第十七話:温泉旅行の夜に
主な登場人物紹介
花村美穂:二十五歳。会社員三年目。総務部総務課所属。何事にも一生懸命で、誰に対しても親切。裏表のない性格。
真壁悠人:二十九歳。キャリア採用で入ってきた年上の後輩。美穂に一目惚れして、関わっていくうちにもっと好きになり、告白し、恋人になった。
「ちょっと恥ずかしいから、先に入ってて」
脱衣所まで一緒に行った後、視線をそらして頬を赤らめながらそう言う美穂に、悠人はふっと笑みを浮かべた。
「うん、分かった。待ってるね」
そう言って、悠人は先に露天風呂へ向かった。
(ほんとに、優しい人……)
脱衣所に一人残った美穂は、静かに息を吐いた。
どきどきが止まらない。けど、それは不安や怖さじゃなくて、純粋に、悠人への愛おしさからくるもので。
ふー、とゆっくり息を吐いて、タオルを胸に巻いて脱衣所を出た。
視線の先。
湯気の中、悠人が肩までお湯に浸かっていた。
濡れた髪が額にかかり、普段よりも少し無防備な表情。
その姿があまりにも自然で、かっこよくて、見てはいけないものを見てしまった気がして、美穂は慌てて視線を逸らした。
(……だめ、変に意識しすぎ……)
心を落ち着けようとしながら洗い場で身体を洗い、再度タオルを巻いて、露天風呂の縁に移動する。
そして縁にタオルをそっと置いて湯の中へ、彼の横に身を沈めた。
「美穂」
呼ばれた声の方を見る。
悠人がじっと、美穂を見ていた。月明かりと湯気に照らされた瞳は、確かな熱を宿していて。
「凄く綺麗だ」
悠人は恍惚とした表情で、そう言った。
美穂はそんな悠人の瞳に、目を奪われてしまった。
ただ、じっと、悠人を見つめる。
そして、数秒の沈黙が続いた後、
「ね、……もう少し、近づいてもいい?」
悠人が静かに聞く。その言葉に、美穂の心臓はドキリと跳ねた。
「う、うん……」
美穂が頷くと、悠人は静かに移動して、美穂の背後にぴたりと身体を寄せた。
そして、そっと後ろから、包み込むようにお腹に腕を回される。
背中に直に感じる彼の体温。湯の熱と混ざり合って、心臓の鼓動が急に早くなる。
「ふふ、心臓の音、すごい」
「だって……緊張してるもん」
「俺も、緊張してる」
悠人の声が、耳元にふれる。そして、ふいに囁かれるような声が届いた。
「美穂、空……見て」
その言葉に、彼の腕の中からそっと顔を上げる。
広く深い夜空の中に浮かぶ、満点の星。
都会では見られない、ひとつひとつがくっきりと瞬く星たちが、空いっぱいに散りばめられていた。
「……綺麗……」
「うん。本当に、綺麗だ……。この景色も、美穂と一緒に見れてよかった」
その一言に、胸がじんわりとあたたかくなった。
「また一つ、思い出が増えたね」
そう言って振り向くと、先程まで空を見ていた彼の瞳が、まっすぐに美穂を見つめていた。
そっと、唇が重なった。リップ音と共に唇が離れる。
もう一度。啄む様なキスを繰り返していくうちに、キスは深いものに変わっていく。
悠人の舌が唇に侵入してきて、美穂は一瞬怯んだ後、おずおずと受け入れる。
舌と舌が絡み合い、気持ち良さで脳が蕩けて、くらくらとしてくる。
「これ以上は、のぼせそう……」
美穂はくたっとしながら悠人にもたれかかった。
顔を見合わせると、お互い茹でだこみたいに真っ赤になっていて、ふふ、と笑った。
「そうだね。……もう出ようか」
美穂は頷きながら、少し名残惜しさも感じていた。
すると、悠人が美穂の方を見て、聞いてくる。
「でも、ちょっと名残惜しいから、明日の朝、もう一回入らない?」
「うん、私も同じ事思ってた」
そう言ってまた、笑いあった。
お風呂から上がったあと、二人は浴衣に着替えて畳に座った。髪を乾かしたあとの美穂は髪の毛をヘアクリップで束ねていた。
「美穂、可愛い」
悠人がぽつりと言ったその言葉に、美穂の頬がぱっと赤く染まる。
「悠人も、かっこいいよ……」
