第八話:飲み会明けの出勤日
主な登場人物紹介
花村美穂:二十五歳。会社員三年目。総務部総務課所属。何事にも一生懸命で、誰に対しても親切。裏表のない性格。
真壁悠人:二十八歳。キャリア採用で入ってきた年上の後輩。美穂に一目惚れした。美穂を前にするといつもの様な余裕のある行動が取れない自分に戸惑う。
明石渉:二十五歳。美穂の同期。営業部営業課所属。美穂とは時々帰りに飲みに行ったりする仲。同期の男性の中では一番仲が良く、美穂のことを気にかけている。
飲み会の翌日、土曜日の朝。
美穂が目を開けた瞬間、頭がずきん、と痛んだ。
「……ぅ、痛っ……」
時計を見ると、朝の九時。いつもよりずっと遅い。
昨日の記憶がフラッシュバックのように断片的に蘇る。
グラスを持つ手、苦いビール、隣に座った明石の顔。そして、真壁の顔。
(……タクシーに乗って……送ってもらって……)
ゆっくり起き上がって、毛布の端をぎゅっと握る。
(ああ……、どうしよう)
思い出せば思い出すほど、背筋が冷えて、顔が青ざめていく。
「うそ、私……なに、言ったんだっけ……」
顔が一気に熱くなる。
ふわふわとした頭の中で、どうしてもはっきり覚えているのは、彼の肩にもたれていた感覚と、胸の奥がじんわり温かくなるような気持ちと、それから断片的な情景だけ。
「帰っちゃうの……?」「もっと話したい……」「真壁さんのこと、しりたい……」
(うわ……ほんとに……やらかした……)
恥ずかしさでベッドに顔を埋めたくなる。いや、もう埋めてる。
とにかく、やってしまった感がすごい。
ふと枕元にあったスマホに目をやると、トーク画面が開きっぱなしになっていた。
そこには、昨夜送った自分のメッセージ。
《 おやすみなさい 》
そしてすぐに返ってきた真壁からの一言。
《 おやすみなさい 》
たったそれだけなのに、胸がキュンと鳴る。彼の声で再生されるその一言に、自然と頬が緩んでしまった。
「……やさしいなぁ……」
本当に優しくて、誠実で、頼りになって、格好良くて。
(……あ、もうだめ、考え始めたら止まらない)
(でも、とにかく……月曜にはちゃんと謝ろう)
気まずくても、逃げない。
きちんと話して、ちゃんと謝って、あとは……できればだけど、許してくれて、また笑ってもらえたら嬉しい。
ーーー
月曜日の朝。
いつもより早く家を出て、早歩きでオフィスに向かう。
バッグの中のスマホが、ずっと気になっていた。着信も通知もないけれど、なんとなく見てしまう。
真壁の名前が、画面の履歴に並んでいるだけで、胸の奥がほんのり熱くなる。
(落ち着いて……ちゃんと謝るんだ!)
早めに着いたオフィスの前には、まだ誰もいない。
小さく深呼吸をした。
そのとき、背後から聞き慣れた声がした。
「おはようございます」
ハッとして振り返ると、そこに真壁が立っていた。
「真壁さん……! おはようございます」
「花村さん、早いですね」
「あ、はい。あの、ちょっと……早めに来たくて」
「奇遇ですね。俺もです」
彼の笑顔は、相変わらず優しくて、少しだけ眠たそうだった。
「ちょっと寝つきが悪くて、早く出ちゃいました」
「私もです……」
「……そうなんですか?」
「……金曜日のこと、ずっと気になってて。早く謝らなきゃって思ってたら、なかなか寝つけなくて……」
ぎこちなく笑いながら、目を伏せた。
「あの、本当に……金曜日はすみませんでした。迷惑かけてしまって……」
「迷惑なんて、とんでもないです。むしろ、送れてよかったですよ」
真壁のその言葉に、心がふっと軽くなった気がした。
でも、彼はそこで、ふいに少し目を細めて言った。
「……あれ、ところで、もうタメ口で話してくれないんですか?」
「……え?」
慌てて反射的に聞き返した。
「え、え?……タメ口だったんですか、私!?」
「はい、けっこう大胆に」
さらっと言われ、美穂も脳内で断片的な記憶を掘り返して……、
(そういえばそうだったかも……!)
職場の年上の人になんて失態を……。そう思い、顔が一気に青ざめる。
「う、うわぁ……ごめんなさい……。本当に酔ってたみたいで……!」
「謝らないでください。嬉しかったですし」
その言葉に、心臓がドクンと鳴った。
(落ち着け、私。普通に会話、普通に謝るって決めてたのに)
「……花村さんは先輩なんですから、タメ口で全然いいんですよ」
「いやでも……真壁さん年上なので、さすがにそれは」
「じゃあ……今は我慢しますけど、そのうち、また崩してくれるの、待ってます」
優しいけど、ほんのり含みのある言葉に、胸がきゅっとなった。
そのあと、少しだけ間を置いて、真壁が尋ねてきた。
「……どこまで覚えてますか?」
視線が合って、一瞬息を飲む。
「……断片的に、です」
「そうですか。……正直、花村さんがお酒飲むの、ちょっと心配になりました」
「い、いつもはあんな酔い方しないんですよ!でも今回の飲み会はいつもよりずっと……」
ごにょごにょと口ごもっていると、真壁が静かに言った。
「楽しかった、ですか?」
思わず、顔を上げた。
「……はい。楽しかったです、凄く。」
「……良かった。俺も凄く楽しかったので、同じですね」
その言葉に、ふっと笑いがこぼれた。
(やっぱり真壁さん、優しいな……)
そう思った瞬間、彼が少し照れたように言った。
「連絡先、交換したことは覚えてます?」
「……あ、はい。次の日の朝に、LINE送ってたの見ました」
スマホの画面を思い出して、頬が熱くなった。
すると真壁が少し距離を詰めてきて、顔を美穂の耳に近づけて、そして耳元で内緒話をするようにそっと囁いた。
「じゃあ、今日の夜は、俺から電話してもいいですか?」
一瞬、息が止まった気がした。
「……はい。……ぜひ」
そう答えた自分の声が、少し震えていた気がする。
その日は一日中、仕事中もどこかソワソワとしてしまって、そのたびにしっかりしなきゃ、と自分に言い聞かせながら過ごした。