第三十話:海の家
※玲奈が明石を名前で呼ぶようになったことから、以降は表記も「明石」ではなく「渉」に変更しています。
花村美穂:二十六歳。会社員四年目。総務部総務課所属。何事にも一生懸命で、誰に対しても親切。裏表のない性格。
真壁悠人:二十九歳。キャリア採用で入ってきた年上の後輩。美穂に一目惚れして、告白し、付き合った。四月の人事移動で本社に移動した。
氷室玲奈:二十六歳。悠人と同期の中途採用。営業部所属。凄く綺麗で仕事も出来、男性から凄くモテる。とても純粋な性格。外見ではなく自分自身を見てくれる渉を好きになり、告白して、時間をかけて関係を築いていき、付き合った。
明石渉:二十六歳。美穂の同期。営業部営業課所属。美穂とは仲の良い同僚。美穂への気持ちに気付いて告白したけれど、断られ、その後、玲奈に告白された。
八月上旬の休日のこと。美穂は化粧品を買うためにショッピングモールに来ていた。
ふと、水着売り場で真剣な表情を浮かべている、よく知った顔の女性の姿を見つけ、視線が止まる。
「……あれ? 玲奈ちゃん?」
思わず声をかけると、玲奈が驚いた顔で振り返った。
立ち姿すら美しく、その姿によく似合う、水色の涼やかなワンピースを着ている。ショッピングモールの照明の下でも彼女の美しさは際立っていた。
「あ、美穂ちゃん、偶然だね!」
玲奈はぱっと顔を明るくして微笑んだ。美穂は彼女に近づいていき、話しかけた。
「水着、見てたの?」
「うんそうなの。実は、親戚が海の家をやっててね。……ちょっと人手が足りないらしくて、来週末に、手伝いに行く事になってね」
「えっ、そうなんだ!大変だね……」
「海だし、一応インナーに水着着た方がいいらしくて……。でも、こういうのってあんまり見慣れてないから、どれを買えばいいのか迷っちゃって」
玲奈は少し恥ずかしそうに、ラックにかかるセパレートタイプの水着を手に取った。
綺麗な眉を下げながら、それを胸の前に当てて悩んでいる仕草は、普段のきりりとした営業スタイルからは想像もつかないほど可愛らしい。
美穂は思わずくすりと笑い、口を開いた。
「だったら、私も海の家のお仕事、一緒に手伝うよ!」
「えっ? でも、……うちの会社、副業禁止だから、ボランティアになっちゃうし、流石にそれは悪いよ」
「いいのいいの!だって、こんなことでもないと海に行く機会ってあんまりないし」
「……ほんとにいいの?」
「うん、任せてよ!玲奈ちゃん一人じゃ大変だろうし、私も手伝いたいから」
玲奈の表情が、感動に揺れて、柔らかくほどけた。
「ありがとう……! 今度、絶対にお礼するからね。あ、そうだ。その日、三時くらいには終わるらしいから、良かったらそのあと一緒に海で遊ばない?」
「わー、いいね!私、泳ぎたいな!海で泳ぐなんていつぶりかなぁ。……あ、じゃあさ、せっかくだし、シンプルなのじゃなくて、可愛い水着にしようよ!私も買っちゃお」
「ほんと?じゃあ一緒に選ぼっか!」
「いいね!玲奈ちゃんに似合いそうな水着、選ぶよ」
「私も、美穂ちゃんに似合いそうなの選ぶね」
二人は顔を見合わせて、楽しそうに笑った。
後日、美穂は悠人に、玲奈は渉に、それぞれ海の家で手伝いをすることを話したところ、どちらも二人だけで海に出かけることを心配して、自然な流れで彼氏二人も同行することになった。
ーーー
そして当日。悠人の車に四人の荷物を積み込んで、出発した。
運転席に悠人、助手席に美穂。後部座席には渉と玲奈が並んで座っている。
少し走ったところで、玲奈が口を開いた。
「三人とも、今日は完全に私の都合なのに、手伝ってくれて、本当にありがとう」
「ううん、私から言い出した事だし、本当に気にしないでね。それに、今日海の家を手伝うの、結構楽しみにしてたんだよ」
美穂が笑顔でそう答える。渉が真剣な表情で続けた。
「女二人だけで海なんて、心配するの当然だろ。……むしろ次からは、まず俺を頼って欲しい」
玲奈は目を丸くし、それから真っ赤に染まった頬を伏せた。
「……ありがとう」
その小さな声は、車内のエアコンの音にかき消されそうだったが、確かに響いていた。
「真壁くんも、ごめんね、ありがとう。車まで出してもらっちゃって……」
玲奈は運転中の悠人に視線を向ける。
「いや、構わないよ。明石さんも言ってたけど、やっぱり女性だけだと心配だし。それに……海に行くって、普段あんまり選択肢に入らないから、結構楽しみなんだ」
そう言う悠人に、美穂も弾んだ声を上げた。
「だよね!私も同じ事思ってた。海ってあんまり行こうと思わないから、なんか楽しみだよね」
そんな二人に玲奈は、似たもの同士だなぁと思い、くすっと笑った。