美穂がそう言うと、悠人が美穂の真横に移動してきて、耳に触れるくらいの距離でそっと囁いた。
「美穂、……触ってもいい?」
熱を帯びたその声は、とても真剣なものだった。
美穂は一瞬だけ目を見開いて、
「……うん、触ってほしい」
そう小さく答えた。
悠人の手がそっと美穂の頬に触れ、指先で輪郭をなぞるように撫でる。
そして、唇を重ねた。そっと触れる、やさしいキス。唇が離れ、今度は美穂からキスを返す。
気づけば、悠人の腕の中に抱き寄せられていた。畳の上、ふたりの影が重なり合う。
「……布団、行こっか」
「……うん」
ヘアクリップが外されて、悠人が美穂に覆い被さるような形で布団の上で横になり、見つめ合ったまま、しばらくの沈黙。
「……美穂、怖くない?」
「ううん。怖くはない。でも……あの、私……初めてで……うまく出来ないかも」
その言葉に、悠人の動きが止まる。
何も言わない彼に、不安になって、美穂は慌てて続ける。
「あ、ごめん……引くよね、二十五にもなって、経験なくて……」
社会人になるまでにも、仲のいい男友達は何人かいたけれど、恋人がいたことはこれまで一度もない。
こんなふうに、誰かを強く想って胸が苦しくなるほど恋をしたのは、これが初めての事で。
全てが初めてだから、悠人の反応が、少し怖い。
「引くわけない」
悠人の声が、震えを含んでいた。
「……むしろ、嬉しすぎるよ」
「……え?」
「美穂の初めて、俺が貰えるなんて、……嬉しすぎる」
その言葉に、美穂の目に涙が滲んだ。嬉しくて、安心して、心がじんわりと熱くなった。
「初めてが、悠人でよかった……」
そう囁くと、悠人が唇を強く重ねてきた。
噛みつくような、熱を帯びたキス。呼吸が絡み合い、唇が離れても、視線が外れない。
「……あんま煽らないで。大事に、優しくしたいのに……我慢できなくなる」
そう言うと、悠人は美穂の上に身体を重ねた。
夜の帳の中で、ふたりの心と体は、静かに結ばれていった。
ーーー
朝日が、障子越しにやわらかく差し込んでいた。
静かな温泉宿の朝。
畳の上に敷かれた布団の中で、美穂はまどろむように目を開けた。
まだぼんやりと靄がかかった頭の中で、昨夜のことを思い出す。
悠人に、抱かれたこと。彼の手が、自分の髪を撫でてくれたこと。熱の籠った「愛してる」の声。恥ずかしくて声を押し殺していると、「聞かせて」と囁かれたこと。
そして、どんな瞬間も、彼がずっとやさしくしてくれたこと。
(……幸せだなぁ)
布団の中、静かに寝息を立てている悠人の胸元に顔を埋める。
裸の肌に、彼の体温が優しく伝わってくる。
照れくさいけれど、幸せで満ち足りていて、心は驚くほど穏やかだった。
「……ん、美穂……起きた?」
寝ぼけたような声で、彼が目を開ける。
かすれた声。いつものスマートな雰囲気より、ずっと無防備で愛おしい。
「うん、おはよう……」
「……おはよう。……昨日のこと、後悔してない?」
「するわけないでしょ」
すぐさまそう返して、続ける。
「凄く幸せだったもん……」
そう言って、彼の胸に顔をうずめた。悠人の腕が自然と背中にまわり、やわらかく抱きしめてくる。
「……嬉しい。俺も、幸せだった」
ふたりしてふふっと笑い合った。
笑顔を交わしただけで、またキスしたくなる。悠人の手が、美穂の頬に添えられ、ゆっくりと唇を重ねた。
朝の光の中で交わすキスは、昨夜よりもやさしくて、静かに心を満たしてくれる。
「……でもなんかね、まだ信じられない。なんか夢みたいで」
「……信じてよ。夢だったら、悲しい」
その一言に、頬が赤くなり、胸がきゅんと鳴った。
頬を真っ赤に染めた美穂を見て、悠人は幸せそうに笑うと、首元にキスを落とした。
「美穂、可愛すぎる。……ねえ、もうちょっと、このままでもいい?」
「うん。……わたしも、もうちょっとこうしてたい」
静かな朝、ふたりは布団の中でくっついたまま、温もりを分け合った。




