第十話:夜の電話で
主な登場人物紹介
花村美穂:二十五歳。会社員三年目。総務部総務課所属。何事にも一生懸命で、誰に対しても親切。裏表のない性格。
真壁悠人:二十九歳。キャリア採用で入ってきた年上の後輩。美穂に一目惚れした。美穂を前にするといつもの様な余裕のある行動が取れない自分に戸惑う。
明石渉:二十五歳。美穂の同期。営業部営業課所属。美穂とは時々帰りに飲みに行ったりする仲。同期の男性の中では一番仲が良く、美穂のことを気にかけている。
夜、仕事から帰った真壁は、食事や入浴、家事等のすべき事を早々に終わらせると、静かな部屋の中で逸る気持ちを抑えつつ、ソファーに腰掛けた。
テーブルの上に置いたスマホに目を向ける。
LINEのトーク画面が開かれている。名前は《花村美穂》。
(今日は一日中、楽しみで仕方なかったな)
今朝、電話をする約束をして、美穂が驚いたように頷いてくれて、もうそれだけで胸が震えた。真壁の方が三歳も年上なのに、いつも彼女の前では余裕がなくなる。
美穂が優しく笑ってくれるたびに、どんどん好きになっていく。
(……早く話したい)
そんな想いに突き動かされて、気づけばスマホを手に取っていた。
《電話しても大丈夫ですか?》
文章を書いて、送信ボタンを押すまでに、ずいぶんと時間がかかった。
けれど送ったら一瞬で“既読”がついて、すぐに返信がきた。
《大丈夫です》
もしかして、待っていてくれたのだろうか。そう思うと口元がにやけてくる。
でもそんな情けない表情で電話なんて出来ないから、コホッとひとつ咳払いをして、顔を引き締める。
どうせなら顔が見たいと思い、思い切ってビデオ通話で電話をかけてみた。
通話のボタンを押すと、すぐに応答があり、彼女の顔が画面に映った。
向こうもビデオモードをオンにして顔を見せてくれた事が、嬉しくて堪らない。
「こんばんは」
挨拶をすると、少し緊張した様な表情で、
『こんばんは。お疲れさまです』
そう返してくれた。
乾かしたての髪が肩にかかっていて、顔はどこか火照っているようにも見えた。
着ている服はオフホワイトのゆったりとした部屋着で、いつもの職場では見ることの出来ない自然体な彼女の姿に、胸がきゅっと締め付けられた。
(やっぱり、好きだ)
その想いは日に日に強くなって、もう隠せる自信がなかった。
「今、大丈夫でしたか?」
『はい。あの……、真壁さんは?』
「はい、今日は早く帰れたので。花村さんと早く話したくて」
素直に正直な気持ちを言うと、可愛く照れたような表情を見せてくれた。それを見ただけで、疲れが一気に吹き飛んだ。
そして、不意に言われた。
『なんか……、雰囲気、違いますね?』
自分と同じことを考えてくれていたことが嬉しくて、笑ってしまった。
「そうですか?」
『……はい。なんか、柔らかいというか……、オフって感じ』
少し嬉しそうな声でそう言われて、妙に照れくさかった。
「そっか。花村さんも、いつもよりリラックスしてるように見えます。あれ、でもなんか……、」
どこか、いつもと違う。すぐにそう、気がついた。
「もしかして何かありましたか?」
そう言うと、少し気まずそうに、さっと目線を逸らされた。そして。
「……何もないですよ」
明らかに何かがあったと分かる。こんな時、他の人相手なら絶対に踏み込まない。
だけど、美穂相手だとそれが出来なかった。だって、どうしたって、気になる。
「何か、ありましたよね」
質問ではなく断定で、再度同じ事を言った。すると、美穂がおずおずと聞いてきた。
『分かりますか?』
「はい。すぐに分かりました」
美穂の答え方に少し不安を覚えながら、そう返した。
『私って、顔に出やすいんでしょうか……』
眉を寄せながらそう言う美穂。
正直、顔に出やすい人だと思う。そしてそれは、美穂の良いところだとも思っている。
「まあ、花村さんが顔に出やすいのは否定しません。だけどそうじゃなくて、……花村さんの変化だから気づいたし、気になるんです。他の人だったら、そもそも気にすらしません」
顔に出やすいから気づいたんじゃない。それを分かってもらいたかった。
美穂の態度から、言い辛い事なのが手に取る様に分かり、逆にだからこそ、何があったのか気になって仕方がなかった。
「隠されたら多分、俺はずっと気にし続けると思います。だから、何があったのか教えてほしいです。もちろん、強制はできませんけど……」
気がついたら懇願する様に、そう言っていた。
『……あの』
いつもより少し小さな声。何かを告げる前の、あの特有の間。
嫌な予感がして、無意識に息を呑んだ。
『実は、今日……、明石くんに、告白されまして……』
瞬間的に、脳のどこかが、静かに凍りつくのを感じた。
「……は?」
自分から教えてほしいと頼んだというのに、いざそれを言われたら、口から出てきた言葉は、まるで自分のものとは思えないような冷たい声だった。
(ああ、最悪だ)
このまま、彼女が「付き合います」なんて言ったら。
絶対に立ち直れない。もう会社でもまともに接することができないかもしれない。
「それで、なんて答えたんですか?……付き合うの?」
抑えようとしても、声がとげとげしくなるのを止められなかった。こんな自分は、見せたくなかった。
『い、いえ。断りました』
彼女がかすかに震えた声で、そう言った。
「……そうですか。良かった」
あからさまにホッとした。
明石と美穂が仲がいいのは、どこからどう見ても明らかだったから。
たとえ彼女にその気がなかったとしても、告白されたら気持ちが向くことなんていくらでもあると思っていたから。
こんなにも安堵したのは、人生で初めてかもしれない。
彼女が他の誰かのものにならなくて、本当に、本当に良かった。けれど別に明石に限った話ではなく、今後、こういった事はいつあってもおかしくない。
他の誰にも、取られたくない。自分の事だけ、見ていて欲しい。
そう思うと、もう、動く以外に選択肢は無かった。
「……今度の休み」
『はい』
「一緒にドライブしませんか?俺、車出すんで。それで、時間の許す限り、たくさん話しませんか?」
画面の向こうで、彼女の表情がぱあっと明るくなる。
『行きたいです!真壁さんとお話ししたいです!』
その答えが、何よりも嬉しかった。
「ふふ、良かった。じゃあ、楽しみにしてますね」
自分でも少し驚いてしまうほど、明るくて優しい声が出た。
『はい!私も楽しみです』
そう言って微笑んでくれる美穂。
この人の隣にずっと居れる存在でありたいと、心から思った。
『……えっと、それじゃ、明日もあるのでこの辺りで。真壁さん、おやすみなさい』
「おやすみなさい、花村さん」
名残惜しく思いながら通話を切って、スマホを胸に抱えて、しばらく動けなかった。
初めて会った時に感じた、初めての感情ーー。
それからはもうずっと、彼女のひとつひとつの行動に毎回一喜一憂させられている自分。
そんな自分に戸惑いはありつつも、嫌ではなかった。
「……俺、本気で、惚れてるんだな」
静かな部屋に、自分の声がぽつりと響いた。




