幕間その4:嫉妬、そして独占欲(真壁悠人視点)
※この話は、第二十二話:嫉妬、そして独占欲 を悠人視点で書いた話です。
※二十二話の時点では玲奈を『氷室』と表記していたことから、この話では玲奈を『氷室』と表記しています。
主な登場人物紹介
花村美穂:二十六歳。会社員四年目。総務部総務課所属。何事にも一生懸命で、誰に対しても親切。裏表のない性格。
真壁悠人:二十九歳。キャリア採用で入ってきた年上の後輩で、恋人。美穂に一目惚れして、告白し、付き合った。四月の人事移動で本社に移動した。
氷室玲奈:悠人と同期の中途採用。営業部所属。営業部の同い年の先輩である、明石の事が好きで、告白して、時間をかけて関係を築いているところ。
四月に本社へ異動してから、悠人の日々は嵐のように過ぎていた。
新しい部署での業務は責任も範囲も大きく、気づけば朝から夜まで会議や調整に追われる。支社にいた頃のように、美穂と隣の席で言葉を交わす時間は、もう戻ってこない。
だが、忙しさの中でふと手を止めた時、自然と彼女のことを思い出す。声が聞きたい、顔が見たい。
毎晩届く美穂からのLINEのメッセージに、頬が緩む。それが、彼の一番の原動力になっていた。
六月のある日、久しぶりに数日間だけ支社に戻ることになった。懐かしさと同時に、胸の奥が期待で高鳴る。
そんな時、美穂から届いたメッセージを見て、心臓が跳ねた。
《 明日、こっちに戻ってくるって聞いたんだけど、もし良かったら夜、一緒にご飯食べられる? 》
嬉しさが全身を駆け巡った。
すぐに「もちろん」と返したかった。けれど、同じ夜にはすでに同期との飲み会が予定されていた。
正直、飲み会よりも美穂と会いたかった。
(今回は飲み会を断って、美穂との食事を優先しようかな)
そう思ったけれど、もしも彼女が飲み会がある事を知ったら、優しい笑顔できっとこう言うだろう。
ーーこっちは大丈夫だから、同期の飲み会に参加しなよ。
その言葉の裏にあるのは、美穂の優しさと遠慮で。
そんな彼女だからこそ、それを言われたら、自分は絶対に悲しくなる。
だから考え抜いた末に、正直に伝えることにした。
《 ごめん、明日の夜は同期で飲み会なんだ。》
それでも、会いたい気持ちは揺るがない。だから続けて送った。
《でも、明後日だったら空いてるよ。どう? 》
やがて届いた返信は、彼の胸をふわりと軽くした。
《 うん、明後日楽しみにしてるね。飲み会、楽しんできてね 》
ほんの一言なのに、安堵が広がる。彼女がメッセージを打ち込んでいる姿を想像するだけで、疲れが和らいでいった。
ーーー
翌日。
久々の支社は、思っていた以上に懐かしかった。人の動きも、机の配置も、空気の匂いすら馴染んでいる。
だが、席を並べていた美穂はいない。別の階の総務のフロアが、今はとても遠く感じられた。
その日は一日業務に追われ、気づけば夜だった。
同期の飲み会に合流すると、懐かしい顔ぶれに迎えられる。話題は近況報告や昔話。
それから氷室の恋愛相談も聞いた。最近急に明石に距離を置かれる様になったらしく、その事を酷く気にしていた。
時間はあっという間に過ぎていった。
そんな中、遅れてきた同期から何気ない一言を聞いた。
「総務のフロア、まだ電気ついてたよ。今日、総務課忙しいらしくて、まだほぼ全員残ってた」
その瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。美穂がまだ残業をしている。
彼女が遅い時間まで残ってしまうことがよくあるのを知っている。だからこそ、心配が募った。
飲み会を終えて外に出たのは夜十時を過ぎていた。
落ち込む氷室の話を同期で真剣に聞き、終わる頃には彼女は珍しく酔っていたが、晴れやかな表情を見せていた。
氷室の恋愛の話を聞いていると、美穂に会いたい気持ちが強くなってしまった。
(……美穂、今、何してるかな)
残業を終えた彼女が、まだ起きている可能性は高い。
(久しぶりに顔を見たい。出来るなら、今から家に行って、直接会いたい)
そう思って、迷わずスマホを取り出し、LINE電話をかけた。
だが、呼び出し音だけがむなしく響く。美穂は出なかった。
もう一度かけてみても、やはり繋がらなかった。
