空を覆うもの。それは今までに見たこともない、天の架け橋。大きな、空を包むような虹だった。
「…いったい、何が…」
見回すと、まだ自分の近くでは何人かが倒れたままだった。ただ、その表情は穏やかで、誰もがまだ眠っているだけなのだと理解する。
だが、その中に自分の最も大事な者はいなかった。虹よりも鮮やかに笑い、空から射す光よりも眩しく話す…少年は、いない。
彼は手にある聖剣を深く砂漠に突き立てた。柔らかい砂の地に、剣は深くは刺さらず不安定に揺れる。
それに縋るように両手をかけ、彼は一人、下を向く。
乾いた砂に落ちた一滴。全てがまた始まった日、ニコラは独り、泣いた。
**
世界が深い闇に包まれた日。それは世界中の誰もが首を傾げた事件となった。
シエゼ・ルキス王国ではちょうどそのとき、王と彼の腹違いの兄とが真剣な表情で言葉を交わしていた。王は、城下町で暮らす兄を常に慕い、何かと意見を伺うことがあったからである。
このとき話していたのは、王が希望を託した一人の騎士、そして隣国の若き王子、…そして長らく姿を見ていない一人の少年についてだった。
世界が徐々に闇に包まれても、この兄弟は小さな薬草屋で取り乱すことなく話していた。
兄が養っている少女も同じく、強かった。真っ黒に塗りつぶされる世界に町中の人々が悲鳴を上げる中、彼女は笑顔のまま言ってのけたのである。
「アリシア、スティが帰ってくるまで泣かないもん」
元気づけられたのは青年二人の方だった。そうだね、と兄が微笑んだ時、ふと強い眠気が三人を襲う。…そして、次に目を覚ましたときには空はピカピカに晴れていたのだ。
無邪気にはしゃぐ少女の傍で、青年二人は何も言わず空を見上げる。大きな虹を見ながら、これからが大変だと密かに覚悟したのであった。
―――何かがまた、新しく始まった。
*
湖の町ユハでは、誰もが町の守り神として崇める水の精霊の祠に集まった。双子の神子は暗くなる空に震えたが、二人よりも怯える町の人たちを見て決意を固める。
髪を二つに結った強気そうな少女が立ち上がり、言った。彼女こそ双子の神子の姉の方である。
「何をビビってんのよ!どうせ雨でも降って終わりよ!」
「ルマ…さすがにそれは…」
「うるさいわよフゥ!神子ならシャンとしなさいシャンと!こんなときアイツだったらどうすると思う?」
強気な姉とは対照的に、物静かで気弱だが落ち着いている弟。姉の問いに少しの間があった後、弟はにっこりほほ笑んだ。
「きっと、『ビビるだけ無駄!どうせなら楽しめ!』…だね」
すっかり逞しくなった双子の神子を見て、水精霊の青年も後ろで微笑む。その後、町の皆…精霊の青年でさえも突如眠りに落ち、目が覚めた時の晴れ渡る空には驚いた。
「…雨でも降らしなさいよー!」
「だから…そうじゃなくって…」
ユハの町は、いつでも双子の神子を中心に回っている。
*
聖セレネ、聖都エリネヴィステ。既にこの町は、一足早く眠りについていた。神殿の庭に立つのは、人間の中では最も大きな魔力を持つと言われている大神官である。
大きな災いが来ると予感した彼女は、町の人々が災厄を目にしてパニックを起こす前に、その大きな魔力を使って予め町の人々を眠らせていた。
それでも彼女だって人間である。自分の魔力をもってしても、この聖都の人々しか眠らせることはできなかったし、その眠らせられる時間も長くはもたないかもしれない。
友好国アルギークから逃れてきた王子たちも同じく眠らせた。特に次男の方がうるさく、「何で兄貴は外に出られて俺たちはダメなんだーっ!」と叫びまわったため…物理的に眠らせた。
「私の杖殴りも衰えていませんわね…」
ヒュッヒュッと手にする杖を振る。装飾の付いた大きな杖は、代々の大神官に受け継がれる大事なものだ。決して人を殴るためにあるのではない。この杖で人を殴るのは彼女ぐらいだ。
また、この眠りも彼女の独断である。勝手に王まで眠らせたと知られれば後で面倒だが、たくさんの人々がパニックに陥るのも彼女には我慢できなかった。
「…やっさしいなぁ、エリネは」
「…何で起きてますの、アストック」
「エリネも所詮は人間。魔法の技術で魔族のオレに敵うと思わんといてや?」
「殴りますわよ」
ヒュッと彼女が杖を横なぎに振るが、彼女の優秀な補佐はおどけて見せながら軽く避ける。魔族である彼女の補佐は、真っ黒になりゆく空を見て言った。
