第二十二話:嫉妬、そして独占欲
主な登場人物紹介
花村美穂:二十六歳。会社員四年目。総務部総務課所属。何事にも一生懸命で、誰に対しても親切。裏表のない性格。
真壁悠人:二十九歳。キャリア採用で入ってきた年上の後輩で、恋人。美穂に一目惚れして、告白し、付き合った。四月の人事移動で本社に移動した。
氷室玲奈:悠人と同期の中途採用。営業部所属。凄く綺麗で、仕事も出来る女性。
草刈亮介:二十二歳。新卒で入社した新入社員。総務課に配属され、指導担当の美穂に淡い恋心を抱く。
六月の雨は、空気をじっとりと重くする。湿った風が人々の合間をすり抜けていく。
梅雨のジメジメした気配を紛らわせたくて、美穂は社内の給湯室で紙コップにほうじ茶を注いだ。ふわりと立ちのぼる香ばしい湯気に、思わず口元がゆるむ。
その時だった。
「……あの二人、やっぱ付き合ってるらしいね」
不意に耳に入ってきたのは、同僚たちの会話だった。
「あー、真壁さんと氷室さん?」
「そうそう、ほら、同期同士でしょ?営業と本社で職場は違うけど、異動前からよく一緒に居て仲良かったし、LINEで毎日やり取りしてるらしいよ……」
「えー、やっぱり?雰囲気お似合いだもんね。美男美女同士で」
美穂の手元の紙コップが、カタリと揺れた。
(……え?悠人と氷室さん?)
その名前を聞いた瞬間、思考が止まった。
そして次の瞬間には、心の奥からモヤモヤした感情が湧き上がる。
(んん?悠人と付き合ってるの、私、……だよね?)
会社では、二人が付き合っていることを特に公表していない。少しだけ知ってる人もいるけれど、本当にごく数人で。
付き合っている事をあえて隠していたわけでもないが、「付き合ってるのは私です」と言い出すタイミングも特になかった。
(……でも、どうしてそんな噂が?)
氷室玲奈。悠人と同じ中途採用の社員で、社内でも評判の高い、営業部の女性。
とても綺麗で凛とした美人で、悠人と二人で並んでいるのを見た時にあまりに絵になっていて、美穂はその姿に嫉妬したこともあった。
その時の事を思い出して、胸がチクチクと痛んだ。
けれど、メッセージ越しで悠人に事実を聞く勇気は出なかった。
ーーー
数日後。梅雨の合間の晴れた朝。
悠人が明日から数日だけこちらのオフィスに戻ってくると知り、胸が弾んだ。
あの噂のせいで少しモヤモヤはするけれど、やはり直接会えるのは、凄く嬉しかった。
(……久しぶりに、一緒にご飯食べられるかな。その時、直接、話も聞けたらいいな)
帰り際、勇気を出してLINEを送った。
《 明日、こっちに戻ってくるって聞いたんだけど、もし良かったら夜、一緒にご飯食べられる? 》
すぐに既読がつき、返信が届いた。
《 ごめん、明日の夜は同期で飲み会なんだ。でも、明後日だったら空いてるよ。どう? 》
(……そっか、飲み会)
ほんの少しだけ、胸が締めつけられた。
(本当は少しでも早く会いたかったけど、でも、会えるなら……)
そう思って、返信した。
《 うん、明後日楽しみにしてるね。飲み会、楽しんできてね 》
(うじうじしてたって仕方ない。悠人に会える事は変わらないんだから)
そう気持ちを切り替えて、スマホを鞄の中にしまって帰宅した。
そして翌日、悠人が飲み会に行っている夜。美穂はその日、遅くまで残業になった。会社を出る頃には、時刻は夜の十時近くになっていた。
(今日はもう、簡単に食べれるものでも買って帰っちゃおうかな……)
そんなことを考えながら歩いていた時だった。
駅前の角を曲がった瞬間、視界の端に、人影が見えた。
(……え?)
居酒屋の前のベンチに二人並んで腰掛けている。
一人は悠人。そして、もう一人の女性は氷室だった。遠目からだが、氷室が悠人に身を預けているように見えた。
二人ともこちらには気づいていない。けれど、美穂の心には、鋭い杭が打ち込まれた。
(……どうして、氷室さんと二人で……?)
(どうして、あんなに近くに?)
