第二十話:特別な誕生日
主な登場人物紹介
花村美穂:二十六歳。会社員三年目。総務部総務課所属。何事にも一生懸命で、誰に対しても親切。裏表のない性格。誕生日は一月二十日。
真壁悠人:二十九歳。キャリア採用で入ってきた年上の後輩。美穂に一目惚れして、関わっていくうちにもっと好きになり、告白し、恋人になった。
一月下旬の土曜日。美穂のスマホに、朝一番、悠人からスマホにメッセージが届いた。
《 十時に迎えに行くね 》
ことのきっかけは、数日前のこと。
美穂の誕生日が近づいたある日、悠人が「今週末、美穂の誕生日を祝わせてほしい」って言ってくれた。
その言葉に、美穂は胸が温かくなって、思わず笑顔で頷いた。
けれど、どんなふうに祝ってくれるのか、詳しいことはまだ教えて貰っていない。
今、美穂は少し緊張しながら、約束の時間を待っている。
ドアのチャイムが鳴ったのは、十時ぴったりだった。
ドアを開けると、ベージュのロングコートを羽織った悠人が、微笑みを浮かべて立っていた。
「……おはよう、美穂。準備できてる?」
「うん……」
それ以外の言葉が出てこなかった。その笑顔がどこかいつもより凛々しく見えて、かっこよすぎたから。
「それじゃあ、行こうか。美穂、今日は特別な一日にするからね」
そう言って、彼は自然に美穂の手を取った。
ドキドキしながら最初に着いた場所は、少し高級感のある美容室だった。
「え、ここ……?」
「うん。セットとメイク、お願いしてあるから。……嫌かな?」
彼の目は真剣だった。私の返事を待つように、手をぎゅっと握ってくる。
「ううん、嫌じゃ無いけど、びっくりして……」
「だったら、良かった」
そう言って優しく微笑む彼の顔が、かっこよくてキュンとした。
美容室では、丁寧にセットされた髪がゆるく巻かれ、ふわりと軽く揺れる。メイクも少し大人っぽくなって、自分の顔じゃないみたいだった。
(まるで、映画の中の女の子みたい……)
そして次に連れて行かれた場所で、美穂は更に衝撃を受けて、一瞬、固まってしまった。
「えっ、あのドレス……」
思わず声が漏れた。
高級ブランドが並ぶショップ。そのウィンドウには、以前、デートをした時にたまたま見かけて可愛いなと思って見つめていた、パステルピンクのフレアドレスが飾られていた。
でも絶対に着る機会なんて無いと思っていたのに。
「……覚えてたの?」
「うん。美穂、じっと見てたから」
「そっか。見られてたんだ……」
ちょっと恥ずかしくて、頬を染める。その仕草を見て、悠人はクスッと笑いながら言う。
「着てみて。……っていうか、俺が着て欲しい」
「……うん。ありがとう」
ドレスに着替えて試着室のカーテンを開けた瞬間、悠人の表情が少しだけ崩れた。
「……やっぱり凄く似合ってる。美穂、綺麗すぎる」
その声が、低くて甘くて、心の奥を震わせた。
「そんな、言いすぎだよ……」
「言いすぎじゃないよ。本気」
視線が絡んで、呼吸が少し苦しくなる。悠人のたった一言で、ドキドキが止まらない。
夕方になって車が停まったのは、高層ホテルの駐車場で。
「え……ここに泊まるの?」
「うん、そう。でもまずは、ディナーだよ」
案内されたのは、最上階のレストラン。大きなガラス越しに、東京の夜景がまるで宝石みたいに光っていた。
「……すごい。ほんと、綺麗……」
「うん、本当だね。……でも、美穂のほうが綺麗だよ」
「もう、またそうゆう事言う……」
「だって、本音だし……」
でもそう言いながら、照れ臭そうに真っ赤になっている悠人を見て、それに少しほっとして、なんか可愛いな、とも思った。
豪華で美味しそうな料理が次々に並んでいく。何だか豪華すぎて、せっかく緊張が少しほぐれたのに、またすぐ緊張してきてしまった。
マナーとか、綺麗な食べ方とか、ホテルでの正しい態度がよく分からなくて戸惑っていると、
「美穂、緊張してるでしょ」
優しい声で悠人がそう聞いてくれた。
「うん……。こういうところ、初めてだから、マナーとかよく分からなくて」
