アルとの別れは突然に、そしてアルフレードは本来の任務へと戻る
母が亡くなってから、リタはずっと人目につかない森の奥にある村で一人暮らしていた。一人、といっても『独り』ではない。人懐っこい動物たちのおかげで孤独感に苛まれることもなかった。
けれど、人恋しさは少なからずあったらしい。そのことにアルと出会い、気づいた。
アルと暮らし始めてからは、毎日している畑仕事も、釣りも、食事さえも全てが新鮮に思えた。何より、人との会話がこんなに楽しいものだったのだと思い出せた。
だからだろう。終わりがくると分かっていたはずなのに、こんな気持ちになるのは……。
「明日にでもココを出ようと思うんだが。リタはどう思う? 大丈夫そうか?」
一瞬、なにを言われたのか理解できなかった。が、すぐに気づく。なんのためにアルがいきなり上半身裸になったのか。数秒前まで上裸のアルを見て『きゃー』なんて心の中で騒いでいたのに、今は頭から水をかけられた気分だ。けれど、アルの表情はいたって真面目。本気でリタに判断を仰いでいるのだ。リタも表情を引き締めた。
「そう、だね。ケガの痕もよく見ないと分からないくらいに薄くなっているし、貧血症状も治まっているから無理をしなければ大丈夫だと思う」
「無理をしなければ……」
「うん。本当はまだもうちょっと様子を見た方がいいとは思うけど……その様子だと何か急ぎの用事があるんでしょ?」
「ああ。アイツらのせいで予定が狂ったからな。時間が経てば経つほどまずいことになる。……急ぐ必要がある」
「……そっか」
頭に過ぎったのは、アルの外套の内ポケットに入っていた手紙と、指輪かピアスくらいしか入りそうにない小さな箱。他の荷物はあの黒づくめたちに持っていかれてしまった。おそらくアイツらが狙っていたのは、アルが大事に隠していたモノのどちらかだろう。
――気になる。けど、聞いちゃいけない気がして黙っていたんだよね。
結局、この感じだと聞かなくて正解だったようだ。命を狙われるほどの品。絶対にリタは知らない方がいい。
――てっきり彼女さんへのプレゼントかな~なんて思っていたけど。この様子だと違う、っぽい?
アルがリタを前に早々に素を出したのはそのせいかと思っていた。彼女以外とそういう関係にならないように線引きするため。もちろん、アルが言っていた通り、『変に恋心を抱かれても困る』というのも本音だろうが。それとも、彼女さんに早く求婚しないといけない事情があるとか? リタの脳内で物語が勝手に進んで行く。途中で我に返って脳内妄想を止めた。
リタはただの村人だが、母は昔お城で働いていた(と、母から聞いた)。その母から少しだけ貴族事情や常識について『お勉強』として教えてもらったことがあるのだ。そのおかげでアルの振る舞いが上流階級にいる人のそれだと気づけた。
――こんな知識、役に立つことなんて永遠にないと思っていたけど……。
まあ、アルは貴族にしては意外と親しみやすい性格をしているから、もしかしたらお金持ちの商人あたりの息子なのかもしれない。どちらにしろ、準貴族以上なのは間違いない。
「分かった。なら、ちゃんと準備をしておかないとね」
「え?」
「まだ傷痕はうっすら残っているし、その部分がズキズキ痛み始める場合だってある。それに、道中なにかあるか分からないでしょう。なにがあっても大丈夫なように、傷薬とか、痛み止めとか、とにかくいろいろ用意しといてあげる」
「……助かる」
「ふふっ。リタ印の薬は高くつくんだからね~」
「金ははずむ……いや、リタにとってはただのゴミだったな。そうだな。お礼に土産でも買ってこよう」
「え?」
立ち上がろうとしていたリタは驚き、アルの顔をじっと見つめた。どうしたと首をかしげるアル。
「今、お土産持ってくるから~みたいなこと言わなかった?」
「言った。当たり前だろう。これだけ世話になっていて、なんのお礼もしないほど私は甲斐性なしではない」
「へえ……」
「なんだその目は信じていないな?」
「いいえ~」
「待っていろ。絶対に、私は、リタが喜ぶものを買ってきてやるから」
「はいはい。期待せずに待ってますよー」
