プロローグ
この世界には、六つの国がある。その中で最も広大な土地を持ち、最も栄えている国――ベッティオル皇国。かつてその国は『精霊に愛された国』と呼ばれていた。
『精霊』とは、人間には到底真似できない不可思議な力を持った存在。その恩恵を一身に受ける『精霊の愛し子』の存在こそが、皇国の繁栄の証であり、絶対的な力の象徴でもあった。
しかし、それも今は昔。現在のベッティオル皇国に、『精霊の愛し子』はいない。「『精霊』に見放された」と言う者もいれば、「繁栄の果てに『精霊』は役割を終えたのだろう」という者もいた。確かな事実は二つだけ。皇国に『精霊の愛し子』はいないということ。そして、それでもなお皇国の覇権は揺らいでいないということ。
国家間の均衡は今後も崩れることはなく、保たれていくのであろう。と、思われていた。――ゼフィール王国で『精霊の愛し子』と思わしき少女が発見されるまでは。
◇
ゼフィール王国、王族の住まうゼフィランサ宮殿。
第三王子エリオットは、鼻歌混じりに廊下を歩いていた。白を基調とした壁には金泥の蔓が隙間なく這い、並べられた絵画の額縁には大粒の宝石が惜しげもなく埋め込まれている。至る所から漂う、むせかえるような金の匂い。根っからの商人であるエリオットにとって、これほど心惹かれる香りはない。
(ここはいつ来ても最高やな。吸い込むだけで懐が温まる気がするわ)
しかし、すれ違う人々の反応に、エリオットの機嫌はわずかに陰った。人々は一様に足を止め、深く頭を下げて王子が通り過ぎるのを待つ。かつての彼らなら、エリオットを「王族の皮を被った卑しい商人」と蔑み、これほど恭しく接することはなかったはずだ。
(……ほんま、面白ないな。王子として評価されるんは不服やけど……まあ今後の展開を考えればこっちの方が都合はええ)
エリオットにとって大事なのは過程よりも数字――結果だ。
(どうせ、最後はわいの思い通りになる)
自分にそう言い聞かせ、エリオットは足を進めた。宮殿内でも一際日当たりの良い、一室へと。
目的の部屋に近づくほどに、複数の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。エリオットは鼻歌を止め、猫背気味の姿勢を軽く正した。それだけで『商人』の顔は鳴りを潜め、代わりに親しみやすい『王子』の顔が浮かび上がる。
扉をノックすると、すぐに返事が返ってきた。
「セシリア嬢~、体調はどうや?」
扉からひょっこり顔を覗かせれば、それに気づいたセシリアの顔が一気にほころぶ。
「エリオット殿下! ……っこほっ」
「あ~、無理はせんでええよ。そのまんまで」
ベッドの上で上半身だけ起こしたセシリアは、彼を迎え入れようとして激しく咳き込んだ。先ほどまで彼女の話し相手になっていたらしい侍女や、近い距離で警護をしていたらしい護衛騎士たちが慌てふためく。
エリオットが近づくと、人々は自然に道を開けた。差し出された椅子に、彼は腰を下ろした。
呼吸を整えたセシリアの顔色は、陶器のように白い。だが、エリオットの訪問を心から喜んでいるのか、その瞳は潤んでいた。
「今日も、来てくださったのですね」
「当たり前やろう。わいはセシリア嬢の後見人なんやから。ほんで、具合はどうや?」
「ふふ。殿下のおかげで、かなり楽、です。皆さん、本当によくしてくださいますし」
セシリアが視線を向ければ、周囲の者たちは感極まったように胸を押さえている。
(ええ感じに信者になっとるな)
エリオットは琥珀色の目を細め、「そうかそうか」と満足げにうなずいた。
「でも、無理はしたらあかんで?」
「はい。ですが、大丈夫です。私には……アウラもいますから」
セシリアの言葉に応えるように、彼女の周りを薄緑色の光る玉が飛び回った。柔らかなそよ風が巻き起こり、セシリアのプラチナブロンドの髪をふわふわと揺らす。いつ見ても不思議な光景だ。皆もその神秘さに陶酔し、ホウッと見惚れている。
しばらくたわいもない会話をした後、エリオットはふっと思い出したような体で本題を切り出した。
「そうや、セシリア嬢。またお願いしてもええかな? 今度のパーティー、わいのパートナーになってほしいんやけど……」
