第一話:はじめまして、真壁さん
「みんな、ちょっと注目してくれる?」
四月一日。新年度一日目の朝。
始業チャイムとほぼ同時に、課長の声が総務課のフロアに響いた。まだコーヒーを片手にパソコンの電源を入れかけていた花村美穂は、椅子から少し背筋を伸ばす。
「今日から総務課に配属になった新しい仲間を紹介します。真壁くん、こちらへ」
そう言って課長が手招きすると、フロアの入口に立っていた一人の男性が静かに歩み出た。
(……わ、背、高っ)
すらりとしたスーツ姿に、整った顔立ち。短く切った黒髪がサラサラと流れ、まるで雑誌から飛び出してきたようなその男性が、ふわりとした優しい笑顔で一礼した瞬間、美穂の周囲にざわめきが走る。
「真壁悠人です。よろしくお願いします。これまでは営業と総務の経験があります。経験を活かして、早く戦力になれる様、務めさせていただきます」
低く落ち着いた声、人好きのする優しい笑顔。
歳は二十八歳で、キャリア採用での入社だと聞いた。
二十五歳で今年社会人三年目の美穂よりも長く社会人経験を積んできている後輩社員の姿に、
(…わわ、なんか余裕がある大人な人だなあ)
と美穂は直感的にそう思った。
「じゃあ、真壁くんにはしばらく花村さんの隣の席に座ってもらうから。花村さん、分からないところとかいろいろ教えてあげて。よろしく頼むね」
「は、はいっ!」
部長に声をかけられ、美穂は慌てて立ち上がった。
机の上を整え、隣の空いた席へ視線を向けると、真壁が静かに歩いてくる。
「……あのっ」
自分でも声が少し上ずっているのを感じながら、美穂は精一杯の笑顔を向けた。
「花村美穂と申します。何か困ったことがあったら、遠慮なく言ってくださいね!」
真壁は美穂を見て一瞬、驚いた様に固まった。
ん?どうしたのかな、と思っていたら、
「……ありがとうございます」
それだけ言って、彼は自分の席に座った。
(あれ、……なんか、ちょっと冷たい……?)
先程挨拶をした時の真壁とは少し雰囲気が違う彼に少し戸惑いを感じた美穂は、真壁の様子を不思議に思いながら、そっと自分の席に戻った。
その日一日、真壁はほとんど口を開かなかった。
美穂が業務の説明をする時も、必要最低限の返答しかしない。
質問には的確に答えるし、覚えも早い。仕事は間違いなくできそうだったが、それ以上のことが見えてこなかった。
けれど、美穂以外の人に話しかけられた時は、柔らかな人好きする笑顔で受け答えしている。
(んん……?なんか、私、嫌われてる……のかな?これはどう接したらいいんだろ……?)
美穂は隣の席から何度かちらりと彼の様子をうかがったが、話しかけるタイミングがつかめず、結局何も言えなかった。
(真壁さん入ったばかりだしまだ緊張してるのかもしれないし、そのうち、ね)
そんな風になんとか自分に言い聞かせながら少しぎこちない日々が続き、一週間が経過した。
そして週を空けた月曜日の朝。
「おはようございます」
今日もちょっと緊張しながら、美穂が朝の挨拶をする。少し遅れて、真壁が「おはようございます」と返してきた。
(あっ、先週よりもなんか声が柔らかいかも…?)
そのほんのわずかな変化に、美穂は密かに嬉しくった。
その日の午後、二人は備品発注の確認作業を一緒に行うことになった。
「この在庫数、去年のデータと比べると少し減ってますね」
「えっ……あ、本当だ。よく気づきましたね」
「ありがとうございます」
まだ表情は硬いものの、彼の言葉には少しだけ余裕が感じられるようになってきた。
「それにしても、真壁さんって……すごく仕事が丁寧ですね。細かいところまでちゃんと見てるっていうか」
「……そうですか?」
「はい。私、最初の頃なんて全然ダメで……。しょっちゅう先輩に怒られてました」
「……花村さんは、丁寧に教えてくれるから助かってますよ。課長もよく気がきく人だって花村さんのことを褒めてましたし」
「えっ……」
一瞬、息が止まりそうになった。彼が自分を見て、真剣なまなざしでそう言ったからだ。
(うそ……いま、褒められた……?)
