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さざなみの子守歌

作者: 高沢りえ

 おいで、おいで、わたしのそばに

 おまえを包もう、あたたかなこの腕で

 ねむれ ねむれ、かわいい子


 波音が聞こえたような気がした。

 よく通るすんだ声と、折り重なるように響くさざなみの音は、現実のものではない。ここには、海はない。あの子も、いないのだ。


 寒気が背筋をはいあがり、鹿矢は我が身をぎゅっと抱きしめた。体のしんまで凍えそうだ。冷たい川の流れに腰までつかり、青ざめた唇を震わせながら、鹿矢はため息をころした。みそぎをして、けがれを落とす。今日は特別な日だ。

 吐きだす息は白い。

 生まれ育った故郷を離れ、鹿矢は十五歳になった年に都に召された。ここは比留女という女王の支配する国だ。

 高床の御殿は故郷のそれとは比べることもできないほど立派だ。長い長い階と、天にまで届きそうなほどの高みにある神殿は、日の光のもとまぶしく輝いて、夢にまであらわれたほどだった。

 立派すぎて、どうも身の置き所がない。ここへ来て半年も経とうというのに、鹿矢はなじむことができずにいた。

 故郷の浦辺の邑が恋しい。

 同じ年頃の娘たちがともに寝起きしているが、親しく言葉を交わすことは禁じられていた。年かさの女官が目付役としてそばにいて、つねに目を光らせているのだ。

 とらわれた鳥かなにかになった気分だ。自由に歌えもしないし、羽をのばすこともできない。

 息のつまりそうな日々を忘れることができるのは、豊与を思い出すときだけだった。

 一緒に浜で転げ回って遊んだこと、手をつないでどこまでも駆けたこと。海と空がぶつかるところを、目をこらして見つめ続けた日のこと。

 思いをはせるたびに記憶は鮮やかさをまし、あの子のかすかな息づかいや、笑い声までも、まざまざと胸のうちに描き出すことができた。

(豊与)

 声には出さず、鹿矢は宝物のようにその名をつぶやいた。

 豊与は、海をこえて外つ国からやってきた。

 肌を日ざしに焼かれた屈強の船人たちに守られるように、彼女は立っていた。肩までの黒髪が潮風にゆれ、あおざめた白い肌がきわだってみえた。

 鹿矢は一目見て、豊与をすっかり気に入ってしまった。きょうだいたちが気を引こうとしても、いっこうになびかないところもよかった。

 海を眺めていることが多かった彼女のそばで、鹿矢は同じようにものも言わず海を見つめていた。

 鹿矢にとって海は、豊かな実りを与えるとともに人の命を奪いもする、荒ぶる神の領域だった。

 けれど、豊与とともに眺め続けているうちに、海にもいろいろな表情があることに気づいたのだ。

明け方は、もやで沖がかすんでみえることがある。夕方、すみれ色に空が染まるとき。よく砧で打ってつやを出した、紫の薄い布を何十にも重ねたように、海はかがやく。

 ないだ海を眺めていると心が落ち着く。それは、豊与とともにいてわかったことだ。

 豊与は歌もうまかった。

 彼女が「おいで」と歌うと、人々はたちまち聞きほれた。荒れた海は鎮まり、やさしいさざなみを寄せる。暴れまわる風は、歌をかき消さぬよう、そよ風に変わる。皆はそうおだてて、豊与に歌をせがんだ。けれど、誰かに求められて歌うことは一度もなかったのだ。

「かえりたい」

 豊与がそうつぶやいたとき、鹿矢はとても驚いて、思わず声を上げたものだった。

「しゃべった!」

 歌うときのほか、豊与はしゃべらないものと思いこんでいたのだ。

「ねえ、どこへかえるの?」

 豊与はじっと鹿矢をみつめた。今はじめて鹿矢のことに気づいた風だった。

 豊与の瞳は、ずいぶん明るい茶色をしていた。みがかれた琥珀のようだ。

みつめられるとなんとなく居心地が悪くなって、鹿矢は手にしていた枯れ枝を遠くへ投げ捨てた。

「どこに、かえりたいの」

もう一度聞くと、豊与はつぶやいた。

「この海のむこう」

「来たばかりでしょう」

「・・・・・・来たくはなかった」

 鹿矢は立ち上がり、衣についた砂をぱっぱと払った。手を差し出すと、豊与はそっぽをむいた。鹿矢はすうっと息を吸い込むと、大声を上げた。

「うみへび!」

 すましている豊与が、悲鳴をあげて飛び上がったのはおかしかった。振り払うように上げた手を、鹿矢は力をこめて思いきり引っ張った。つんのめった豊与は、鹿矢にぶつかって一緒に砂の上にたおれこんだ。

