第十六話:誕生日の温泉旅行
主な登場人物紹介
花村美穂:二十五歳。会社員三年目。総務部総務課所属。何事にも一生懸命で、誰に対しても親切。裏表のない性格。誕生日は一月二十日。
真壁悠人:二十九歳。キャリア採用で入ってきた年上の後輩。美穂に一目惚れして、関わっていくうちにもっと好きになり、告白し、恋人になった。誕生日は九月十八日。
やわらかな陽の日差しが温泉街の屋根瓦を優しく照らし、湯けむりが静かに揺れている。
九月中旬の土日の事。美穂と悠人は、悠人の誕生日のお祝いに一泊二日で温泉街に来ていた。
「温泉街って、あっちこっちからいろんな匂いがするよね。あ、悠人、あっちに温泉まんじゅう売ってるよ」
瞳をきらきらさせながら周りの風景を見ていた美穂は、目を細めて悠人に笑いかける。
二人きりの旅行。悠人に楽しんでもらいたいという気持ちが一番だったけれど、やはり美穂自身も、この時間が心から楽しかった。
街のあちこちから漂う硫黄の香りと、ほのかに香る焼きたてのお饅頭の匂いが、どこか懐かしく、心をほっとさせてくれる。
隣を歩く悠人は、美穂を見ながら優しい微笑みを浮かべていた。
「こんな風にのんびり歩くの、久しぶりだな」
そう言った悠人に、美穂は笑顔でうなずいた。
「じゃあ今日は、思う存分、のんびりを満喫しようね」
昼食は、温泉プリンとよもぎ団子が美味しい事で有名なカフェで、簡単な軽食と、美穂はプリン、悠人はお団子をそれぞれ頼んだ。
美穂が、キラキラした瞳でプリンを一口食べる。
滑らかに口の中でとろけて、濃厚な甘さが口いっぱいに広がった。
「……ん〜っ!おいしい〜っ」
美穂は思わず声を上げて感動してしまった。
「ね、悠人、このプリン、すっごく美味しい…! 悠人も食べてみて?」
そう言ってプリンをスプーンに乗せて悠人の目の前に差し出して、そこまでしてしまってから、急に自分のしている事が恥ずかしくなった。
「ご、ごめん……。急にこんな事……」
すごすごとスプーンを戻そうとした時、悠人がスプーンを持った美穂の手を掴んで引っ張り、そのままぱくっとプリンを食べた。
「……うん、美味しい」
耳まで赤くして照れながらそう言う彼がなんだかとても可愛くて、そしてとても愛おしかった。
(でも多分、今、私も同じくらい真っ赤になってる……)
美穂は自分の頬が凄く熱くなっていることを実感しながら、そう思った。
午後からは、街のシンボルでもあるロープウェーに乗って、山頂へと向かう。
「凄い、……絶景だね……」
上へ上がるにつれて広がっていく美しい景色に感動しながら美穂が窓の外を眺めていると、悠人が美穂の手をそっと握った。
美穂は、一瞬ぴくっと肩を揺らして、そして、そっと握り返した。彼の温かい手に、じんわりと心が満たされた。
山頂に到着すると、遠くの山々や海まで一望できる絶景が広がっていて、涼しい風が頬を優しく撫でた。二人は手を繋いだまま肩を並べて、しばし無言で景色を楽しんだ。
「……ねえ、悠人」
「ん?」
「私ね、綺麗な景色って、これまでも何度か見てきたけど、……悠人が告白してくれた時のあの展望台での景色と、今見てるこの景色ほど心が動いたことって、……たぶんない。悠人と一緒に感じた空気とか、匂いとか、この風の感触も、……全部、ずっと覚えていたいな」
何故か涙がこぼれそうになってきて、それをこらえながら、美穂はそう言った。
「俺も。……同じ景色を見て、同じ気持ちでいられるって、こんなに幸せなことなんだね。……これからも、一緒にいろんな所に行って、増やしていけたら嬉しいな」
「……うん、そうだね」
「ねえ、美穂。俺、今くらいの時間に、生まれたんだ。……その時間に、美穂とこの景色を一緒に見れて、本当に嬉しい」
そう言って、美穂を愛おしそうに見つめる悠人に、美穂は、幸せな気持ちでいっぱいになった。