「…これがノイモントってやつなんかぁ…もっと研究しとったら良かったわ」
「…していたところで、私たちにできることは何もありませんわ」
「珍し。エリネが諦めるなんて」
またヒュッと杖が振られる。補佐の横腹にクリティカルヒットしかけた杖は、補佐がぎりぎりでかわした。
「…ま、オレも分かってるで。こりゃ、魔界の魔王さんでも古の勇者でもどうにもならんわ」
「私でも?」
「そや。……せやから、な」
うつむいて悔しげに震える自分の主の手を、補佐は優しく握った。一瞬抵抗されたが、振りほどかれる前にもう一度強く握り直し、彼女の顔を覗き込む。
「世界が救えんでも、オレはエリネを守るで。それならできる。エリネは町の皆を守った。やからオレはエリネを守るんやで」
にかっと笑う補佐に、大神官は呆れたように笑った。
「…じゃあ、そのアストックは誰に守られますの?」
「キャロルに」
「……結局私なのね」
即答する補佐と、今度こそ笑った女性。しっかりと繋がれた手が黒い世界に落ちても、眠りに落ちても離されることはなかった。
*
『…なので、この議論は…』
『ごめん…私はもう…ひたすら眠くて…ふぁぁおやすみ…』
『そんなことより何で俺たちがいきなり目覚めちまったんだ?』
『…むぅ…』
『今は落ち着いてください。冷静に話を…』
「わっしょい」
『…今わっしょいっつったのどこのどいつだ』
「わっしょいしょいー」
シエゼ・ルキスの騎士団宿舎。借りている部屋の主は、そばかすだらけの顔を曇らせて数刻前に出て行った。世界の異常事態を察知し、騎士は広場に集められているらしい。
それも居候のエルピスには全く関係ない。いってらっしゃー☆と見送った後、突然頭の中で始まった『中継』に気だるげに耳を傾けていた。
世界中のドラゴンが次々と目覚めている。エルピスの知っている中では…残すところ、あと1体。竜界トップの『深淵の竜』以外、全てのドラゴンが目を覚ましていた。
由々しき事態である。既に起こりつつある災いについての意見交換がテレパシーで行われていたが、場は混乱を極めていた。
そもそも序列二位の天空の竜ですら居眠りしている始末。話をまとめようと持ちかけてきた雪原の竜が可哀そうなほどだ。思わず意味不明なことを呟いたエルピスは、引くに引けなくなって言った。
『そうは言ったってさぁ…今更どうしようもないよね?ボクたちが何かしてどーにかできるの?』
『序列下位の新米が偉そうに…!』
『落ち着いてください、大海の竜よ。…渓谷の竜でしたね、あなたの意見を聞きます』
雪原の竜は聡明な女性だと聞く。冷静で凛とした声に、踊る会議は静まった。ふぅ、とエルピスはため息をつき、応える。
『過去のノイモントを調べたんだけど、いくら小規模なノイモントだってどの時代の誰も止めることはできてないよね。じゃ、仕方ないよ』
『…新たにできる可能性の模索は?』
「ボクが考える限り…ない………ケド」
『…けど?』
誰もいない宿舎の小さな一室。エルピスは手を組んで、天井を見上げた。窓の向こう、世界は黒色に染まりつつある。
「予感がするんだよね。…ここで、終わらないって」
―――だからボクらも見守っちゃっていいんじゃないっ?
気楽な返事に呆れた竜もいた。が、少しの沈黙の後、雪原の竜は穏やかな声で返した。
『そう…ですね。私も何か、予感がします。……世界は変わりますよ』
*
黒に染まる空。淀む海。しかしロロターナのギルド、エルマノスは騒がしかった。
「なァにが、世界崩壊説だァ!俺の伝説はこんなところで終わらねェんだわ!」
「いよっ、ラグリマ」
「フーゴさん…お昼から完全にヤケ酒ね…」
別の魔法使いギルドが突如出した、『世界崩壊説』のビラがテーブルの上にある。なぁにを根拠に、とギルドマスターも笑っていたが、じょじょにおかしくなる海の様子に皆が閉口した。
こんなに荒れる海は久しぶりだ。天気は悪くないにもかかわらず、波風は強い。馴染みの人魚の姿もしばらく見ていない。
意外にも一番動揺しているのは、エルマノスのムードメーカー、ラグリマ・フーゴであった。そういやコイツ、怪談とかも信じて眠れなくなるんだよな…とテーブルに座るゼツイはぼんやりと思い出した。
この数日は漁にも出れず、依頼もなく、ギルドメンバーは拠点に揃ってトランプゲームに勤しんでいる。アガリッ、と今もどこかのテーブルから聞こえた。