「なにする」

 砂をぺっと吐き出しながら、豊与は口元をぬぐった。

「ばかね、うみへびが浜にいるもんか」

 砂まみれになった二人は顔を見合わせて、どちらからともなく笑い出した。はじめてだ。はじめて、豊与が声を上げて笑うところを見た。うれしくて、鹿矢の胸ははずんだ。唇から白い歯がこぼれるのが、真珠を連ねたようで、きれいだと思った。

「あたしは鹿矢」

「鹿矢?」

 うれしい思いで、鹿矢は何度もうなずいた。しろい手を引いて、走り出す。松の小枝を踏みながら、ときに飛び越えながら。おなかのそこがくすぐったくて、笑わずにはいられなかった。

「まって、鹿矢!」

 息をはずませた豊与が、叫ぶように名を呼ぶ。夕暮れの林に、軽やかな足音がひびいた。

「心を込めてお仕えするのですよ」

 冷たく尖った声が響き、鹿矢ははっとした。

 年かさの女官長は、薄い唇を開いた。

「宮の女官とは一線をかくすのです。そのことをゆめゆめわすれてはなりません。身を捨て、心を捧げ、しっかりとさいごの時までお仕えするのです」

 すっかり聞き飽きてしまった。次に何を言うかもそらで言えるほどだ。

「いかなるときも、取り乱さず、粛々と仕事をまっとうすること」

 見知った人がいなくなり、新顔がいつの間にか隣に座っていたりする。入れ替わりはめまぐるしいといってもよく、いなくなった人たちがどこへ行ったのかも、鹿矢たちに明かされることはなかった。

(帰ったのだろうか、故郷に・・・・・・)

 故郷といえば、のこしてきた病気の母が気にかかる。

 母は、奴卑だ。浦辺の首長が戯れに母に手をつけ、鹿矢を生ませた。胸の病に悩まされるようになっても、仕事は減らず容赦もない。

 鹿矢がここへきたのは、母のためといってよかった。神殿の女官になれば、支度のために一山の財が与えられる。「おまえがゆくなら、母を世話する者をそばにつけよう」そう父は鹿矢に約束したのだ。


 神殿の長い階を降りてくる人の姿を、鹿矢は目を凝らしてみつめた。遠目にもその清げなありさまをのぞむことができた。まっさらに白い上衣に、朱の長い裳を引きずり、青あおとした榊を胸に抱くようにして降りてくる。解いたままの髪はすんなりと長く、腰まで届いていた。

 女王は長い間、この国を統治してきたという。なのに立ち姿は若々しく、背はすらりと伸びている。

(あれは)

 いつもは、ちらと姿を見せるだけなのに、今日はちがっていた。階の最後の一段を降りたその人は、顔を上げて居並ぶ女官たちを見渡したのだった。そして、かすかに唇をほほえませた。

(まさか)

 胸が急にはやく鳴り出した。

 あの子の顔を、忘れたことなどない。

 目を伏せ、かるく唇をかみしめるのは豊与のくせだった。どこを見るともなく視線をさまよわせるのも、頬にかかる髪をうるさげに払うしぐさも。

「豊与さまよ」

 だれがささやいたのだろう。胸がきしむように痛んだ。

(豊与)

