第十三話:展望台で
主な登場人物紹介
花村美穂:二十五歳。会社員三年目。総務部総務課所属。何事にも一生懸命で、誰に対しても親切。裏表のない性格。
真壁悠人:二十八歳。キャリア採用で入ってきた年上の後輩。美穂に一目惚れした。美穂を前にするといつもの様な余裕のある行動が取れない自分に戸惑う。
山道をゆっくり登った車が、展望台の駐車場に停まった。
エンジンが切られ、車内が静かになる。
「真壁さん、運転ありがとうございました」
真壁にお礼を言った後、美穂は助手席のドアを開けて、外に出た。二人並んで小道をたどり、展望スペースの方へ向かう。
「わ……」
展望スペースに着いてすぐ、思わず、声が漏れた。
目の前に広がっていたのは、想像以上の景色だった。遠くに広がる青く澄んだ湖、ゆったりと連なる山々。心地よい風が、髪を優しく揺らした。
「……綺麗」
その言葉が、口から自然とこぼれ落ちた。
「うん、……すごく綺麗です」
背後から優しい声が届く。振り返ると、真壁がすぐそばに立っていた。
彼の瞳は、景色ではなく、美穂をまっすぐに見ていた。
少しの沈黙のあと、真壁が口を開いた。
「花村さん、話したいことがあるんですが……聞いてもらえますか?」
その真剣な表情に、胸がきゅっと締めつけられるような感覚が走る。
美穂は静かに頷いた。
「はい」
「ありがとうございます」
真壁はスッと小さく息を吸って、言った。
「俺は花村さんのことが好きです」
真っ直ぐな告白に、美穂の心臓が跳ねた。
頬が熱くなり、胸の奥がざわついた。
「これまでの人生で、こんなにも人を好きになったことがないほどに、あなたの事を思っています。あなたと付き合って、一緒に笑ったり、泣いてる時は慰めたり、……そんな風に、ずっと、一番近くに居れる存在になりたい」
一度言葉を止め、少し苦しそうな顔になり、続ける。
「……けど、今すぐに返事が欲しいとは、思っていません。しっかり考えてから、答えをだして欲しいんです。仮に付き合えたとして、後でやっぱり無理だったって言われたら、たぶん俺は、一生立ち直れないと思います。……だから時間がかかってもいいので、俺と付き合うことを、考えてもらえませんか?」
誠実で、でもどこか不安も滲ませたその声は、まるで彼の心そのものだった。
まっすぐで、温かくて、少しだけ臆病で。
その言葉を聞きながら、美穂の胸の奥で、何かがふわっとほどけていくのを感じた。
「……それ、今、答えちゃ駄目ですか?」
「え?」
真壁の目が、驚いたように見開かれる。
「私、今日、たくさん真壁さんと話せて、いろいろと真壁さんのことを知れて……、それがすごく嬉しかったです。これから一緒にしたいこともたくさん約束できて、それを特別な存在として、一緒にできたらいいなってずっと思ってました」
美穂は、両手をぐっと握りしめて続けた。
「後でやっぱり無理だった、なんて思うわけないです。私だって……真壁さんが好きです。どうか……私と付き合ってください」
風が静かに吹き抜ける。
それはまるで、ふたりの世界を包み込むような、優しい風だった。
真壁は少しの間、言葉を失っていた。
けれど次の瞬間、彼は美穂に一歩近づくと、その小さな身体を腕の中に引き寄せた。
「……嬉しい。ほんとに、嬉しいです……」
抱きしめられたその温もりは、安心で満ちていた。
どくん、どくんと、真壁の鼓動が伝わってきて、美穂の胸も同じように跳ねていた。
「俺……絶対、花村さんを大事にします。これから、たくさん幸せにしますから」
「……はい」
小さく返事をしながら、美穂は真壁の胸元にそっと顔を埋めて、彼の背中に手を回し、抱きしめ返した。
こんなに温かくて、安心する場所が、この世界にあったなんて。心の中が、優しい幸せな気持ちで満たされていく。
しばらくふたりは、何も言わずに抱き合っていた。
沈み始めた夕陽が、辺りを柔らかなオレンジ色に染めていて、まるで二人の事を優しく祝福している様だった。
ーーー
帰り道、車の中の空気はどこか穏やかで、柔らかだった。
言葉は少なくても、心は確かに繋がっている。そんな不思議な安心感があった。
美穂の自宅前に着くと、真壁はエンジンを切り、運転席からそっと美穂を見つめて、言う。
「今日は……本当に、ありがとう。これから、よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします。今日、すごく幸せな一日でした。ありがとうございました」
「……また、すぐ会いたくなりそう」
「ふふ……私もです」
ふたりは見つめ合って、少し照れたように笑い合った。
「じゃあ……また連絡するね」
「……はい」
美穂がドアに手をかけようとした、その瞬間。
「花村さん」
「え?」
呼び止められたと思った次の瞬間、真壁が身を乗り出し、美穂の額にそっと唇を落とした。
優しくて、温かくて、胸がキュンと締め付けられる、そんなキスだった。
「……おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
車を降りて、真壁の車が去るのを見送った後も、しばらくその場から動けなかった。
真壁の唇が触れた額が、じんわりと熱を持っていた。
この日見た景色も、交わした言葉も、触れた温もりも、きっとずっと忘れない。
初めて「恋人」になった夜は、静かで、優しくて、そしてとても幸せだった。