「っはい! 私でよろしければ」
「ええに決まってるやろ。ほな、またよろしくな。準備はこっちでするさかい、当日に向けた体調管理だけは頼むで?」
エリオットは顔を覗き込むようにして、いたずらに笑ってみせた。セシリアの頬が、一気に熱を帯びたように赤く染まる。なんとも初々しい反応だ。彼女は潤んだ瞳で、可憐にほほ笑む。
「お任せくださいませ」
その儚げで健気な姿は、見る者の庇護欲を掻き立てる。だが、エリオットは事務的にうなずき返すと、立ち上がった。
「ほなな」
エリオットが部屋を出た瞬間、背後から激しい咳の音が聞こえてくる。彼がいる間は、必死に耐えていたのだろう。
侍女たちの焦る声が聞こえたが、すぐに静まり返った。おそらくセシリアと契約しているアウラが力を使ったのだろう。その証拠に「なんと神々しい……」「やはりセシリア様は本物の……」という声が聞こえてくる。
エリオットは口角を上げ、その場を離れた。
「……ほんま頼むで、女神様」
来た時と同様、鼻歌を歌いながら廊下を歩いていく。背中に突き刺さるいくつもの視線。中には悪意が多分に含まれているものもある。しかし、そんなものは今の彼にとってはただのノイズでしかない。
次のパーティーで、『女神』をいかに美しく飾り立てるか。それこそが今のエリオットにとって、最優先課題だ。
◇
ボナパルト王国。アルフレードの屋敷にて。
リタは自室で、侍女のアンナから『他国』についての講義を受けていた。母国ベッティオル皇国については異母姉であり、義姉でもあるステファニアから。ここボナパルトについてはアンナやアルフレードから。少しずつ学んできたおかげで、ようやく基礎のようなものはできてきた。けれど、世界は広い。他国については、まだまだ学ぶべきことが山積みだ。
いくら政治に深く関わる予定がない第二王子妃とはいえ、知識は蓄えていて損はない。そのことを、リタは村を出てから痛いほど実感していた。
(お母さんから教わったことも役に立ってはいるけど……やっぱり、それだけじゃ全然足りなかった)
今は亡きリタの母、ピアが持っていた知識は六年以上も前のものだ。当時と今では情勢がかなり違う。その最たるものがベッティオル皇国だ。『精霊の愛し子』がいなくなった影響は大きく、現皇帝夫妻が頑張ってはいるものの、外から見える以上に予断を許さない状況なのだとか。ただ、それでもリタは自分の選択を後悔していない。
リタの夫であるアルフレードは、リタに王族としての公務を強いることはなかった。むしろ、できる限り遠ざけようとしてくれている。「余計なことは気にせず、リタはリタらしく暮らしてるだけでいい」なんて言っているくらいだ。しかし、それではリタの気が済まない。
『できることは自分でやるべし』というのが母からの教えの一つにある。アルフレードがそう言ってくれたからと言って学ぶ機会を捨てるなんてとんでもない。それに、村にいた頃は、朝から晩まで何かしら動いていた。けれどこの屋敷には、あらゆる仕事に専任の担当がいる。リタの出る幕はない。彼女ができることといえば、せいぜい薬作り――その薬作りがこの国のためになっていることをリタは自覚していないが――と、畑仕事くらい。
(アルはそこまで深く学ぶ必要はないって言ってくれてるけど他にすることもないし……意外と『勉強』って楽しいんだもん)
今まで勉強という行為を(意識的に)したことがなかったリタにとってはなにもかもが新鮮で楽しいのだ。そのおかげか、リタはぐんぐんと知識を吸収していた。アルフレードたちも驚くほどに。
「リタ様」
アンナに名前を呼ばれ、リタはノートに落としていた視線を上げた。
「険しい顔をされてますが、なにか気になることでも?」
「ああ、うん。ちょっとね……」
リタはペンを走らせ、今記したばかりの国名の中から二つの国を丸で囲った。
「こうして各国の特徴をまとめていたら、各国の……なんていうのかな、土地の性質? みたいなものが、精霊と結びついている気がして」
「土地の性質と、精霊……ですか」
アンナが不思議そうに首を傾げる。
