第二十三話:確かめ合う夜
主な登場人物紹介
花村美穂:二十六歳。会社員四年目。総務部総務課所属。何事にも一生懸命で、誰に対しても親切。裏表のない性格。
真壁悠人:二十九歳。キャリア採用で入ってきた年上の後輩で、恋人。美穂に一目惚れして、告白し、付き合った。四月の人事移動で本社に移動した。
悠人の車の助手席に座る美穂は、まるで悪いことをした子どものように、両手を膝に揃えて置いていた。
運転席側のドアが重く閉じる音がした。
彼は黙ったままハンドルに手を置いたまま、発進せずに前方を見つめていた。やがて、美穂の方を見て、ゆっくりと口を開いた。
「今日一日、……俺を避けてたよね?昨日も電話、出てくれなかったし。……何で?」
その声は、美穂の知っている悠人とは思えないほど低くて、冷たかった。
「……避けてたつもりは……」
「じゃあなんでこっち見ないの?ねえ、俺、何かした?」
「……だって、」
言いかけて、何だかじわじわと腹が立ってきた。
「……避けたいのは悠人の方なんじゃないの?」
自分でも驚くほど、冷たい口調になってしまった。
「は?」
悠人の戸惑った声と、訳が分からないという視線。
美穂は視線を落とし、小さく口を開いた。
「……同期と飲み会って言ってたよね?……でも、昨日、女の人と……二人で会ってるの、見たの」
氷室さん、という名前は言いたくなかった。
すると、彼の目がすっと細くなる。
「……ああ、氷室さんのこと?」
悠人は低く、吐き出すように言うと、スマホを取り出した。
美穂がちらりと見ると、画面にはグループLINEのトーク画面が開かれていた。
「見て。昨日の飲み会の写真。久しぶりだったからって、みんなで撮ったのをグループLINEに載せてくれたんだ。氷室さんだけじゃなくて、他にも三人、一緒に映ってるでしょ」
写真には、カメラ目線で楽しそうに笑っている男女の姿。
「……あ……ほんとだ」
呟くように言った美穂の声が、小さく震えた。
「美穂がいるのに、他の女性と二人で飲みに行くわけないでしょ。そんなバカなこと、するわけないよ、俺が」
言葉は穏やかだったが、声の底には拭えない哀しみが潜んでいた。
「……ていうか、美穂こそ、さっきのあれ、誰?」
「……前にLINEで伝えた、指導してる新人の子だよ」
「ああ、例の。……でも向こうはそれだけじゃない感じに見えたけど」
淡々とした声音の中に、微かな棘が混じっていて、美穂は言葉に詰まった。
「そ、そんなこと……」
「あるよ!……ずっと思ってたけど、美穂は自分の一言や仕草が男にどう受け取られるか、全然わかってない。男って、ほんとに、ちょっとの優しさでもすぐ勘違いするんだよ。美穂の良いところでもあるけど、心配になるよ」
「……でも、それだったら、悠人だってそうでしょ。他の人がいても、女の人に肩なんか貸してたら誤解されちゃうよ!」
「……? 美穂以外に肩貸した事なんて無いよ。もし昨日の事言ってるんだったら、並んで座ってただけだよ。氷室さんも、俺も好きな人いるのに、肩なんか絶対貸さない。……それ、絶対見間違いだよ」
悠人の言葉に、胸の奥がズキンと痛む。
「……そうなの?」
「そうだよ」
寂しそうな声の響きに、悠人の事を疑ってしまった自分が恥ずかしくて、罪悪感でいっぱいになった。
すると、悠人が思い出した様に口を開いた。
「……そういえば、昨日聞いたんだけど、会社で俺と氷室さんが付き合ってるって噂になってたんだって?」
「……うん。私も聞いた……。悠人と氷室さん、お似合いだよね、って……」
「はぁ?何でそんな事に……。で、それ聞いて、美穂は否定してくれたの?」
