第七話:酔いと本音(真壁悠人視点)
※第七話は、『第六話:酔いと本音』 を真壁視点で書いた話です。
主な登場人物紹介
花村美穂:二十五歳。会社員三年目。総務部総務課所属。何事にも一生懸命で、誰に対しても親切。裏表のない性格。
真壁悠人:二十八歳。キャリア採用で入ってきた年上の後輩。美穂に一目惚れした。美穂を前にするといつもの様な余裕のある行動が取れない自分に戸惑う。
明石渉:二十五歳。美穂の同期。営業部営業課所属。美穂とは時々帰りに飲みに行ったりする仲。同期の男性の中では一番仲が良く、美穂のことを気にかけている。
ガヤガヤと賑やかな店内。
「入社三ヶ月の歓迎会」と銘打たれた親睦飲み会は、思った以上にくだけた雰囲気で進んでいた。
部署も役職もバラバラのメンバーが入り混じり、笑い声と乾杯の音があちこちから響く。
真壁は、先輩社員や同期入社の社員たちと軽くジョッキを交わしつつ、ちら、と視線をテーブルの端へ向けた。
そこに、彼女がいた。
花村美穂。柔らかい雰囲気と、飾らない笑顔が印象的な三つ下の先輩。
初めて見た瞬間から一目惚れしてしまった彼女は、どこにいても、何をしていても、誰よりも輝いて見えた。
真面目に仕事に向き合う姿勢や、誰に対しても優しく親切な態度、声をかけた時に見せてくれる優しい笑顔、休憩中に見せる少し気を抜いた瞬間、頬を赤く染めて照れている仕草、そんないろいろな彼女の姿を知るたびに、胸がドキドキと高鳴った。
自分でも不思議な感覚だった。
今まで、自分から誰かを好きになることなんてなかった。
好かれることはあった。付き合ったこともあった。でも、こんな風に“誰かを目で追う”なんて感覚、知らなかった。
大人っぽくて落ち着いてるとよく言われる。余裕がある、頼りになる、そんな風に周りからは見られていた。
けれど、美穂を前にすると、その余裕はあっけなく崩れる。
今もそうだ。彼女が、美穂の同期である営業部の明石と話しているのを見て、胸がざわついた。
美穂が楽しそうに笑ってる。明石も彼女の顔をじっと見ている。
この前、ただの同僚だと本人から聞いたばかりだというのに、それでもやっぱりモヤモヤしたどす黒い気持ちが胸に広がってしまう。
(……嫉妬とか、これまでしたことなかったのにな)
ビールをぐいと煽り、ふっと息をつく。
そんなとき、彼女の隣の席が空いたことに気づいた。
気づけば、足が勝手に動いていた。
「お疲れさまです」
自然を装って声をかけると、美穂が小さく目を見開いた。
「あ、……お疲れさまです」
少しだけ驚いた顔。先程は明石に向いていた顔が、今は自分だけに向いていて、その表情が愛しくて可愛くて、心が弾んだ。
「お酒、苦手なんですか?」
「え?」
「いや、グラス全然減ってないから」
冗談めかして言うと、彼女はばつが悪そうに笑った。
「あ、いえ、ビールが苦くて苦手なだけで……。カシオレとか甘いのは結構好きなんですけど」
素直で、飾らない返事。
この“素”の感じがたまらなく愛おしい。
「それ、頼めばよかったのに」
「いや、でも最初の乾杯って一気に注文とるから、言いにくくて……」
苦笑いする彼女に、小さく笑いながら言った。
「貸してください」
「えっ?」
戸惑う彼女の目を見ながら、そっとグラスを取り、残っていたビールを一気に飲み干した。
(……うわ、何してんだ俺)
頭のどこかで自分を突っ込む声がする。
他の人相手だったらこんな事、絶対にしない。
先程の明石とのやりとりに勝手に嫉妬して、少しでも自分の事も意識して欲しくて。
自分の中に、こんな感情があるなんて、彼女に出会うまで知らなかった。
そのままメニューを差し出しながら、言葉を繋ぐ。
「なくなったので、花村さんの飲みたいやつ、頼んでください」
彼女は数秒間固まったあと、ほんのり頬を赤らめて、
「あ、ありがとうございます……」
と、小さな声で言った。その照れた表情に、胸がまたひどく締めつけられた。
その後は、ふたりで自然と会話が始まった。
会社のこと、この前見て面白かった映画のこと、最近あったちょっと笑えた話。内容はなんてことない雑談なのに、相手が美穂というだけでどんなことよりも楽しい時間だと思えて、ずっとこのまま話していたくなる。
……けれど。
ふと彼女の様子が変わってきたのに気づいた。
「……カシオレ、おいしいですね……ふふ」
目がとろんとしている。頬が少し赤くて、語尾がゆるんでいる。
(酔ってる……かなり)
心配になり、途中で水を注文してさりげなく美穂に差し出し飲ませたがあまり意味はなく、酔いはすっかり回ってしまっているようだった。
「そろそろお開きですって」
声がかかり、皆が席を立ち始める。彼女も立ち上がるが、ふらりと足元が覚束ない。
「大丈夫ですか?」
「だいじょうぶです……えへへぇ……」
絶対に大丈夫じゃない。
そう思って思わず腕を差し出し、彼女を支える。
体温が近い。柔らかな香りがふわっと香る。胸の鼓動が、不意に早くなった。
彼女を見て、考える。
(このまま送らずに帰すのは、心配すぎる)