リタはノートを指差しながら、自分の考えを説明し始めた。
「たとえば、ボナパルトは『木』の性質が強いよね。植物がぐんぐん育つし、過去に一度も食糧難になったことがない。それに、直接精霊の名前がついた『ドライアドの森』っていう森もある」
「はい。豊かな緑は我が国の誇りでもあります」
愛国心の強いアンナの言葉にリタは笑いながら頷き、続きを口にする。
「それで、フェルノラ王国は一年中温かい気候でしょう。ここはロッソ……火の大精霊が喜びそうな国だし。万能解毒剤を作る際にお世話になったポセイドニア王国の特産品は海産物。ここは水の大精霊が喜びそう。テラロカでは上質な土がとれて、割れないくらい丈夫な陶磁器が有名なんだよね。ここはきっと土の大精霊が喜ぶと思う。なんだか……まるで誰かがそう決めたみたいに、綺麗に属性が分かれてるんだよね。ただ……」
リタがツンツンとペンの先で突いているのは丸で囲われた二つの国名。
「ベッティオル皇国と、ゼフィール王国……ですか?」
アンナの問いかけに、リタは小さく溜息をついて頷いた。
「うん。今の私の考えだと、この二カ国だけがどうしても当てはまらないんだよね」
リタが知っている残りの精霊は、光の大精霊と闇の大精霊。そして、風の大精霊だ。けれど、ベッティオル皇国にはこれといった特産品の話を聞かないし、ゼフィール王国は金や鉱石が有名だというけれど、どの精霊とも結びつきそうにはない。
「うーん……やっぱり、私の気のせいだったのかも。変なこと言ってごめんね、アンナ。授業を遮っちゃって」
リタは苦笑しながら頭をかいた。けれど、アンナは窘めるどころか、どこか喜ばしげに目を細めている。
「いいえ。疑問を持ち、考えるということは何より大事なことです。勉強はただ暗記すればよいというものではありませんから。……それに、私もリタ様に言われて、確かに妙だと感じましたもの」
アンナとリタが視線を合わせる。知識を詰め込むだけの『勉強』ではなく、その先にある世界を読み解くための『思考』。二人の間に芽生える好奇心。
「気になる……よね」
「正直に申し上げまして、はい。六か国中、四か国までもが当てはまるのですもの。これを偶然と簡単に片づけるのは、いささか早計な気が……残りの二国にも、『なにか』あるのではないかと思わずにはいられません」
と、アンナは真剣な面持ちでうなずいた。リタも同意しうなずき返す。
「だよね。……でも、これ以上は考えてもわかりそうにないや。今度、お姉様にも聞いてみようかな」
「それはいい考えですね」
ステファニアは『精霊に愛された国』と呼ばれていたベッティオル皇国の皇城にある図書館の本を、すべて読破していると言っていた。そして、その内容もすべて頭に入っていると。ならば、そこにヒントがあるかもしれない。リタは丸印から矢印を引っ張ると『姉様に聞く』と小さくメモを書き加える。
アンナが「もしくは……」と控えめに言葉を継いだ。
「もっと詳しい方々に聞いてみるのはいかがでしょうか?」
リタは数秒の間、沈黙した。
アンナの言いたいことはわかる。詳しい者――それは、どの歴史書よりも長く世界を見てきたであろう、精霊たち自身だ。
けれど、リタの中にその選択肢はなかった。長年、皇族にいいように使われ、傷ついてきた彼女たち。そんな彼女らにわざわざ忌まわしい過去を思い出させるようなことはしたくない。尋ねれば教えてくれるかもしれない。それでも。
だって、これはただの、リタの好奇心の延長なのだ。知っていても知らなくてもきっと困らない内容。ならば、そんなリスクは冒せない。冒す必要がない。
はっきりと言葉に出したことはないが、アンナもリタが『精霊の愛し子』であることにはとっくに気づいているだろう。だからか、それ以上の深追いはしてこなかった。その静かな心遣いが、今のリタには何よりもありがたかった。
「さて、そろそろお時間ですね」
「もうそんな時間?」
「はい。温かいお茶を淹れ直しましょうか」
「うん、お願い」
アンナが微笑み、立ち上がろうとした時。部屋の扉がノックされた。扉が大きく開かれ、一台のティーワゴンが入ってくる。それを押している人物を見て、リタは目を見開いた。