「……できるわけないでしょ。みんなの前で、私、彼女です、なんて言えないよ……」
「なんで?言ってよ。俺の彼女は、美穂でしょ?」
一瞬の沈黙。
「……そうだけど……」
「それに、俺は美穂一筋だし、氷室さんもずっと明石さん一筋だから、俺と氷室さんが付き合うとか、絶対にありえないことなんだよ。……でもまあ、美穂は氷室さんの好きな人のことなんて、知らないもんね」
悠人は一つ息をついて、美穂の方をまっすぐに見る。
「……ごめん、不安にさせて」
「……なんで悠人が先に謝るの……?」
美穂は堪えていた感情が堰を切ったように溢れてきて、涙が出そうになるのをぐっと堪える。
「私のほうこそ、……ごめん。勝手に疑って、……勝手に落ち込んで……。本当に、ごめんなさい……」
「……じゃあ、仲直りしよ?」
「……うん」
美穂が小さく頷くと、悠人はほっとした顔をした。
助手席に身を乗り出して、美穂の唇に優しくキスをする。
唇が重なった瞬間、息が詰まるほどの安堵と愛しさが美穂の胸に広がった。安心して涙腺が緩み、先程堪えた涙と笑顔が同時に溢れだした。
悠人は一瞬目を見開いた後、愛おしさに満ちた優しい笑みを浮かべ、溢れた涙を優しく拭うと、そっと目尻にキスを落とした。
そして、緊張の糸が切れたように、長く息を吐き出した。
「……良かった。……もしかして振られるのかもって焦った」
彼の、心からの安堵の声。
「……同じ事、思ってた。振られたらどうしようって……。でも、もう、悠人の隣に居られないなんて、考えられないから……」
美穂がそう言うと、悠人が美穂をじっと見つめて言う。
「美穂は分かって無いよ。俺がどれだけ美穂を好きなのか」
「え……?」
「俺から美穂を振るなんて、絶対にありえないよ。……もし美穂に振られても、俺は必死に足掻いて、絶対に離さないと思う。……重くて、ごめんね」
「ううん。嬉しい。離さないで。私も、離さないから」
そう言って、今度は美穂から悠人にキスをした。
「……悠人が、全然足りない。もっと欲しい……」
ちゅ、ちゅ、とキスを深めていく。
美穂の心の奥から溢れてくる、自分でも驚くほどの深い思いが、口をついた。
「ねえ、悠人。私ね、悠人を独り占めしたい。……私、意外と独占欲強かったみたい」
潤んだ瞳でそう囁くと、悠人が熱を帯びた瞳で美穂を見つめ、口角を上げた。
「……凄く嬉しい。でも、絶対に俺の方が独占欲強いよ。俺はもう完全に、全部美穂のものだから、安心して」
「……うん。ふふ、嬉しい。私も悠人のものだよ」
幸せそうに微笑む美穂の頬を、欲を秘めた手つきでそっと撫でて、悠人が低い声で囁く。
「……今日はもう、このまま、俺の家行くからね」
意味を理解して、美穂が頷いた。
「うん……。いっぱい悠人を感じさせて」
悠人を見上げる美穂の瞳は、どこまでも真っ直ぐ、彼の事を映していた。
「美穂……煽ったんだから、責任取ってね」
悠人はそう言って、アクセルを踏んだ。
ーーー
家に着くと、玄関を開けるなり悠人は美穂をドアに押し付けて、噛みつく様にキスをした。
キスはすぐに深くなった。触れ合うたび、互いの不安と寂しさを、少しずつ埋めるように。
「悪いけど、今日は優しくできないから」
悠人はそう言って、美穂を担ぎ上げると寝室に運び、ベッドに押し倒した。
激しく抱きしめられて、唇が重なって、体温が混ざり合っていく。確かめ合うような夜。
言葉よりも先に、心が繋がっていく。
「……美穂、……好きだ、……愛してる」
「……私も。……悠人、……愛してるよ」
その夜、二人は何度も何度も触れ合い、お互いの熱を確かめ合った。
愛しさと欲と、深い思いが絡み合い、熱い夜は更けていった。