 小声で言い交わすのが耳に届いた。

「比留女さまはどうなさったの」

「おかげんがお悪いのですって。儀式が滞っていたのもそのせいでしょう」

「はやく豊与さまに御座をお譲りになられたらよろしいのにね。もうずいぶんお疲れのようだし」

「ほれぼれするわ、豊与さまのお姿」

 目付役の咳払いが響いた。娘たちはつんと顔を上げ、たちまち押し黙った。

 まばたきするのも惜しくて目で追っていると、「豊与さま」はきゅうに立ち止まり、鹿矢のいるほうを向いた。

 かすかに笑んだ口元と、細められた目。

 息が止まりそうになった。

 きゅ、とすぼめられた赤い唇が、声もなく「か、や」と動いた。ただの気のせいなのか、それとも。

 その日、空は青く、雲ひとつなかった。

 夏草がうるさいくらいに茂って、風に揺られてなびいていた。ひざをかすめる青草の感触がくすぐったい。

 崖の上の野原にはだれもいない。豊与と鹿矢、二人のほかには。

「島が見える?」

 豊与はすぐには答えずに、髪をなびかせながら海の向こうに目をこらしていた。

「見える。泳いでいけそうだね」

 鹿矢は吹き出した。浦辺で一番泳ぎの上手な者でも、あそこまではとうてい無理だろう。それに、どんなに誘っても海に入ろうとはしない人が、泳いでいけそうだなんて真顔で言うのがおかしかったのだ。

 ちいさく鹿矢は声を上げた。草をつもうとしたときに、指先を切ってしまったのだ。豊与がかけ寄ってきた。

「大丈夫?」

 ほんのかすり傷だ。心配そうに見つめられると、痛さがかえってしみるようだ。

 豊与はそっと鹿矢の手を取り、血のにじんだ指先を口にふくんでやさしくなめた。母が子にするような、きょうだいが妹にするようなことだ。鹿矢は何も言えずに、ぼうっと突っ立っていた。すぐに血は止まった。

「平気か」

 豊与の顔が近くにある。白い頬と、すっと通った鼻筋。大きくなったら、どれだけの美人になるだろう。

 素性はわからないが、豊与は高貴な人にちがいない。首長の館で客人としてもてなされ、皆は「姫さま」と呼んでひれ伏しかねないほどだ。

 そんな人が、鹿矢をまるで妹のように扱ってくれる。

 ・・・・・・大きくなったなら。

 そうしたら、豊与の侍女にしてもらおう。やさしくて、うつくしい豊与のそばにいられるのなら、何もこわいものなどない。

「ずっと一緒にいられたらいいのに」

 豊与は笑った。大人たちにみせるような、一歩引いたような笑い顔だ。鹿矢はもどかしくて、傷のことも忘れ、豊与の手をぎゅっとにぎりしめたのだった。

 別れは突然だった。

 ある秋の日、野分が去るのと一緒に、彼女は遠くへ行ってしまった。

 さよならも言えなかった。

 ひとり夕暮れの浜にでた鹿矢は、何度も何度もくりかえし歌った。

 外つ国の歌、豊与ののこした歌を。口ずさむと、豊与がすぐそばにいるような気がした。


 「豊与さま」が、鹿矢の大切な豊与によく似ていたから。そんな理由で禁をおかすようなまねをして、見咎められたらただではすむまい。けれど、どうしても確かめなくては気がすまなかった。 

 同室の人を起こさないよう寝床を抜け出した鹿矢は、そうっと廊下に出た。頭から襲着を引きかぶり、衣のすそを持ち上げて冷えた板廊を踏みしめていく。

 廊の柱のかげに隠れ、なんとか見回りをやりすごす。奥に進むごとに、いっそう闇が濃くなるようだ。

女王の居室は左殿の最奥だ。明かりの漏れる室の入り口のまえで立ち止まる。歌が聞こえたのだ。鹿矢は、はっとして息をのんだ。外つ国のことばだ。

ふと、歌がやんだ。

「・・・・・・お入り」

 低い声が響いた。

 鹿矢は引きかぶっていた襲着をぬいだ。手がふるえている。歯の根があわないのは、寒さのせいか、それとも、禁を破っているおそれのせいか。鹿矢は、ほのあかるい室へと足を踏み入れた。


 広い室には調度のたぐいが一切なかった。板敷きの中央に床をのべ、横たわった人がいる。寝息をたてているようだ。

 灯台の明かりが、風もないのにちらちらと揺れた。しわが深く刻まれた、浅黒い小さな顔が布団からのぞいている。そのかたわらに女人が座していた。鹿矢を招いたのは、この人だ。