すると悠人は、優しく言った。
「俺しか居ないんだし、マナーとか気にしないでいつもみたいに気楽に食事して大丈夫だよ」
「……え、でもいいの?こんな立派なホテルなのに」
「当たり前でしょ。緊張して味楽しめなかったらもったいないよ。それに、俺、美穂が美味しそうに食べてるの見ると、幸せになれるから」
「もう、そんな事言われたら逆に食べ辛いよ……」
そう言って、ふっと笑いが溢れた。
気付くと、さっきみたいな緊張は無くなっていて、美味しい食事を楽しむ事が出来た。
そんな美穂を悠人は幸せそうな顔で見ている。悠人の顔を見て、美穂もとても幸せな気持ちになった。
料理の最後に、誕生日プレートがついたケーキが運ばれてきた。
「美穂、誕生日おめでとう。美穂の誕生日を一緒にお祝いできて嬉しい。……これからも、ずっと、俺に君の誕生日を祝わせて」
「悠人、ありがとう。本当に嬉しい。私の方こそ、これからもよろしくお願いします」
美穂がそう言うと、悠人は表情をくずして、少しほっとした様な顔になった。
そして、頬を赤く染めながら話しだした。
「今日は絶対、美穂に喜んでもらえる誕生日祝いにしたかったんだ。俺の時のお祝い、本当に嬉しかったから。……俺、あんなふうに心を動かされたの、初めてで。本当に特別な一日だったから」
「……そうだったんだ。だったら嬉しい」
「……だから、ずっと考えてた。美穂が喜んでくれる事って、どんな事かなって」
彼の手が、そっと美穂の指先に触れる。
「今日が、美穂の特別な日になってたらいいんだけど……。でも結局、ドレスも、ディナーも、全部俺が、美穂の嬉しそうな顔を見たかっただけなんだけどね」
「……悠人、ありがとう。してくれた事、全部本当に嬉しいし、何よりもその気持ちが一番嬉しいよ」
美穂がそう伝えると、悠人は幸せそうに笑った。
悠人がくれたひとつひとつの思いが、とても嬉しくて、じんわりと幸せな気持ちが心に広がった。
「あともう一個、これも」
そう言って差し出された、シンプルなキーホルダーがついた鍵。
「……え、これって」
「俺の家の、合鍵。美穂が来たいって思ったとき、いつでも来てくれていいからね。まあ、プレゼントっていうより、これも、俺が持っててほしいだけなんだけど」
そう言って照れた様に微笑む。何よりも、悠人の思いに、胸が、ぎゅうっと熱くなった。
「……嬉しい。ほんとに、嬉しい。ありがとう」
そう言って、貰った鍵を、大事にぎゅっと抱きしめた。美穂の仕草を見て、悠人はふわりと微笑んだ。
食事を全て終えた後、最後にデザートワインが用意され、グラスに注がれた。
美穂は、とても綺麗な琥珀色をしたワインに、そっと口をつける。
「あ、美味しい……」
凄く甘くて、飲みやすいワインだった。
けれど。
「うわっ、……美穂、これはやめとかない?」
ワインに口を付けた悠人が、すぐに焦った様に美穂を見た。
「え、何で?すごく甘くて美味しいのに」
「いや、だって度数高いよ、このワイン。美穂、お酒弱いでしょ」
そう言われ、美穂は以前の飲み会での失態を思い出して、頬が赤くなる。
「またあんな風になったら俺、困るよ……」
視線を逸らし、頬を赤くしてそう言う悠人。
美穂は、そんな風に心配されることがくすぐったくて、胸が温かくなった。
本当は凄く嬉しい。けれど、悠人のその誠実さに、ちょっとだけ、甘えたくなってしまった。
「ふーん……、困るんだ?」
そう言うと、美穂はワイングラスを手に取って口をつけた。
ひと口、ふた口。キャラメルのような濃厚な甘さが口いっぱいに広がり、思わず目を輝かせる。
「……美味しい」
「美穂っ……!?」
慌てた声に顔を上げると、悠人が目を丸くしてこちらを見ていた。
その反応がおかしくて、つい「えへへ」と笑ってしまう。
「だって美味しいんだもん。ねぇ、これ、普通のワインより飲みやすいよ?」
心底嬉しそうに言う美穂に、悠人は額に手を当てて深いため息をついた。