顔が熱くなっていくのを感じ、美穂はあわてて視線を逸らした。
「そ、そんなことないです! 私なんかまだまだで……!」
真壁はそんな彼女の様子をじっと見ていたが、ふっと小さく笑ったように見えた。
(い、今、笑った……? え、嘘、嬉しい……)
その日は、仕事が終わって帰りのエレベーターに乗ったときも、美穂の胸はずっとふわふわと落ち着かなかった。
ほんの少し、距離が近づいたように感じた二週目。
美穂は一週間の業務を終えた金曜日の夜、社会人になってから始めてもう三年目になる一人暮らしのアパートのベッドの中で、ほっとしながら目を閉じた。
(来週は、雑談とかもできたらいいな……)
そんな事を考えながら。
そして更に数日が経過した日のこと。
美穂が昼休みにコンビニに行こうとした時のこと。
「花村さん」
背後から声をかけられ、驚いて振り向くと、真壁が立っていた。
「えっ、ど、どうかしました?」
「……お昼、まだなら、一緒にどうですか」
「え……」
思わずぽかんと口を開けてしまった。まさか彼の方から、食事に誘われるなんて。
「嫌じゃなければ、ですけど」
「あっ、嫌じゃないです!ぜんぜん!」
口が先に動いた。
(な、なんでこんなに緊張してるんだろう、私……)
隣を歩く真壁は相変わらず無表情だけど、歩調を少し合わせてくれているのが分かる。
近くのカフェでランチを注文し、向かい合って座ると、なんとも言えない沈黙が流れた。
美穂は、何か話題、話題、と考えて、当たり障りのない事を聞いた。
「……普段は、一人で食べてるんですか?」
「そうですね。休み時間はゆっくり過ごしたいので、一人の事が多いかな」
「そうなんですね!え、じゃあ、良かったんでしょうか?誘ってもらっちゃって……。私はこうしてお話しできて、嬉しいですけど」
「俺が誘ったんで、もちろんです。……俺も花村さんと話したかったんで」
美穂はその言葉に、箸を持つ手を止めた。
「え……?」
「花村さんみたいな人、職場にいると、すごく助かります。雰囲気、明るくなるというか」
(……なんか、最近たくさん褒めてくれて、嬉しいけど、なんかちょっと恥ずかしいかも……)
赤くなった顔を隠すように、美穂は慌てて味噌汁をすする。
「……そ、そんなことないですよっ、もう……!」
「……俺、花村さんのこともっと知りたいです。これからいろいろ、教えてくださいね。時間が合ったら、またお昼もご一緒できたら嬉しいです」
真壁はそう言うと、美穂に向かってふわりと微笑んだ。
その笑顔がやけに甘くて、その言葉にドキドキと心臓が跳ねて、なんだか今日のお昼は味がよく分からなかった。
そして数週間が過ぎる頃には、美穂は自分でも驚くほど真壁のことが気になるようになっていた。
無口で冷たいと思っていた第一印象は、今やすっかり塗り替えられている。
真壁は仕事が出来て誠実で、他の社員ともチームワーク良く仕事をこなし、何より、いつも美穂のことを気遣ってくれていた。
(……でも、私なんかが気になってるなんて、気づかれたら恥ずかしいな)
いつのまにか、そんな事を思う様になってしまっていた。
一方で、真壁はというと、美穂と出会って以来、二十八年間の人生で初めて、自分から女性を好きになった感情に、心底戸惑っていた。
一目惚れだった。
少し童顔な顔だち、丸くて黒目がちな瞳、栗色がかったセミロングの髪、明るくて柔らかい少し高めな声、穏やかな仕草、醸し出す雰囲気、全てがドンピシャで、初めて美穂に、
「花村美穂と申します。何か困ったことがあったら、遠慮なく言ってくださいね!」
と言われたその瞬間から、この人しかいないと全身が訴えてきて、そんな自分に、戸惑った。
あの時、それをほとんど顔に出さなかったのは、自分でもよくやったと思う。
職場で同僚とうまく接する術なんて、社会人として当たり前に身につけている筈だった。
けれど美穂を前にすると、どうしてもうまくいかない。初っ端から、まるで思春期を拗らせた中学生男子みたいな態度で接してしまい、その週は毎日、一体何をやっているのか、と落ち込みながら帰宅した。
美穂と関わるうちに、どんどん好きになっていってしまった。優しくて、頑張り屋で、誰にでも笑顔を向ける美穂。
自分の様な、処世術の作り笑顔じゃなくて、純粋に、心から向けられる笑顔と優しさに心の底から恋焦がれていった。
気がつけば、得意の処世術を駆使して、さりげなく美穂の情報を他の社員から聞き出していた。
美穂が二十五歳で、新卒からこの会社に入り総務課三年目であることから始まり、独身で今は彼氏もいないということを知れた時は内心、凄くほっとした。
それと同時に、男性社員から密かに人気がある事も分かってしまい、ドロドロとした嫉妬の気持ちも芽生えてしまった。
少し経ち、やっと美穂との距離感をつかめてきて、そして、その笑顔をもっと自分だけに向けてもらいたいと願う自分に気づいてからは、彼は少しずつ行動を変え始めていた。
まだ、出会ったばかりの二人。
けれど確かに、二人の関係は、少しずつ動き始めていた。
見つけてくださり、お読みいただき、ありがとうございました!
糖度高めでキュンとするオフィスラブを書いていきたいと思っております。続きも読んでいただけると嬉しいです!
どうぞよろしくお願いします!
陽ノ下 咲