車を降りると、潮の香りが一気に鼻をくすぐった。
視界いっぱいに広がる青い海。照りつける太陽の光を受けた白い砂浜が眩しい。
「わぁ……すごいね、夏って感じ!」
美穂は目を輝かせ、両手を広げるようにして波打ち際を見つめた。
「ほんとだね」
玲奈も同じように眩しそうに目を細めた。
「……それじゃあ、頑張ろうか」
浜辺に建つ白い木造の建物。
軒先には「焼きそば」「かき氷」「冷やし中華」とカラフルな垂れ幕が揺れている。近づくと、すでに数人のスタッフが忙しそうに動き回っていた。
「玲奈ちゃん!今日は手伝い、ありがとうね!」
声をかけてきたのは、玲奈の叔母にあたるらしい女性だった。日に焼けた笑顔が温かい。
「それにお友達まで、……本当に助かるわ〜!」
四人は簡単な説明を受け、それぞれ接客を任されることになった。
ーーー
最初は戸惑いながらも、すぐに海の家は大盛況になった。
特に、玲奈と悠人の存在が絶大だった。
玲奈がレジに立てば、その美貌を一目見ようと若い男性たちが列をなし、悠人が注文を受ければ、優しい笑顔に胸をときめかせた女性客が次々とやってくる。
「……すごい人気だね」
焼きそばを鉄板でひっくり返しながら、美穂は小さく呟いた。
隣で飲み物を渡していた明石も、苦笑を浮かべる。
「……そうだな」
二人の視線の先では、玲奈に「写真撮ってください」と頼む男性客の姿。悠人の方でも「LINE交換しない?」と甘えた様な可愛い声が飛んでいる。
可愛い女の子達に声をかけられている悠人の様子を見て、美穂の胸の奥に、ちくりとした感情が芽生える。
それはほんの小さな棘だけれど、無視できない。
「……なんか、ちょっとモヤモヤする」
美穂がぽつりと漏らすと、渉は思わず彼女の横顔を見た。頬をふくらませるようにして下を向く姿が、まるで子どものようで、不謹慎だけど少し笑ってしまった。
けれど、渉も同じ気持ちで。
「わかるよ。俺も……正直、落ち着かない」
けれど、その瞬間。
今度は美穂の元に若い男の子たちが集まってきた。
「焼きそば二つ!あ、でもお姉さんが作ってくれたやつがいいな」
そう声を弾ませている。
今は仕事中だ。沈んでいる場合では無い。
「はい!焼きそば二つですね!」
気持ちを切り替えて明るい笑顔で返事をして、焼きそばを作った。
一方で、飲み物を担当していた渉にも、同年代の女性客が寄ってきていた。
「お兄さん、筋肉凄いね」「ねー、腕の筋肉、やばいよね」
そう言って、一人が腕に触ってきた。ぐいぐい来る感じに、反応に内心困りつつも仕事中なので無碍にも出来ず、渉は笑顔で対応した。
遠目でそれを見ていた玲奈の眉がきゅっと寄り、視線が鋭くなる。
悠人も、注文を取りながらちらりと美穂を見て、心配そうに目を細めた。
互いに互いを気にしながら、嫉妬心が胸の内で交錯する。
それでも、今は仕事中。四人は無言のうちに息を合わせ、汗を流しながら接客を続けた。
心の中ではモヤモヤとした感情を募らせながら。
ーーー
やがて。
昼過ぎには売り上げが十分すぎるほど伸び、海の家のスタッフから声をかけられた。
「本当にお疲れ様!みんな今日はもう休んでいいわよ!」
「えっ、もう終わりですか?」
美穂が驚くと、玲奈の叔母が笑顔で手を振った。
「大盛況だったからね。明日の分も売れちゃったくらい。この後は仕入れに行かなくちゃならないから今日はもう営業は終わりよ」
そして両手持った袋を差し出しながら続ける。
「あなたたちのおかげで本当に助かったわ。ほら、これ差し入れ。みんなで食べてね」
渡されたのは冷たい缶コーラと、山盛りの焼きそば。四人はお礼を言って受け取った。
浜辺のパラソルの下に四人で腰を下ろし、プルタブを引いた。
「じゃあ……お疲れさま! 乾杯!」
缶が軽くぶつかり合う音が、夏の空に響いた。
冷たい炭酸が喉を駆け抜ける。じゅわっとした刺激が火照った身体を潤し、自然と笑顔がこぼれた。
「ん〜っ!……生き返るね!」「焼きそばも美味しい!」
美穂と玲奈がはしゃぐ姿を、悠人と明石は目を細めて見つめていた。
焼きそばを食べ終えた悠人が、缶を砂浜に置いて立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ海に行こうか?」
「うん!せっかく来たんだし、楽しもう!」
美穂が元気よく頷き、玲奈もタオルを抱えて立ち上がる。
既に中に水着を着てはいるが、荷物を置いたり、水着の上に着ている服を脱ぐために、四人は一度、海の家の横にある更衣室へと向かった。
「じゃあ、後でね」
「うん。終わったらあそこのパラソルで集合しよう」
そう言いあって、それぞれ、更衣室の中へ消えていった。