「っ。まったくおまえは。おまえくらいだぞ。私にそのような態度をとるのは」
「……どおりで」
――態度がでかいわけだ。とは言えず、リタは視線を逸らして、今度こそ立ち上がった。
「どういう意味だ」
「いえ~別に~」
「チッ」
悪態つくアルにも慣れたものだ。始めはその儚げな顔と台詞とのギャップにいちいち驚いていたが、今では紳士的な言動をされた方が『気持ち悪っ』と思ってしまう。
「頭痛薬の丸薬はたくさんあるから分ければいいとして、後必要なのはやっぱり塗り薬かな。持ちがよくなるようにちょっと手を加えなきゃ……足りない分の薬草取りにいってくるね~」
「私も行こう」
「いいよ。別に」
「私の薬だろ。私も手伝う」
「そう……」
なんとなく今は一人になりたい気分だったのだが、仕方ない。
「あれ? 今日はぷっぴぃはついてこないの? マロンもアズーロも」
誰ひとりついてこないのは珍しい。ぷっぴぃなんて姿も見せない。いや、棚の向こうから尻尾が飛び出しているからいるのは分かっているんだが……どうしたのだろうと思いながら、二人で家を出た。
湖に向かって歩いていく。いつもの道のはずなのになんだか変に感じる。心臓が落ち着かない。気づけば互いに無言になっていた。先に口を開いたのはアル。
「なあ」
「なに?」
「リタは……村から出ないのか?」
「え?」
「あ、あの村が悪いと言っているわけではない! ただ、一人であそこに住むのはその……寂しくないのかと思って……」
「別に……一人じゃないから平気だよ」
「そうか……」
偶然にも、アルが言った言葉は、昔村を出て行った一家の息子から言われた言葉とほぼ同じだった。あの時は胸を張って答えられていたのに、今は少しだけ胸が痛んだ。ただ、だからといって村を出て行くという選択肢はリタの中にはない。
――だって、ここには……。
「アルには分からないかもしれないけどさ、物心ついた時からここで暮らしている私としてはこの生活がもう普通なんだよね。外の世界への憧れもないし、村での暮らしへの不満もない。それに、私には動物たちもいるし。だから、私はこの先もずっとここにいると思うよ」
「……なら、ここに来ればまたリタやぷっぴぃたちに会えるってことだな」
「そういうこと! ……時々でいいからさ、会いにきてよ。ぷっぴぃも喜ぶだろうから」
「ああ。ここは息抜きにちょうどいいしな」
「お! アルもここの良さがわかってきたんだね~」
「ああ。ここでは時間に追われることもないし、煩わしい人間関係もない。たまにはこんな暮らしもいいなと思わせてくれる時間だったよ」
「ならよかった」
褒められた気がして嬉しくなって笑えば、つられたのかアルもほほ笑みを浮かべた。その笑みは今までみたどの笑みとも違って……なんだか胸の奥底が熱くなるような、そんな笑みだった。
◇
翌日、予定通りアルは出て行った。
「それじゃあ……」
「うん」
「またな」
「またね」
さよならは互いに告げず、あっさりあいさつを交わし、アルは出て行った。一番悲しんでいたのはぷっぴぃだろう。アルが出て行くギリギリまで鳴いて甘え、最後の最後までアルの背中を見送るようにずっと村の入口から見ていた。
「ぷっぴぃおいで」
リタが呼べば、ようやく諦めたのか肩を落とした様子でとぼとぼと戻ってくる。抱き上げてやると鼻をすんすん鳴らし始めた。リタはその背中を優しく撫でたのだった。
◇
森を出たアルは皇都を目指して歩いた。途中、辻馬車に乗り、何度か乗り換えてようやくたどり着いた頃には体はクタクタだった。もともとアルは肉体労働が得意ではない。頭脳労働が得意なのだ。
――これも全てアイツのせいだ。
アイツが暗殺者なんて差し向けてこなければ、もっと楽な旅になっただろうに。秘密裏に、とはいえ王族であるアルの旅路がきついものにはならないようにと、兄はそれなりの設備が整った馬車と御者に扮した護衛を手配してくれた。それなのに、あの襲撃によってどちらも失ってしまった。
まさかこちらの動きを把握していた上に、あんな人数をかけてくるとは。
アルの任務を妨害するどころではない。アルの命を狙ってのことだろう。おそらく、アルがいないうちにことを進めようとしているはず。そうはさせるか。――兄上、もう少しだけ耐えていてくれ。