「アル?!」
「ただいま、リタ」
アルフレードがフッと目を細めて笑った。
アンナは心得た様子でワゴンを引き継ぎ、アルフレードは先ほどまでアンナが座っていた席へと腰を下ろした。リタが慌てて机の上のノート類を片付けると、手際よくケーキスタンドと香りの良い紅茶がセッティングされる。アンナは静かに部屋を退出した。
あっという間に、部屋にはアルフレードとリタの二人きりだ。
「疲れただろう。熱心に勉強していたようだし」
「別に……というか、アルこそお疲れ様」
リタから見れば、アルフレードの方がよほど疲れているように見えた。おそらく城での激務を終え、戻って来てろくに休憩もせずにリタの元へと来たのだろう。
(別に無理して顔を見せに来てくれなくてもいいのに……それか私が迎えに行くとか……)
とリタは思うのだが、その提案は以前却下された。「リタは気にせず自由にしていてくれ」と、アルフレードは頑なに言い張るのだ。
そんな彼にじっと見つめられ、リタはたじろいだ。
「な、なに?」
「ふっ」
と耐えかねたようにアルフレードが片手で口元を押さえた。しかし、白魚のような指の間からは笑い声が漏れている。
リタの顔が、一気に熱を帯びた。羞恥心からではない。アルフレードの希少な笑みに当てられたのだ。
世間では「天使の仮面を被った悪魔」だの、「血の通わぬ人形」だのと言われている彼だが、リタの前ではこうして人間らしい表情を見せる。そして、その笑顔に魅了されるのは人間だけではなく――。
「ぷひっ!」
『ああ! アルの笑顔が今日も最高でスイーツが美味いっ!』
突然現れたマイクロブタ――ぷっぴぃは体をぶるると震わせ、恍惚とした表情でアルを見上げている。その手にはしれっとクッキーが握られている。なんとも手癖の悪い。そして、いつの間にか部屋の中にはぷっぴぃも含め、六匹の動物が姿を現していた。いや、正確には動物ではなく精霊だ。
マイクロブタの姿をした光の大精霊ぷっぴぃ。黒猫の姿の闇の大精霊ネロ。赤いやもりの姿の火の大精霊ロッソ。水色のかえるは水の大精霊アズーロ。茶色のはりねずみは土の大精霊マロン。そして、緑色の鳥は風の大精霊ヴェルデだ。皆、リタにとって特別な存在。家族であり、友である。一応、契約を結んでいるのでリタは『精霊の愛し子』でもあるのだが。あまりその自覚はない。その正体を公にするつもりもない。また、リタの秘密を知る者たちもその気持ちを尊重し、秘匿しているのである。リタの実父が前任の『精霊の愛し子』であったダニエーレだということも同様に。
おかげでこうしてリタは平和に暮らしていられるわけだ。
「リタ」
「な、なにアル?」
「そのまま動くなよ……」
近づいてくるアルフレードの端正な顔。
(ま、まつげながっ。毛穴も見えやしない。う、美しすぎる!)
リタの心臓は、壊れた鐘のようにうるさく騒ぐ。そして、それと同じくらいにぷっぴぃの副音声もうるさかった。
『きゃー! いけ! そのままぶちゅっと。今日こそいっちゃうのよー!』
(ぶ、ぶちゅっと?! ちょっとぷっぴぃ何言ってっ)
ぎょっとするリタ。アルフレードの手が頬に伸びてくる。思わずリタはぎゅっと目を閉じた。温かい指先がリタの頬に優しく触れる。
(ひょえっ! ……ってあれ?)
数秒経ったが、何も起こらない。リタは恐る恐る目を開けた。
見ると、アルフレードはハンカチで指先を拭っているところだった。リタの視線に気づいたのか、彼は手を広げてみせる。
「頬に、インクがついていたぞ」
たしかにその指先には、黒のインクが……。
「っ~~~~!!!!!」
リタの顔が着火したように真っ赤に染まる。
「よほど、集中していたんだな」
「ま、まあねっ」
顔を背けながらリタが強がると、アルフレードはいたずらな笑みを浮かべた。その表情にただならぬ気配を覚え、リタは思わず一歩下がった。しかし、その分だけ踏み込んでくるアルフレード。耳元近くまで顔を寄せると、彼は熱い吐息とともに小声で囁いた。
「あまり可愛い反応をするな。……我慢できなくなる」
「が、がっあああああ?!?!?!」
リタは今度は別の意味で顔を真っ赤にし、奇声を発したのだった。