そんな中、酒浸りの情けないラグリマに、受付嬢のミンミも苦笑している。
「困ったなー…、ナギリさん、どうにか…」
「うーん…俺もいろいろ試したけどダメだったし…、と、そうだ」
泣き上戸のラグリマは、老け顔に思われやすい顔を寧ろ子供のようにゆがませて酒をあおる。ふと何かを思い出した様子でゼツイが席を立ち、倉庫の部屋へと消える。
首を傾げて待っていたミンミにゼツイが持ってきたものは、すりきれた本だった。ページが日に焼けて変色し、あちこちが破れている。何度も読まれたものなのだろう。
ゼツイはにこにこしながらラグリマにその本を寄越した。いい歳した酔っぱらいの青年は与えられた本をじっと見つめた後、…突然スコーッと寝息を立ててカウンターに突っ伏した。
ナニアレ魔導書…?と震えるミンミに、ゼツイは穏やかな笑みを浮かべた。
「ラグリマの宝物だ。これ言ったっけな…、アイツ、俺とまだ会う前のちっちゃいときに海に落ちて溺れたんだとさ。本気で死ぬかと思った時、人魚が助けてくれたんだとか。
どんな人魚だったのかはよく覚えてないらしいが、強くてかっこよかったらしいぞ。その人魚に憧れてラグリマは修行を始めたんだって聞いたな。
そんなわけで小さい頃から人魚に憧れてるラグリマは、あの人魚について書かれた本が幼い頃からの宝物ってわけなんだ」
「へー…フーゴさんも可愛いところあるんだねぇ」
もう少し詳しく聞きたい、とミンミはゼツイにせがむ。ラグリマは人魚の絵が描かれた本を抱え、幸せそうに爆睡。いつも通りのエルマノスの空気は、空の黒にも染まらない。
ゼツイの話の続きは、少しの眠りの先へと延ばされる。
*
魔王城の庭は呆れるほど広いので手入れが大変だ。庭師のセヴァダは、暗くなりつつある空など気にせず目の前の作業に集中する。
弱った花は落とす。余計な蕾は摘み取る。枝を剪定し、落ち葉を集め、水をやり、…やることは大量に残されているのだ。天地がひっくり返ろうと彼は自分の仕事をする。
…が、いい加減邪魔しに来る師匠をどうにかしたい。
「セヴ、ここのお花のお手入れ、ちょっと手抜きじゃないかしらぁ」
「へーい」
「アラッ、こっちも!虫ついてるワヨ!」
「ほーい」
「そう言えば喉が渇いたワネ。セヴ、紅茶どこだったかしら?」
「アネさん…」
姑か。しかし師匠が怒っているのはよく分かっている。前に会った時に豪快に騙し討ちしたからなぁ…つかあれは俺じゃなくてステイトくんのせいじゃん…と振り返る暇もない。
だが、いつもより化粧が薄い気がする。化粧などなくてもその美貌はすさまじいが、美に対して手を抜かない師匠にしては珍しいことだった。
――やっぱ凹んでるのかね、アネさんも。
だったら魔王様にチクれば良かったのに、とも思うが。前にトルメルの少年に騙されて倒れた後、魔王に事情を聞かれても師匠は何も言わなかった。コケたのヨ、と微笑んでいた。
メンタルは誰よりも強いが体力は冗談のように無い師匠だ。魔王もバカげた言い訳に納得し、自分にも深く追求しなかった。恐らくすべてバレていたと思うが。
ただ、気まぐれでいい加減で自己中心なワガママ師匠がそんな風に気を遣ってくれるとは思っていなかった。本気であのトルメルの少年を気に入っているのだろう。
一番弟子としては寂しいような嬉しいような複雑な気持ちだ。…が、素直な感情を滅多に見せない師匠が、こうやって他人に八つ当たりしているのは…嬉しい。
――なんでもアネさんは抱えていっちまうし、時には弟子にぐらい甘えてくれていいんだから…ってやつだよなぁ。
他人事のように考えながらジョウロを下ろした。自分も師匠も、世界の異変が迫っているのに呑気なもんだと息をつく。しかし、これ以上何かが悪い方向へ変わる予感もしない。
だったら俺はいつも通り仕事するだけ。
ちょうどセヴァダが紅茶の缶を探しに歩を踏み出したとき、唐突な眠気が庭を包んだ。
*
――こんなことになるなんて。どうして僕はもっとレポート用紙を準備していなかったんだろうか。
氷の城・ザミグラッツで一人の学生が空を見上げていた。学生・ザハーロの灰色の目に映るのは、空が黒色に覆われていく景色。現実味を失ったこの景色に、ザハーロは絶望の前に興奮していた。
――この不可解な現象は何だ?何が原因で引き起こされた?あの黒いものは物質なのか?これが言っていた滅びと言うやつなのか?