その場にいられなかった。足が勝手に動き出して、雑踏の中をすり抜けるようにして駅へと走った。見てはいけないものを見てしまったような気がした。
心がぐしゃぐしゃになって、言葉が出なかった。
家に帰り着いたときには、何もかもが崩れそうだった。
電気もつけず、玄関に座り込む。そして、耐えきれず、涙がこぼれた。
(やだ、どうして……。……どうして、二人が……)
もしも二人が噂通りの関係なのだとしたら……。
そうだったとしても、もう、悠人の事を諦めるなんてこと、美穂には出来そうに無かった。
(これから先、悠人の隣に居られないなんて、そんなの、絶対耐えられる自信ない……)
その時、スマホが震えた。画面には《 真壁悠人 》の名前。最近は忙しくてメッセージのやりとりばかりだったけれど、今日は電話がかかってきた。
けれど、美穂は指を動かせなかった。
電話が鳴り止んで、すぐに、また鳴る。それでも出ることはできなかった。
今、声を聞いたら、もっと泣いてしまいそうだったから。
美穂はスマホを裏返して、目を閉じた。
翌朝、梅雨の曇り空の下を歩きながら、スマホを見る。
スマホの画面には、昨夜、出なかった電話の後に届いていた悠人からのメッセージの通知。
けれど、美穂はそれも開くことが出来なかった。
もしも、関係が終わってしまったら……。そう思うと、内容を確認するのが怖かった。
(顔、合わせるのかな、……今日)
久々に同じ社屋にいる。けれど、フロアは違う。席も、もう隣ではない。以前なら、同じ部署で何かしら話す機会が多くあったけれど、今はその機会もない。
エレベーターがチン、と音を立てて開く。いつもの総務のフロア。椅子に座ると同時に、自分の胸が妙に重いことに気づいた。
こんな時、仕事は救いになる事を初めて知った。無心に仕事をしていれば、その時だけは嫌な事を忘れられるから。
けれど、印刷室に入った時。プリンターの前で誰かが歩いてきた気配を感じた。
「……美穂」
その声で、背筋が凍った。
顔を上げると、そこには悠人が立っていた。
昨日まで恋しくてたまらなかった顔が、今は直視できなかった。
「……お疲れさまです」
一瞬だけ目を合わせたけれど、すぐに視線を逸らした。
まるで、ただの同僚のように、極力、当たり障りのない声でそう言って、美穂は書類を抱えてすぐにその場を離れた。
(……何やってるんだろう、私)
逃げるようにフロアの端を歩きながら、自分を責める声が胸に響いた。
昼下がり、営業部に提出する資料を届けるため、美穂は営業のフロアへ足を運んだ。用件を伝えてから、帰ろうとしたそのときだった。
ふと、和やかに話している声が耳に入った。
視線を向けると、ガラス張りの会議スペースの一角に男女の姿があった。悠人と氷室だった。
二人は一つの資料を広げ、肩を並べるようにして内容を確認していた。時折、顔を上げては視線を交わし、自然と笑みをこぼす。
氷室が小さく首を傾げながら何かを言って笑い、悠人も頷いて応える。そのやり取りは、まるで長年コンビを組んできたような息の良さだった。
真剣に仕事の話をしているのは間違いない。けれど、その場に漂う空気はどこか柔らかく、親しみが滲んでいた。
その姿は、どこからどう見てもお似合いな二人で。
昨日のあの居酒屋の光景が、フラッシュバックのように蘇る。
足が止まってしまった。
胸の奥がきゅうっと縮むように痛み、ドス黒い感情に呑み込まれていく。
(……私って、こんなに嫉妬深かったんだ)
自分でも驚くくらいの、激しくて、重い感情。
(悠人の全部を、独占したい)
その思いが、喉の奥に張りついて、呼吸さえ苦しくなる。自分の中に、こんな感情があることを、美穂は知らなかった。
その場から早く離れたくて、早足にフロアを後にした。
夕方。業務が終わる頃には、美穂の気力はすっかり削られていた。
気落ちしている美穂を心配してなのか、同僚の何人かが飲み会に誘ってくれたが、断って早めに荷物をまとめる。
(……今日はもう、誰にも会いたくない)
悠人に顔を合わせる前に帰ろうと、会社を出て少し歩き出した時だった。
「美穂さん!」
少し息を切らせた声が、後ろから聞こえてきた。振り向くと、そこに、美穂が指導担当をしている、草刈が立っていた。
「……草刈くん?」
「今日の美穂さん、いつもと違ったから、……心配になって。帰り、駅まで一緒に行ってもいいですか?」
彼の真剣な表情に、美穂は戸惑いながらも頷いた。
帰り道、草刈は美穂の顔を心配するように覗き込みながら歩いていた。
そして、歩道の途中で立ち止まり、言った。
「あの、美穂さん……どうしてそんなに悲しそうなんですか? 俺、美穂さんがそんな顔してるの、耐えられないです」
その言葉に、美穂の目頭が熱くなり、視界がじんわりと霞んでくる。
(……ダメだ)
泣いちゃいけない、そう思っていたのに。
今、誰かに優しくされたら、張りつめていた心が一気にほどけてしまいそうになる。
草刈がそっと、美穂の手を握る。
そして、おそるおそる、彼女の顔に手を伸ばした。
「……美穂さん、泣いてる?」
そして、意を決した顔で、口を開いた。
「あの、美穂さん、俺、」
その瞬間だった。
突然、背後から腕を強く引かれた。
逃げ場を奪うように抱きしめられ、片方の手で視界を覆われる。泣き顔すらも、他の男に奪われることなど決して許さない、というように。
同時に、悠人の声が響いた。静かで、けれど確かな怒気を孕んで。
「ごめんね。この子、俺のだから」
驚いた草刈が言葉を失う。
「……悠人」
震えるように美穂が声を漏らすと、悠人は静かに囁いた。
「行くよ、美穂」
その声は、今まで聞いたことがないくらい低く、怒りを抑え込んだような迫力で、有無を言わせない強さがあった。
悠人は美穂の手を強く握り、そのまま引いて歩き出した。
二人がその場を離れたあと、草刈は何も言えず、ただ静かに背中を見送っていた。