 つややかな黒髪が背に流れている。衣は飾り気のないもので、女官のそれより質素かもしれなかった。声を潜めてその人は言った。

「お眠りになったところだ」

 鹿矢は待った。その人が振り返り、目と目が合うそのときを。見交わせば、きっとわかるはずだ。

「そなた」

 視線が鹿矢を射抜いた。「豊与さま」は声をなくした。

「豊与・・・・・・」

 目頭が熱くなる。声をつまらせ、そう言いかけた鹿矢は、きゅうに手をつかまれ、乱暴に引き寄せられた。細身のどこにあろうかという、あらがいがたい力だった。

 あっという間に鹿矢は布団のなかに押し込まれてしまった。

「静かに」

 そうささやく声にかぶさるように、廊を歩いてくる足音と女官の声がした。

「御方、参りました」

「下がりなさい。今宵の伽は、豊与がする」

「ですが・・・・・・」

「比留女さまがそうお望みなのだ」

 湿ったしとねの中、枯れ枝のように細い足に手が触れた。鹿矢は、はっとして両手を胸の前に引っ込めた。

 白髪を波のように枕べに広げ、しわだらけの肌をさらした、老いた女。女王の住まう宮の最奥にいて、豊与が伽をするほどの人となれば、誰かはあきらかだ。

(比留女さま。女王さまなの)

 国を栄えさせてきた女王が、これほどまでに老いていたとは。

 女王は戦つづきの国を見事におさめた。すぐれた巫女王は希有な霊力をもち、その容姿はどれだけ年を重ねようと、若かりし頃のまま衰えない。人々はくちぐちに言い交わし、天を照らす女王と呼んであがめた。

 しかし、こうして寝床に横たわる人は、死からそう遠いところにいるようにも見えなかった。

「もういい。出ておいで」

 布団をそっとめくり、這い出てきた鹿矢と向かい合った豊与は、居心地が悪そうに言いよどんだ。

「やはり、あなただったんだね」

 眉根を寄せ、豊与は深くため息をついた。

「わたしがまぼろしを見たのならいいと、そう思っていた」

 会いたいと願っていたのは、鹿矢のほうだけだったのだ。悲しいより腹が立って、鹿矢はまっすぐに豊与をにらみつけた。

「豊与は、薄情だね」

「みつかれば、ただではすまないのだよ」

「なぜさよならを言ってくれなかったの」

 ずっと言いたくて、言えなかったことだ。豊与は目を伏せた。

「言いたくなかった」

 それきり顔を背けてしまう。

「ここにいるとわかっていたなら、あれほど泣かずにすんだわ」

「鹿矢」

 豊与は狂おしいものを秘めた目で鹿矢をみつめた。

「わたしは、あなたの知る豊与じゃない」

「豊与は、豊与よ」

 ひるんだように豊与は唇をつぐみ、潜めた声でささやいた。

「ここはあなたのいていい場所ではない」

「あなたがいるのなら、あたしもここにいる」

 豊与は首を横に振った。

「いけない、それだけは」

「なぜ?」

 口ごもった豊与を、鹿矢はせっついた。

「きちんと話して」

 寝床に横たわる人にちらりと目をやった豊与は、息を一つ吐き出してから、静かに立ち上がった。

「・・・・・・おいで」

 差し出された手は、驚くことに鹿矢の記憶にあるのより、ずっとずっと大きかった。思わずふれるのをためらうほどの、骨ばった、かたそうな手だ。

 豊与は苦笑いをして手を引っ込め、暗い廊を先に立って歩きだした。扉をいくつかくぐり抜けると、いつのまにか、はだしの足につめたい土が触れた。細い坂道を降りてゆくと、いつしか二人は雪のふる川原に立っていた。流れる水音を聞いていると、身も凍るようだ。

 ちょうど満月が雲から顔を出し、二人を照らし出した。向かいあってみると、豊与はゆうに頭一つぶんは背高かった。

「寝ている人を見たろう」

「比留女さまなの?」

 豊与はうなずいた。

「あの人は、巫女などではない」

「比留女さまは、日を隠すこともお出来になるのでしょう?」

 かつて国が乱れていた頃。わずかな軍を率い、敵の矢も届こうという小高い丘に身をさらした女王は、昼を夜にしてみせた。それを見た人々は矛を下げ弓をおろし、服従を誓ったのだ。