真壁はタクシーを呼ぶと、自分もそれに乗り込んで、美穂の隣に座った。
「花村さん、眠いでしょ」
「むぅ〜、眠くないです……」
目をこすりながら言い張るその声が、少しだけ甘えているように聞こえた。
「寝ていいですよ。家ついたら起こしますから」
そう言った次の瞬間、彼女がぽつりと呟いた。
「やだ……もっと、話したい……」
「……え?」
「もっと……真壁さんのこと、知りたいもん……」
心臓が跳ねた。
さっきまで眠そうだった目が、じっと自分を見ている。真剣な顔。でも、酔ってる。明らかに酔ってる。
理性がぐらりと揺れる。
「は、花村さん……」
それ以上、言葉が出なかった。
彼女はそのまま、ふわりと肩に頭を預けて、眠ってしまった。
すー、すー、と、ほんのかすかな寝息が聞こえる。こんな距離で、彼女に触れている。
「ん……」
鼻から抜ける様な、かすかな声と共に、美穂の頭が少し揺れ、首に擦り寄られる。
甘いシャンプーの香りに、全身が沸騰するかと思った。
……どうしてこんなにも愛おしいんだろう。
自分が今どれだけ冷静さを失ってるか、痛いほどわかる。
(……でも、大切にしたい。こんな状況で、手なんか出したくない)
彼女のことを、大切にしたいと思った。
冗談じゃなく、本気で。
タクシーがアパートの前に到着し、真壁は美穂の肩にそっと手を添えた。
「花村さん、着きましたよ」
「んー……」
かすれた声とともに、うっすらと目を開けた美穂。おぼつかない足取りな彼女を支えて、アパートの階段を登り、彼女の部屋のドアの前まで一緒に歩いた。
柔らかい身体、熱って熱くなっている体温、酒の混じった美穂の甘い香り。その全てにくらくらとしてくる脳を、必死で働かせる。
「じゃあ、おやすみなさい」
これ以上は危険だ。そう思って、帰ろうとした瞬間。
シャツの裾を引かれた。
「……帰っちゃうの?」
弱々しくて、どこか寂しげな声。その言葉に、どうしようもなく心が揺れた。
けれど真壁は今にも消え入りそうな理性を総動員して言った。
「……帰りますよ。花村さんはちゃんと休んでください」
「やだ……」
「やだって……」
困ったように笑いながらも、美穂の顔を見ると、ほんの少し眉尻が下がっていて、瞳が潤んでいるようにも見えた。
「せっかく一緒にいたのに……なんですぐ帰っちゃうの……?」
「……いや、でも。夜も遅いし、酔ってるし……俺がここにいたら、花村さんがちゃんと休めないでしょ」
「ちゃんと……休めるもん……」
「ほんとに?」
「……ほんと。ちょっとだけでいいから……もうちょっとだけ、居てほしいな……」
その言葉に、真壁の心が、ぐっと締めつけられる。
ほんの少し沈黙が流れて、
「……じゃあ」
口に出してしまいそうになった言葉を、すんでのところで方向転換させて、なんとか出した言葉は、
「せめて、連絡先、交換してくれませんか」
美穂は、きょとんとした顔をして、瞬きを何度かした。
「……えっ?」
「それなら、いいでしょ? あとで……ちゃんと話しましょう。今度、酔ってないときに」
美穂はふわふわしたままの様子で、けれど心底嬉しそうに笑って言った。
「それ、いいかも……じゃあ……交換しよ」
そう言って、バッグをごそごそと探りながらスマホを取り出す。操作に少し手間取って、画面を見つめたまま、ぽそり。
「むむ……なんか……操作むずかしい……でも交換したいもん……」
そんなことを言いながら、彼女はようやく連絡先の交換画面を表示させた。真壁もスマホを取り出して、彼女の手元に視線を落とす。
無事に連絡先を登録し終えると、美穂は少しだけ照れたように笑って言った。
「えへへ。これで、真壁さんに……いつでも連絡できる……。嬉しいな」
「……俺もです」
そのやり取りのあと、美穂はふわっと笑って、
「じゃあ、またね……お休みなさい」
と、小さな声で言った。
「おやすみなさい。ちゃんと鍵、かけてくださいね」
真壁はもう一度優しく言って、美穂が中から鍵をかけたのを確認してから、今度こそ背を向けて歩き出した。
胸の中にあるものは、美穂を無事に家まで届けられた事への安堵と、やっぱりちょっと勿体無いことしたかなという多少の後悔と、それから、圧倒的な幸せな余韻。
こんなふうに、誰かのことを大切に想うのは、初めてだった。
駅に向かおうと歩き出した時、スマホの通知が来た。
《 おやすみなさい 》
画面に表示されたたった一行の文字に、胸が熱くなる。
《 おやすみなさい 》
すぐに返して、そして夜の道を歩き出す。
どうしたってにやけてくる口元を止める事ができなかった。
帰宅後。シャワーを浴びて、ベッドに倒れ込む。
美穂とのトーク画面を開く。
《 おやすみなさい 》
画面に表示されたたった一行の文字に、胸が熱くなる。
なんとも形容することのできないような、幸福感に満たされる。
目を閉じて、あの柔らかな笑顔を思い出す。
一緒に乗ったタクシーの中で、彼女がぽつりと言った言葉と可愛い声が、心の中で優しく響いた。
ーもっと……真壁さんのこと、知りたいもん……。
俺もです。花村さん。
そう心の中で、つぶやいた。




