第九話:分け合えない気持ち
主な登場人物紹介
花村美穂:二十五歳。会社員三年目。総務部総務課所属。何事にも一生懸命で、誰に対しても親切。裏表のない性格。
真壁悠人:二十八歳。キャリア採用で入ってきた年上の後輩。美穂に一目惚れした。美穂を前にするといつもの様な余裕のある行動が取れない自分に戸惑う。
明石渉:二十五歳。美穂の同期。営業部営業課所属。美穂とは時々帰りに飲みに行ったりする仲。同期の男性の中では一番仲が良く、美穂のことを気にかけている。
終業のチャイムが鳴った。モニターを閉じ、デスク周りを片付けながらも、美穂はどこか落ち着かなかった。
今日は一日、朝のやりとりがずっと頭から離れなかった。
ーじゃあ、今日の夜は、俺から電話してもいいですか?
真壁のあの一言が、何度も胸の中でこだました。
思い出すたびに顔が熱くなる。
今日の夜が、楽しみで仕方が無かった。
カバンのストラップを肩にかけ、廊下に出て少し歩き出したところで、会議から戻ってきた真壁と出くわした。
「お疲れ様です」
そう、いつもの様に言い合った後、真壁が少し声を落として、
「また後で」
と、ぽそっと言ってきた。
その言葉にドキッとして、頬を赤らめる。
美穂も真壁に向かい小さな声で、
「はい、また後で」
そう言って、別れた。
オフィスの出口を出て、駅へと向かおうと歩き出したその時。
「おーい、花村」
背後から聞こえてきた声に、足を止めた。
「明石くん?」
くるりと振り返ると、同期の明石が、少し照れたように首の後ろをかきながら立っていた。
「今日、ちょっとだけ時間ある?」
「うん、少しなら大丈夫だけど……どうしたの?」
「いや、ちょっと、話したいことあって」
ーーー
二人並んでビルを出て、最寄り駅に向かって静かに歩く。
夕方の道は昼間の暑さを残していて、肌全体が生ぬるい。けれど、吹く風はほんの少し涼しさを含んでいて、そっと頬を撫でた。
沈黙が続くのは、なんだか珍しい。
いつもは明石が、自然に話題を振ってくれるのに。
美穂から話しかけようと口を開きかけた時、明石が言った。
「……あのさ、飲み会のあと、大丈夫だったか?」
「え?」
「いや、花村けっこう酔ってただろ?顔真っ赤だったし、ふらふらだったし。……タクシーで送られてったって聞いたし」
明石の声に、心臓が跳ねた。
あの夜のことを、誰かに知られてると思うと、少しだけ恥ずかしかった。
「う、うん……ちょっと飲みすぎちゃって。けど、ちゃんと帰れたよ。ありがとう、心配してくれて」
「……そっか、ならよかった」
明石は、口元を引き結んで、まっすぐ前を見ていた。
ふと、歩調を合わせていた足が止まり、美穂もつられて立ち止まる。
「……なあ」
声のトーンが少しだけ変わった。
「真壁さんと、なんかあった?」
「え……?」
突然すぎて、思わず声が裏返った。
「あ、いや。花村の様子が……なんていうか、ちょっと違うからさ。気になって」
「……うーん、なんかあったってわけじゃないけど……」
でも、以前とは違って、はっきり分かった事ならある。
「……でも、私ね……やっぱり」
小さく息を吸って、続ける。
「真壁さんのこと、好きだったみたい」
誰かに口にするのはこれが初めてだった。けれど、思った以上にスッと胸の中が軽くなった。
明石は、少しの間、何も言わなかった。
その沈黙が、やけに重たく感じられた。
でも、次の瞬間。
「……あー、そっか」
明石が、ふっと笑って、片手で自分の髪をくしゃっとかいた。
「実は俺もさ、お前のこと好きなんだけど、俺じゃダメかな?」
「……へ?」
まるで言葉が聞き取れなかったみたいに、美穂は瞬きを繰り返した。
「……え?さっきも言ったけど、私、真壁さんが好きだから、その、ごめん」
咄嗟に出た言葉。
「即答かよ! いっそ清々しいな!」
冗談っぽくそう言いながらも、明石の顔はどこか本気だった。
美穂は慌てて手を振った。
「ち、違うの! いや違わないけど……。ただ、びっくりして……その……明石くん、私のこと……好きだったの?」
「……そっか。びっくり、ね」
「……ごめん」
「……まあ、そうなるよな。うん、わかってた」
明石は、笑っていた。でもその笑顔が、どこか少しだけ、寂しそうだった。
「……でもさ、俺も気づいたの、真壁さんが来てからだからな。たぶん、その時点で既に負けてた」
「そんなこと……」
「いいって。自分でも薄々感じてたしな。花村が、あの人のこと見るときの顔、ちょっと違うなって」
そう言って、ポケットに手を突っ込む仕草が、なんだか妙に大人びて見えた。
「俺、遅かったんだろうな、気づくのも、伝えるのも」
「……明石くん……」
「でも、まあ……俺の気持ちは、伝えたかったからさ。返事も聞けたし、よかったよ」
「……ごめんね。答えられないけど……でも、嬉しかったよ。ありがとう」
「……おう、そっか」
明石は少しだけ俯いて、深く息を吐いた。
「……まだ正直、応援とかはできねぇけどさ。でも、お前の幸せは願ってるから」
顔を上げたその目は、いつものように真っ直ぐだった。
「……うん、本当にありがとう」
その一言に、すべての気持ちを込めて、美穂は笑った。
突然の告白にとても驚いたけれど、嬉しい気持ちもあって、けれど、真壁が好きだから断るという選択しかない。とても自分勝手だけど、罪悪感のような感情も残った。
あらゆる気持ちを抱きつつ、美穂は帰路に就いた。
ーーー