「……はぁ、本当に心配になるよ。……でも、少ししか飲んでないし、この感じなら大丈夫そうかな」
不安げに様子をうかがう悠人の眼差しが、何よりも優しくて。胸の奥がじんわりと温かくなる。
「うん、思ったより、大丈夫そう」
少しぽわぽわするけれど、歩けなくなったり、呂律が回らなくなるほどじゃなかった。
「良かった。じゃあ、そろそろ部屋に戻ろっか」
ほっとした顔の悠人に案内されたのは、同じホテルのスイートルーム。
一歩足を踏み入れた瞬間、静けさと温かい照明に包まれて、まるで世界がふたりだけのものになったようだった。
けれど、レストランから部屋までの距離を歩くうちに、少しずつ酔いが回ってきた様で、何だか今は、頭がとてもぽわぽわしてきていた。
こんなにも素敵な空間に、悠人と二人きりで、幸せな気持ちでいっぱいで。
目の前の悠人で、頭がいっぱいになって、伝えたい気持ちが溢れてくる。
「ふふ、ゆーと、好き」
好きの気持ちが溢れてしまって、目の前の悠人にぎゅっと強く抱きついた。
「え、み、美穂……?」
焦ってる悠人が、とても可愛い。
お酒の力を借りて、上目遣いで悠人を見上げ、甘えた様に言う。
「ね、ゆーと、さっき、困るって言ってたけど、わたし、ゆーとになら、何されても嬉しいんだよ」
ほんのり熱を帯びた声が、自分でも驚くほど素直に漏れる。
「ゆーとは、それ、嫌なの?」
その時、プツン、と悠人の何かが切れた。
「嫌な訳ないだろ」
途端、悠人に抱き抱えられて、そのままベッドまで運ばれる。
少し乱暴にベッドに寝かされて、その上から悠人が重なって来て、噛みつく様にキスをされた。
「ん、……ゆーととのキス、好き。……気持ちいい」
キスの合間にそう言うと、悠人は顔を真っ赤にして、余裕の無い表情で美穂を見下ろした。
その夜は、熱くて深い、情熱的な夜を過ごした。
ーーー
翌朝。カーテンの隙間から差し込む光がまぶしくて、ゆっくりと目を開けると、目の前に、幸せそうに微笑んで美穂を見つめる悠人がいた。
そして腕が伸びてきて、ぎゅっと抱きしめられる。
「……おはよう」
「ご、ごめん、起こしちゃったのかな」
美穂が聞くと、
「ううん……起きてた。寝顔の美穂も可愛いなって思って見てた。ね、美穂、昨日のこと、覚えてる?」
悠人が優しい声で聞いてくる。
「うん、……覚えてる」
今回は、記憶がはっきりしていた。
今朝は頭も全然痛く無いし、二日酔いの様な症状も特に無い。
昨晩の行動は、確かにお酒の力を借りたものだったけれど、もしかすると、本当はそこまで酔っていなかったのかもしれない。
言った言葉も、した行動も、全部しっかりと覚えていた。
その分、凄く恥ずかしいけれど、でも、あれは確かに全て本音だった。
「そっか。……昨日、激しくしちゃってごめんね。止められなくて」
「……ううん、私がして欲しかったの。だからむしろ、嬉しいよ」
そう言ってから照れくさくなって、悠人の胸に顔を埋めた。すると、悠斗の腕が美穂の身体をぎゅっと強く抱きしめた。
「ああ、もう、なんでそんなに可愛いの」
「相手が悠人だからだよ」
「またそんな可愛い事言う」
ちょっと怒ったような口調の悠人に、クスッと笑ってしまった。
「幸せだなぁ……」
美穂がポツリと呟いた。
「うん、俺も凄く幸せ」
悠人がそう言って、続ける。
「この先もずっと、こうやって一緒に居て、寝て起きて、そして今日みたいに君におはようって言いたい。俺、美穂のこと……本当に、大事にしたいって思ってるから」
その言葉に、美穂はじんわりとした幸福感に満たされる。
「うん。もう充分すぎるくらい、大事にされてるよ。……私だって、悠人の事、大事にしたい」
悠人が美穂の頬に、優しく触れる。
そっと唇が重なる。あたたかくて、やさしくて、甘いキス。
「俺も大事にされてるって思う」
そう言ってまたキスが降ってきた。
昨日も今日も、そしてきっとこれからも、彼に何度も心を奪われていくんだろう。
そう思いながら、美穂は悠人の腕の中に包まれた。