「日は昇れば沈む。夜は必ず明ける。いつ日が隠れるか、知っていたとしたら?」

 鹿矢は身震いをした。

「そんなことが、わかるわけないわ」

 豊与は鹿矢の手をきつく握りしめた。

「知恵は力だ。戦つづきのこの国を、平らげるには畏怖される力がいる。招かれたのが、おばの比留女だ。わたしの一族は、星を読み、地に流れる脈を読むことができる」

 川原が雪に白く染まっている。豊与のほほに、ひとひらの雪が落ちて滴になった。

「おばの知識には、大事なものが欠けていた」

 差し出した豊与の手のひらに降り落ちた雪は、すぐに溶けて消えていく。

「一族の後継の男子のみに伝えられる、暦の知識だ。日がいつ隠れるか、星がどのように動くか。これは政にかかわる重要な秘密だ。父はきっと、他国へ行く姉へ餞別を持たせたつもりだったのだろうね。けれど、〝奇跡〟  は、一度では足りなかった」

 ひれ伏した人々の前で、比留女はなにを思ったのだろう。

「わたしをさらうようにこの国へ連れてこさせたのだ。足りない知識のすべてが与えられていると知っていたから」

 豊与は顔をゆがめた。

「館が焼き払われるところを見た。炎が空をこがしているのも、はっきりと見たんだ。父も母もきょうだいたちも、どうなったか・・・・・・」

 涙をこぼす人を、鹿矢は抱きしめた。

 抱きしめたはずなのに、腕が回りきらない。豊与の肩に顔をすっぽりうずめた鹿矢は、親鳥の羽に抱え込まれるように抱擁されたことに動転して、体をかたくした。

「豊与。豊与?」

 信じられないが、豊与は、男だ。

 きつく抱きしめられて、息が止まりそうだ。身動きしても、かたい腕はびくともしない。

「わたしが、いつ女だと言った」

 あわてる鹿矢をよそに、平然と豊与は言った。

「だって・・・・・・豊与は女の名だし。姫と呼ばれていたじゃない」

「男が王になると国が乱れるという。わたしは豊与という娘に仕立てあげられた。男の姿など、もう何年もしていない」

 鼻先がふれあいそうなほど間近で、豊与は鹿矢をじっとみつめた。

「がっかりした?」

 顔が熱くなる。正直を言って、なんと言ったらいいのかわからなかった。

「まあいい」

豊与は唇をゆがめた。

「あなたの命は危険にさらされているんだ。このままでは、明日には・・・・・・」

 鹿矢はごくりと息をのんだ。

「あす、日が隠れる。比留女のかわりに、わたしが新たな女王となる。神に捧げる供物として、あなたは選ばれたんだよ」

 鹿矢はきつく抱きしめられた。

「お逃げ。あなたを死なせたくない」

 鼓動を打つ胸と胸があわさる。鹿矢はおそろしさにふるえながら、豊与の首筋に顔を寄せた。

「ずっと一緒にいたい。豊与が男でもいい」

 驚いたように豊与はまばたきをした。

「ほんとうに?」

 見つめあうだけで、こんなに息苦しい気がするのはなぜだろう。胸が鳴り、頬がほてるのは、どうしてなのだろう。

 豊与は鹿矢の顔を上向かせ、そっと口づけをした。しおからい海の味がする。唇を離したあと、豊与はほほえんだ。

「きっと、迎えに行く。だから、待っていて」

 夜明けまでにはまだ時がある。

 抜け道を通り、鹿矢は宮の外へと急いでいた。寝床にいないことを知られる前に、一足でも遠くへ行かなければならない。

 暗い道は細く、曲がりくねっている。しかし月の明かりがたしかに足下を照らしてくれた。見上げれば、雪が月を煙らせている。

 もうすぐだ。欄干を飛び越え、鹿矢は凍えた土を踏みしめて走った。景色が変わる。板葺きの質素な家が、ひしめくように立ち並んでいる所へ出た。

豊与の腹心の女官が、ここで待っているはずだ。

 数歩さきに誰かが立ちふさがった。一人ではない。「捕らえろ」 押し殺した声が響いた。