明石渉は、子どもの頃から「分け合う」ことが好きだった。
好きなお菓子も、嬉しいことも、悩みも、隣にいる誰かとシェアしたくなる。
笑顔は分け合えば倍になるし、悲しみは分ければ半分になる。
J-POPの歌詞にでもありそうな、ありきたりな言葉だが、それが明石がずっと持ち続けていた考えだった。
……けれど。
美穂と出会って、初めて、“分け合いたくない”ものができた。
それが、『彼女の笑顔』だった。
美穂と出会いのは三年前。総務部で、営業部の明石とは部署違いの同期。最初の印象は、正直なところを言うと『鈍くさい奴』だった。
動きはちょっとモタモタしてて、おっちょこちょいならところもある。
会議資料をぶちまけたり、来客案内で方向を間違えたり、たまたま総務に寄った時に、日報の送信ミスをしている所を目撃したこともある。
正直、最初の頃は「大丈夫か、こいつ」って思ってた。いや、ちょっと思ってたじゃなくて、かなり思ってた。
でも、美穂はそんな失敗なんて気にならなくなるほどに、すごい奴だった。
とにかくへこたれない。
先輩に厳しく怒られてもすぐに「すみませんでした!」と頭を下げ、翌朝には完璧に切り替えて出社する。指導されたことは素直に受け止めて、反省して、同じミスは繰り返さない。
泣いてるのを見た事もあったけど、泣いた次の日は、もっと強くなっていた。
それに、他人に対してすごく優しい。
誰にでも丁寧で、笑顔を忘れない。困ってる人がいれば自然に手を差し伸べる。
だから、気づいたらいつの間にか社内の人間が彼女を信頼し、心を許していた。それはもちろん、明石自身も含めて。
何があっても人のことを疑わないし、信じすぎる美穂を心配になることもあった。
でも、それも含めて「こいつ、ほんとにいい奴だな」と思った。
そんな彼女と帰り道にご飯を食べたり、飲みに行ったりすることが増えた。
“同期”という言い訳があったから気軽に誘えたし、向こうも自然に乗ってきてくれた。
だけど、二人が会社に入社して三年目の四月、美穂の部署に真壁という男が入ってきた。
正直、最初は何とも思ってなかった。キャリア採用の年上の新人。
人当たりがよく、仕事もそつがない感じ。まあ、悪くない奴なんだろうな、とは思った。
けれど、美穂の視線が、ほんの少し真壁に向くようになり、明石の中で何かが変わった。
真壁の前だけで見せる、少し照れたような笑顔。
いつもは明石に向いてた気がしていたその笑顔が、真壁に向いてるのを見たとき、
……凄くムカついた。
その時、初めて気がついた。
(……ああ、俺、花村のこと……好きだったんだな)
だけど、気づいたときには、もう遅かった。
飲み会の時の二人のやりとりを、遠目からずっと見ていた。
美穂の苦そうな顔、真壁がビールを代わりに飲んだあとの照れた横顔。
そのあと、ふたりが並んで座って、楽しそうに会話してたのも見ていた。
ちくしょう、と心の中で思ったけれど、心に湧いた感情は不思議と怒りじゃなかった。
ただ、羨ましかった。
あんな風に、自然に美穂の隣にいて、名前を呼ばれて、一番近い距離で美穂のことを心配して。
真壁が美穂のことをちゃんと大切にしてるのが伝わってきた。
そして、何より。
美穂が、真壁を見る目が、優しかった。あたたかかった。
その視線を見るだけで『好き』が伝わってきてしまった。
(もう、俺の入り込む余地なんてないのかもしれない)
その時点で明石はそう思わざるを得なかった。
それでも、伝えたくなった。
このまま何も言わずに、何も知られずに、忘れていくなんて、耐えられなかった。
だから、月曜の帰り。
会社の出口で彼女を見かけたとき、気づいたら声をかけていた。
「今日、ちょっとだけ時間ある?」
声がうわずってたのは自分でもわかった。
「……実は俺もさ、お前のこと好きなんだけど、俺じゃ、ダメかな?」
言ったあと、すぐに後悔した。
こんなこと言ったら、気まずくなるのは目に見えてた。
けれど彼女の返事はどこまでも真っ直ぐだった。
「私、真壁さんが好きだから、その、ごめん」
「……即答かよ!いっそ清々しいな!」
思わず笑って、そう言った。
けど、心の奥がズキズキしていたのは、嘘じゃない。
「……明石くん、私のこと……好きだったの?」
顔を真っ赤にして、驚いたように聞いてきた彼女を見て、少しだけ笑ってしまった。
「でも、まあ……俺の気持ちは、伝えたかったからさ。返事も聞けたし、よかったよ」
強がってそう言ったけれど、本当ははもっと情けない自分をぶつけたかった。
「なんであんなやつがいいんだよ」って叫びたかった。
けれど、そんな事を言ったところで、彼女が困るだけだってわかっていた。
だから、「嬉しかった」と言ってくれた彼女に、せめてかっこつけたかった。
「……まだ正直、応援とかはできねぇけどさ。でも、お前の幸せは願ってるから」
それだけ言って、手を振って、改札に背を向けた。
ーーー
家に帰ると、缶ビールを一本だけ冷蔵庫から出して、プシュッと開ける。
一口飲んで、天井を見上げた。
「……はー、分かった途端に失恋かよ……」
笑えてきた。
不思議と、後悔はなかった。
いや、もちろん、未練はある。
まだすぐにこの気持ちを手放すことはできない。
けれどきっと、あの二人は近いうちに付き合うのだろう。
だったら。
(俺が入り込む余地がないくらい、幸せになりやがれ)
そう思った瞬間、胸の奥で、何かが少しだけ前に進んだ気がした。