第五話:二人きりの残業
主な登場人物紹介
花村美穂:二十五歳。会社員三年目。総務部総務課所属。何事にも一生懸命で、誰に対しても親切。裏表のない性格。
真壁悠人:二十八歳。キャリア採用で入ってきた年上の後輩。美穂に一目惚れした。美穂を前にするといつもの様な余裕のある行動が取れない自分に戸惑う。
明石渉:二十五歳。美穂の同期。営業部営業課所属。美穂とは時々帰りに飲みに行ったりする仲。同期の男性の中では一番仲が良く、美穂のことを気にかけている。
金曜日の夕方。
定時を過ぎたオフィスは、少しずつ人が帰り支度を始める雰囲気に包まれていた。
今日は金曜日だし、録画しているドラマでも見ようかと思っていたけれど、月曜日までに仕上げておきたい書類が、まだ完成していない。
土日に心おきなくゆっくり過ごすためにも、今日は遅くなる事覚悟で頑張る事にした。
(土日に溜まってる分、一気見しよ)
社会人になると同時に一人暮らしを始めてもう三年になるが、一人の家は少し寂しさもあるけれど、他の家族を気にせずにしたい事が出来るのは、少し楽だとも感じていた。
そうと決まれば、なるべく早く終わらせようと意気込んでパソコンに向かう。
ふと横から視線を感じ、そちらを見ると、先ほどまで別の書類を確認していた真壁が、こちらを見ていた。
「花村さん、残業ですか?何か俺に手伝える事、無いですか?」
気遣う様に聞いてくれる真壁に、それだけで嬉しい気持ちが湧いてきた。
「ありがとうございます。でも大丈夫です。もう定時過ぎてますし、真壁さんもご自分のお仕事早く終わらせて、早く帰りましょ。今日は花金ですよ!」
そう言って、再度パソコンに向かったが、先ほどよりも、ずっとやる気が湧いてきて、心の中でもう一度真壁に感謝した。
周囲の人が一人、また一人と「お先に失礼します」と挨拶して出ていくなか、美穂と真壁だけがフロアに残った。
一時間ほど集中して作業していた頃、ふと、美穂の隣にそっと紙パックのカフェラテが置かれた。
「え?」
顔をあげると、真壁が少し照れたような表情で立っていた。
「コンビニ行ってきたんです。花村さん、この前飲んでるの見て好きそうだなって思ったので。よかったらどうぞ」
「……あ、はい、ありがとうございます。このカフェラテ、すごく好きです」
とても嬉しい。
けれど、改めて真壁と二人きりというこの空間に気付いて、凄く緊張してしまっている自分がいた。
これまで何度も悶々と考えてしまっている、この前、倉庫で二人きりになったときのことがまた頭をよぎる。
静まり返ったあの空間で、距離が一気に近づいたあの時間。抱きしめられた腕の力強さ、その時の温もり、鼻腔をくすぐった清潔感のある真壁の香り。
思い出した瞬間、全身がじんわりと熱くなってしまった。
「……?」
ふと、視線を感じて隣を見ると、真壁が切なそうにキュッと眉を歪めてこちらを見ていた。何か言いたそうに口を開きかけて、でも、言葉にならずにパッと目を逸らす。
美穂はその表情に驚きドキリと心臓が跳ねて、戸惑いながらも、意を決して声をかけた。
「……あの、真壁さん?」
「……はい?」
少し驚いたように返されて、言葉を選ぶ。
「……何か、言いたそうでしたよね?」
真壁はほんの一瞬、表情を引き締めて、そして目を合わせてきた。
「……あの、花村さんって、営業の明石さんと仲良いんですか?」
突然の問いに、美穂は目を瞬かせた。
「え? 明石くんですか?」
「はい。この前、お昼一緒に食べてたのを、見かけたので……。なんだか、仲良さそうでしたから」
あの日だ。社食で明石と話していて、真壁のことを聞かれたあのとき。
(もしかして話してる内容、聞こえてたのかな?)
心臓が早鐘をうつ。
「明石くんとは同期なので、結構話すんですよ。同い年だし、同期の男の人の中では一番話しやすいかもです」
そう説明しながらも、あの時の会話の内容が脳裏をよぎる。
明石に、真壁の事を好きなのかと聞かれて、内心では凄くドキドキしながらも慌てて否定した。
思い出すとまた、顔が少し熱くなる。
(だけど、出した言葉は、そんなおかしな事は言って無いと思うけど……、やっぱり聞かれてたのかな?)