 はっとして身をひるがえすなり、強く突き飛ばされた。転んだ鹿矢の前に松明がかかげられた。

そこにいたのは、目付役だった。片ほほをゆがめ、彼女はあざけるような声音で言った。

「御方をたぶらかし、情けを得るとは。なんと卑怯で汚らわしい」

 肌があぶれるほど近くに、松明をぐいと近づけ、目付役は吐き捨てた。

「あのお方は、そなたなど足下にも寄れぬ希有なお方なのだ」

 いいざまに拳で殴られ、鹿矢ははいつくばった。目がくらむ。手をついて身を起こしたとき、なにか生あたたかなものが、手元をじっとりと濡らすのを感じた。

ゆらめく松明の炎が、ざっと足下を照らした。一面、土が血に染められていた。投げ出されたふくよかな手と、血に染まった衣・・・・・・神殿の女官がうつぶせに倒れている。鹿矢は悲鳴をあげた。

「お立ちなさい。お役目を果たすときが来ましたよ」

 切り裂くようなまなざしには、哀れみすらない。鹿矢は捧げられる供物でしかないのだ。それが今こそわかったとて、救いにもならない。

 そまつな小屋には、手を縄でくくられた娘たちが押し込められていた。川音が聞こえてくる。もしかして、みそぎをした川のそばかもしれない。

泣くものもいれば、ぐったりと身を伏せているものもいる。

 日がもっとも高いところに昇ったころ、小屋の戸が開いた。一人、また一人と娘たちが引き出されていく。

 命乞いを耳にしているうちに、かすかな望みも消えてしまった。暗い絶望にひきずりこまれてしまいそうだ。

 とうとう一人きりになった小屋の中、鹿矢は目を閉じた。体のふるえがとまらない。

やがて、小屋の戸が開く音がした。

 鹿矢が信じたいのは現実ではない。

 信じたいのは、豊与の言葉だけだ。やさしいまなざしだけだ。それだけでいい。

 海を眺めていた幼い豊与は、子守歌をくりかえし歌い続けていた。故郷からさらわれ、親きょうだいから引き離されて、理不尽な役目を押しつけられて。

「かえりたい」

 そうつぶやいた幼い声が、波音とともに耳の奥によみがえった。

 目に涙をためて、じっと海の向こうをにらんでいた横顔が、いとおしかった。

(泣かなくていい。もういい)

 海の向こうには、何があるのだろう。豊与の故郷か。それとも支配も強制もない、みしらぬ王国だろうか。

 川原には白い衣を血に染めた男たちがいる。祝いに捧げるけものを屠るように、何人かの娘たちを殺したのだ。

 鹿矢は引きずられながら、ふるえる声で歌い出した。

「おいで、おいで、わたしのそばに」

 さざ波が浜に寄せる音が、かすかに聞こえてくるような気がした。

海は、どこか遠くへつながっている。どこでもいい、逃れられるのなら。そこへ行けたらいい。豊与だけでも、できることなら。

(豊与!)

 空がへんに明るい。すべてのものの影が長く伸び、鳥のさえずりもやんだ。

(日が、消える・・・・・・)

 豊与の言ったとおりだ。

 太陽が隠れる。昼は夜に変わり、国の人々は凶事だと叫ぶだろう。

 古い女王のかわりに、新しい女王が立つ。

 豊与が神殿に現れれば、新たな太陽として、国人は彼をたたえるのだろう。

 風が吹き、あたりは大きな御手が幕をひいたように暗くなり始めた。引っ立てる男の手がゆるんだすきに、鹿矢は身を引きはがすようにいましめから逃れ、走りだした。

「鹿矢」

 呼ぶ声がする。うすやみのなか、石につまづき鹿矢は倒れこんだ。しかしすぐに起き上がり、駆けだした。

「鹿矢!」

 あの人だ。力いっぱいに、鹿矢は駆けた。

 さざなみの打ち寄せる音が聞こえる。

歌が、聞こえる。空耳ではない。

 遠い国の歌だ。

さざなみの子守歌が、いま、聞こえたのだ。


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