疲れて眠ってしまったのかもしれない。
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥がざわつく。遅くにかけてしまったことを詫びつつ、メッセージを送った。
《 ごめん、遅い時間に。会いたかったから電話したんだ。もしLINE見たら、何時でもいいから電話してほしい 》
送信後も、何度も画面を見返した。既読はつかなかった。
そして結局、翌朝になっても、既読は付かないままだった。
ーーー
悠人はその夜、あまり良く眠れず翌朝を迎えた。
美穂とLINEのやりとりをして、既読が翌日になっても付かないのはこれが初めての事だったので、悠人の不安は膨らむ一方だった。
(もしかして体調を崩したのかな……、それとも……)
考えれば考えるほど落ち着かなくなり、いつもより早く出社した。
総務のフロアを覗いたが、まだ誰もいなかった。
安堵と落胆が入り混じる。もし何かあれば報告があるはず。そう言い聞かせながら業務に戻った。
会議を終え、印刷室へ向かった時。
背中越しに見覚えのある姿を認めて、足を止めた。
美穂だった。
事故でも病気でもなく、彼女はそこにいて、ほっとした。
けれど、その雰囲気が、いつもの彼女と全く違っていることにすぐに気がついた。
斜め後ろから見えた表情は、影を落として深く沈んでいた。
「……美穂」
気づけば名前を呼んでいた。振り返った彼女の瞳が、一瞬大きく揺れて、そして、サッと逸らされた。
「……お疲れさまです」
これまで一度も聞いた事のない様な、冷たい響き。美穂は書類を抱え直すと、逃げるようにその場を離れていった。
残された悠人は、ただ茫然と立ち尽くすしかなかった。胸の奥に広がったのは、鋭い痛みと深い戸惑いだった。
午後、営業部で氷室との会議に臨んでいた。資料を広げ、必要な確認事項を進める。
さっきの事がどうしても頭を過ぎってしまい、なんとか切り替えて仕事に集中しようと努めていると、ふと視線を感じて顔を上げた。
ガラス越しに、美穂が立っていた。だがその顔は、今にも泣き出しそうなほど暗い。
彼女はこちらを見て、すぐに踵を返して去っていった。
胸の奥で、何かが崩れる音がした。
確実に避けられている。
だが、理由が分からなかった。考えられるとすれば、昨日の飲み会で聞いた、氷室との噂の件だろうか。
とはいえ、自分と付き合っているのは美穂なんだから、もし美穂がどこかで噂を聞いたとしても、それを否定して欲しいと思ったし、何よりも、彼女と付き合っている自分が、彼女に疑われているのだとしたら、それは耐え難い悲しみだった。
それでも、どう思っても避けられている事実は変わらない。
悠人は先程の、これまでに見た事もなかった美穂の態度と表情を思い出す。
もしかすると、このまま、美穂に振られてしまうかもしれない。
そんな不安が一瞬だけ頭を掠めて、すぐに否定した。
それに、もしも美穂に振られてしまう様な事があったとしても、もう美穂の隣に居る幸せを知ってしまった自分は、それ以前の自分に戻るなんて出来る訳が無かった。
だからそんな事になっても、どれだけ格好悪くても必死に足掻いて、絶対に美穂の事を離せないと断言出来る。
だからこそ、このまま、何の理由も告げられずに避けられ続けることは、絶対に許せる訳も無かった。
悠人は定時を迎えると同時に、美穂を捕まえるために総務のフロアに向かった。
だが、そこに彼女の姿はもうなかった。
嫌な予感が走る。急ぎ足で帰宅経路を追いかけた。
そして、見つけてしまった。
街灯に照らされた道端で、泣きそうな顔の美穂。そしてその頬に触れようとしている、見知らぬ若い男。
「あの、美穂さん、俺、」
その言葉が聞こえた瞬間、煮えたぎるようなどす黒い感情が全身を駆け抜けた。
未だかつて無いほどの嫉妬と怒り。彼女が涙を、他の男に見せていることすら許せなかった。
だが、頭は冷静で、一瞬の迷いもなく行動に移る。
背後から駆け寄り、彼女の腕を強く引いた。逃げ場を奪うように抱きしめ、片手で彼女の視界を覆った。
目の前のこの男から、美穂の事を隠したかった。
「ごめんね。この子、俺のだから」
出た声は、自分でも驚くほど静かな怒りが滲んでいた。