「ここには何の用があってきた?」
蔑みと、警戒心を滲ませた鋭い声。
先触れなしの訪問。当然のごとく門番に止められた。本来なら到着前に相応の格好に着替えてからのつもりだったのだが、その着替えが入ったトランクは例の馬車の中。諦めるしかなかった。今アルが着ているのは、リタがくれた元村人の服とフード付きの外套だ。明らかに怪しい見た目。これで簡単に通してくれたらむしろ心配になる。
アルはフードを外した。その下から現れた容貌を見て、門番が息を吞む。
「あ、あなた様は?」
態度の変わった門番に、無言で手紙を差し出す。差し出した指にはボナパルト王国の紋章が彫られた指輪。手紙の封蝋にも同じ紋章。何より、アルの見た目は各国でも有名だった。もちろん、ベッティオル皇国でも。とはいえ、まずは本物かどうかの確認が必要。門番には判断できなかったため、すぐさまもう一人の門番に宰相へ伝えるように頼んだ。その間、門番から向けられる痛いくらいの視線に耐えたアル。――ここが自国なら小言の一つや、二つや、八つくらいは言えたんだが。
しばらくして、門番をしていた騎士が戻ってきた。宰相、ではなく金髪の女性を連れて。思わずアルの眉間に皺が寄る。が、それも一瞬。アルは淑女受けする顔に少しだけの笑みを浮かべた。女性、ステファニアがその笑みを見て衝撃を受けた様に一瞬足を止める。しかし、すぐに我に返った。
「ボナパルト王国の第二王子、アルフレード・ボナパルト様とお見受けしますが?」
「はい。先触れもなく、その上、このような格好で申し訳ありません」
恥じるようにまぶたを少し伏せる。その仕草に門番が詠嘆の溜息を漏らした。
「……なにか事情があったのですね。とにかく、父からは応接室に通すように、と言われておりますのでこちらへどうぞ」
「感謝いたします」
「それと、申し訳ないのですが……父は今手が空いていない状況でして、少々お待ちいただかなければなりません。よろしければ、その間にお召し物を変えますか? こちらで用意したものにはなりますが」
「お心遣いに感謝いたします。お願いしてもよろしいですか?」
「もちろんです」
力強く頷くステファニア。
――そんなに似合わないか。
似合わないのは重々承知していたが、あからさまに顔と服を見比べられての反応は良い気がしない。が、そんな内情は形ばかりの笑顔の下に隠す。
ステファニアに命令され、護衛騎士が持ってきたのは未使用の白シャツに黒のズボンだった。衝立を用意してもらい、その中で着替える。――警戒は解けていないらしい。
後ろに立つ護衛騎士からの視線を感じる。なにも隠し持っていないか調べているのだろう。着替えが終わった後、衝立は片付けられた。
ステファニアと再び対峙する。先ほどアルフレードを監視していた騎士がステファニアの耳元でなにやらささやく。ステファニアは頷いた後、ちらりとアルフレードに視線を向けた。その顔にあるのは警戒、ではなく好奇心。
なんとなく、なにを考えているかが、アルフレードには分かった。今まで何百回、何千回と見てきた表情だ。
ステファニアはアルフレードを見て、『絵姿よりも美しい人なんて初めて見たわ。うわさ以上ね』と見とれていた。
急だったのでシンプルな服しか用意できなかったが、これはこれでアルフレードの儚さ具合が強調されていい気がする。もちろん、華美な衣装も似合うだろうが……アルフレードに似合う服装を想像しようとしたところでステファニアは冷静さを取り戻した。外から複数の足音が聞こえ、自分の役割を思い出したのだ。
「どうぞ、そちらにおかけになってください」
「失礼いたします」
ステファニアに促され、アルフレードはソファーに座った。視界の端でアルフレードが着ていた服とカバンが回収されるのが見えた。が、動じない。調べられたとしても問題はない。カバンの中に入っているのはお金が入った小袋とリタからもらった薬、応急手当に使えそうなアイテムだけだ。――できれば薬だけでも返してもらいたいところだが……返ってこなければ言うだけ言ってみるか。
まもなく、皇帝の到着の知らせとともに扉が開いた。