そう思いつつも、やっぱりちょっと気になって、確認しようと口を開いたその瞬間、
「……何で、そこで赤くなるんですか?」
低く、少しムッとしたような声で言われて、美穂はびくっと肩を震わせた。
「……好きなんですか、明石さんのこと」
真壁の瞳が、ギラリと熱を帯びる。
静かなフロアに響くその声と、感情を押し殺したような視線に、心臓をぎゅっと掴まれた気持ちになる。
美穂は視線を逸らしながら、ぽそっと答えた。
「……いえ、明石くんは、ただの仲良しの同期です」
ピリッとした空気の中、それだけを言うのが精一杯だった。声が震えそうになるのを抑えながら、それでも真っ直ぐに答えた。
すると
「……そうですか。良かった」
一気に、空気が柔らかくなった。
真壁の顔から険しさが消え、ほっとしたような、どこか安心した微笑みに変わっていく。
でも、その次の言葉が、思いがけず、美穂の胸を再び高鳴らせた。
「でも、羨ましいです。そうやって、自然に仲良くできて」
そう言って、真壁はそっと手を伸ばした。美穂の耳元にかかっていた髪を、優しく指ですくい上げて、ふわりと撫でる。
「俺も、あなたともっと早くに会いたかったな」
指先が頬をかすめた一瞬。火がついたように、顔が一気に熱くなる。
「へ……え、いえ。あの、えっと……」
言葉が出てこない。これまでの人生で、こんなにも優しく誰かに触れられたのは、これが初めてのことだった。
「今度また、俺ともお昼、一緒に行ってくださいね」
優しい笑顔でそう言って、真壁は手をそっと引いた。
「……は、はい。も、もちろん、です……」
顔が真っ赤になっていくのが自分でも分かった。耳の先まで火照っていて、もう恥ずかしくて真壁の顔が見られない。
「約束ですよ」
けれど、聞こえた真壁の声が本当に嬉しそうで、ちらっと彼の方を見ると、凄く幸せそうに微笑んでいた。
美穂は心の中で小さく叫ぶ。
(なに、これ……、心臓潰れそう……)
その後の作業は、驚くほど捗った。
けれど、それはたぶん集中していたからじゃない。 あの瞬間の言葉や指先の感触が、ずっと胸の中をふわふわと浮遊していて、気持ちが浮き立っていたのだ。
これでは駄目だとミスの無い様にいつもより念入りに確認をして、やっと仕事が終わったタイミングで、真壁が声をかけてきた。
「花村さん、俺の仕事終わりそうなんですけど、花村さんはどうですか?」
「あ、はい。私の仕事も丁度終わりました!」
さっきの事を思い出して、少し焦りながら答える。すると真壁はふわっと笑って、
「良かった。お疲れさまです。じゃあ、帰りましょうか」
そう言って帰り支度を始めた。
夜のオフィス。二人の声だけが静かに響く。
パソコンを閉じながら、美穂はふと真壁に言った。
「あの……さっきの話、なんですけど」
「ん?」
「明石くんのことじゃなくて……その、……真壁さんの話してたんです。食堂で、明石くんと」
「……俺の?」
驚いたように見返してくる瞳に、美穂は頷いた。
「はい。真壁さん、すごく頼りになる人だって。……それだけです」
小さく、でも確かな声で言った。真壁はしばらく黙ってから、ゆっくりと口元をほころばせた。
「……ありがとうございます」
その笑顔にまた、胸が高鳴る。
エレベーターで一緒に降りる帰り道。ほんの少しの沈黙が、妙に心地良かった。
会社を出て、美穂はカバンのストラップを肩に掛け直しながら、真壁の隣を歩いた。
「……駅まで歩きます?」
真壁が、ふいに尋ねてきた。夜の空気は少し冷たく、街灯の下で彼の表情が穏やかに浮かぶ。
「はい。歩いて十分くらいなので……」
そう返したものの、ヒールの靴が今日はやけに足に馴染まず、実は少し痛かった。慣れない残業で身体も重い。
それを察したように、真壁が優しく言った。
「俺、車、持ってきてるんです。よかったら、送りますよ」
「えっ、いいんですか?でも悪いんじゃ……」
「遠慮しないで。方向もこっちですし、駅までとは言わず、家の近くまで送りますよ」
申し訳ないな、と思いつつも、正直ありがたかった。
「じゃあ……お言葉に甘えて、お願いします」
「はい」
真壁を見ると、嬉しそうに微笑んでいた。
会社の立体駐車場に向かい、真壁が車のドアを開けてくれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます……」
乗り込んだ車内には、ふわりと爽やかな香りが漂っていた。車に置かれたリネン系の芳香剤らしい。
静かにエンジンがかかり、車は滑るように出発した。窓の外には、夜の街が流れていく。
「真壁さんって……車、似合いますね」
何気なく口にすると、真壁が少し笑った。
「え、そうですか?ありがとうございます。でも、こうして家族以外の女性を乗せるの、実は初めてです」
「え? 本当ですか?」
「はい。誰かを助手席に乗せるのって、ちょっと緊張しますね」
ちら、と横目で見られて、美穂は思わず前を向いた。
緊張って、何を?
聞き返す勇気が出なかった。
途中、信号待ちで車が止まる。
静かな車内に、好きなバンドの曲が微かに流れていた。知らずに口ずさむと、真壁が驚いたように反応した。
「え、花村さんもこの曲、知ってるんですか?」
「えっ、はい!好きで、大学の頃からずっと聴いてて……」
「え、まさかの趣味一致ですね。なんか、嬉しいな」
柔らかく笑うその顔が、街灯に照らされて美しく見えた。
(ダメだ……またドキドキしてる)
落ち着けと自分に言い聞かせても、心臓は素直じゃなかった。
やがて、美穂のアパートの前に車が停まった。
「ここで大丈夫ですか?」
「はい、ありがとうございます。本当に助かりました」
シートベルトを外そうとして、ふと横を向くと、真壁がじっとこちらを見ていた。
何かを言いたげに口を開きかけ、でも、少し迷っているような表情。
「……花村さん」
低く、けれど優しい声。
「はい……?」
「さっき……明石さんのこと、“ただの同期”って言ってくれたの、正直、すごく嬉しかったです」
「……!」
「ごめんなさい、ちょっと嫉妬してたんだと思います。勝手に」
彼の言葉は、誤魔化しが一切なくて、まっすぐでずるいほど、心に刺さった。
「……おやすみなさい。また、月曜日に」
真壁の声がやけに優しくて、胸がまた締めつけられた。
「……おやすみなさい」
車のドアを開けて外に出たあと、車が見えなくなるまで見送った美穂は、アパートの階段をふらふらとした足取りで登り、自分の部屋に入り鍵をかけてすぐ、その場にずるずるとしゃがみこんでしまった。
真壁の笑顔に、優しい声に、まっくずな言葉に。
はっきりと分かってしまった、自分の気持ち。
(私、真壁さんのこと、好きなんだ)
胸の中では、今日の出来事が何度も何度もリピートされていた。