あぁ、疑問が尽きない。溢れる好奇心と疑問に震えていると、空から風を操る少年が落ちてくる。
「ザハリスちゃんー!なんだか空がヘン……って、アレ?なんだか楽しそうだねっ」
魔族であるシャハンは、ザハーロの数少ない友人の一人となっている。ザハーロの初めてのおかしな友人は既にここを去ったが、どうもこの奇妙な現象にあの友人が関わっている気がしてならなかった。
そわそわと目を輝かせているザハーロに、シャハンは珍しく肩をすくめた。
「…うーん、聞こえてないみたいだねぇ」
氷の城の主は、今各地で目覚めたドラゴンと連絡を取るために城の中にいる。外で異常現象を見ているのは、一人の学生と一人の魔族、そして一匹の黒猫。
ミャッ、と声を上げた黒猫と共に、シャハンは笑った。
「世界の滅びを好奇心で見つめちゃうなんて…人間の学生もどうかしてるよぅ…」
それでも、自分も同じだ。どうしてか、この滅びがここで炸裂するとは思えない。何かが起きる、と予感がする。シャハンは誰にというわけでもなく、小さくつぶやいた。
「長の言うとおりだね。世界が…やっと始まる」
黒猫が長くあくびをした。
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「…、久しぶり?」
ルキスが目を覚ますと、そこは優しい風の吹く草原だった。自分の顔を覗き込むのは、懐かしい親友。その後ろに、長い冒険を繰り広げた戦友たち。
親友はにこりと笑う。
「来るの遅いんだよ。皆、待ってたんだからな」
「…あ、あぁ」
そーだそーだ、と後ろの仲間たちが口々に言う。戸惑いながら起きるルキスに、ころころと豊かに表情を変える親友が問う。
「俺の一族の子、いた?元気だった?」
「…君に似て元気そうな子だった」
「最高!」
親友、イハニメレテはぐっと親指を出して笑う。光が溢れる、風がそよぐ草原。魔王討伐のために旅したあのときと同じ、仲間たち。
――ここが俺の還る場所、か。
ルキスは目を閉じた。新たな継承者ならきっと大丈夫だ。彼は聖剣の力を持って、全てを守りたいと言っていた。その強大な力を持って、傷つけることよりさらに難しい『守る』ことを選んだ彼なら…きっと大丈夫だ。
ルキスは立ち上がる。もうその手には聖剣もなく、伝説の守護がかけられた鎧もない。勇者と言う肩書もない。最終地点に辿り着いた彼は、世界の希望を願いながら仲間たちを振り返った。
「行こう。俺たちも、新しい冒険へ」
草原は眩しい光に包まれる。明るい声が響き、彼らの姿が光の欠片となって風に飛ばされていった。巡る長い旅へ、ようやくルキス達は旅立っていった。
その様子を、二人は見ていた。草原にある大きな石の陰で、ひっそり座り込んで。
片方の小柄な少年が、隣の青年を突きながらくすくすと笑った。
「行っちゃったなー。俺たちはどうする?」
「……もう十分だ」
青年は自分の銀の髪を触りながらため息をついた。そもそも何故自分が、昔に死闘を演じた相手の旅立ちを見守らなければならなかったのか疑問だ。
しかし、ひらりと光の花びらが青年の頭に落ちて砕けると、どこか欠けたままだった自分の魂が元に戻ったように感じられた。
隣の少年はそれを見て、満足げに頷く。よっこらしょ、と立ち上がると茶色の髪が揺れる。青年はそっと少年を見上げた。
「お前はどうするんだ?」
「えーっと。…俺、ちょっとやりたいことがあってさ…。すぐ終わると思うからテキトーに待っててくれよ」
「何故私が待たなければいけない」
不満げに赤色の目が揺れる。おぉご機嫌ナナメ、と少年がおどけて笑う。そのまま青年の銀の髪を撫でた。星の川のように長かった髪も今はざっくばらんに切られて短い。
「ここでも私を一人にしていく気か」
「貴重なデレをありがとう。けど俺が行かなきゃ、あの子に綺麗な海を見せてやれなくなるんだよー。分かってくれって、シュメルツ」
「…ヴルカと呼べとあれほど…」
「はいはい」
青年が立ち上がると、少年は青年の白く長い手を掴んで指切りした。そんじゃ、と少年が笑む。
「すぐ戻ってきまーす!待っててくれよー、置いて行ったら怒るからなー」
「…早く……戻って、来い。…セテリノント」
「今日デレデレですね元魔王様」
ヒュッと少年がいた場所を炎の剣がなぐ。当たりませんよーだ、と言いながら光の粒となって消えた少年に、青年は忌々しそうに舌打ちし。
―――幸せそうに口元を緩めた。
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新暦・エレウテリア暦、元年。ソティルの月、1日目。世界は再び空を青く染め上げ、光に照らされた。
…まるで、何もなかったかのように。
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