「悠人、お誕生日おめでとう。この二日間、悠人が生まれてきてくれた事、いっぱい祝わせて。たくさん、思い出作ろうね」
「……うん、ありがとう。俺、今すごく幸せ。最高のプレゼントをありがとう。こうして一緒にいられることが、俺は一番嬉しいから」
悠人はそう言うと、きゅっと美穂を抱きしめた。美穂も、彼の背中に腕を回し、抱きしめ返した。
ーーー
日が傾き始めた頃、二人は旅館に着いた。
老舗の和風旅館。落ち着いた木の香りに包まれた玄関を抜けると、女将さんが丁寧に頭を下げて出迎えてくれた。
「こちらが本日のお部屋になります」
女将さんが襖を開ける。そこは畳の匂いがほんのり香る、広々とした和室だった。
「……すごいな、こんな部屋……」
悠人がそう言ってくれた。
「えへへ、喜んでもらえて良かった。せっかくの誕生日だから、ちょっと頑張ったんだ」
和室の奥には、硝子戸越しに風情ある石造りの露天風呂が見える。すぐそばには灯篭と小さな紅葉の木。心がほぐれるような美しい空間だった。
「大浴場もございますが、お部屋には源泉かけ流しの露天風呂もございますので、ぜひご利用くださいませ」
露天風呂。
美穂が予約したのだから、あるのはもちろん分かっていた。けれど、実際露天風呂を目の前にすると、美穂は小さく息をのんでしまった。
ちらっと悠人を見ると、少し戸惑っている様に見えた。
「それでは、ごゆっくりお過ごしください」
女将さんはそう言って去っていった。
(さ、誘わなきゃ……。一緒にお風呂入ろって、言うんだ……)
食事処に移動し、とても豪華な会席料理を食べたが、心の中はどうやって露天風呂に誘うかばかり考えてしまい、緊張で全く味が分からなかった。
その後、部屋に戻っても、そわそわと落ち着かず、悠人と視線を合わせることすら、なんとなく照れくさくて出来なかった。
「美穂」
「ひゃいっ!」
悠人に呼ばれ、緊張で肩が震え、声が裏返ってしまった。
焦って真っ赤になりながら振り返り、悠人の方を見る。目が合うと、彼がクスクスと笑いだした。
「わ、笑わないで……」
穴があったら入りたい。
「ごめん。……ちょっと、さっきから美穂の動きが可愛すぎて……」
悠人はそう言うと、耳まで真っ赤に染めあげてガチガチに緊張している美穂にゆっくりと近づいて、そして、そっと優しく抱き寄せた。
優しく守る様に身体を包み、ぽん、ぽん、と安心させるように一定のリズムで背中を叩いてくれた。
「美穂、一緒に入ろうと思ってくれてたんでしょ?」
「……うん」
美穂は真っ赤になってこくりと頷く。
「ふふ、可愛い。……そうしようって頑張ってくれたって分かっただけで、俺はもう、十分幸せだから」
回した腕の力が、少しだけ弱まる。
「だから今は、無理して一緒に入ろうとしなくて大丈夫だよ」
彼の言葉はとても優しくて、包み込むようで、心があたたかくなった。
でも、今は、その優しさが、弱くなった腕の力が、少し悲しい。
(なんでだろう。嬉しいはずなのに、なんだか少し、寂しい)
黙って俯いた美穂に、悠人がそっと声をかける。
「大浴場まで、一緒に行く?それか、美穂はここで入っても良いし」
「……違うの、そうじゃなくて……」
美穂は顔を上げた。緊張で潤んだ瞳で、真っ直ぐに悠人を見つめて。
「悠人に喜んでもらいたいっていう気持ちももちろんあるんだけど、……、ほんとは私が、……一緒に入りたいだけなの。だからここを選んだの。ね、悠人、一緒に入ろ……?」
震えて、いつもより少し上擦ってしまった声。
頬が赤く染まり、でも、目線は逸らしたくなくて、美穂は彼をじっと見上げる。
悠人は顔を真っ赤にして驚いたように瞬きをして、それから、照れくさそうに笑った。
「……どうしよう、……めちゃくちゃ嬉しい……。本当は一緒に入れないの、すごく残念だったから……」
頬を真っ赤に染め上げた美穂は、悠人の手をそっと握ると、露天風呂の方に向かった。




